第2話 無職になれば逃げられる
第2話 無職になれば逃げられる
透真が家を出てから一週間が過ぎても、生活費は振り込まれなかった。幸子は朝になるたびに銀行のアプリを開き、変わらない残高を確認した。千八百四十二円あった現金も、牛乳、食パン、はんなの風邪薬を買ったことで、財布の底には百円玉が三枚と十円玉が二枚しか残っていなかった。
冷蔵庫を開けると、卵が二つと半分に切ったキャベツが入っていた。キャベツの切り口は茶色く変わり、昨夜使ったラップは水滴で曇っている。冷凍庫には食パンが二枚残っていたが、四人で食べるには足りなかった。
幸子は食パンを焼き、包丁で一枚ずつ半分に切った。自分の分はなく、子どもたちの皿へ二切れずつ置く。買い置きの砂糖を溶かした湯をカップへ注ぐと、はんなは両手で持ち上げて首をかしげた。
「ママ、今日は牛乳じゃないの?」
「甘いお湯だよ。お腹が温かくなるから、飲んでみて」
「ママのパンは?」
「ママは、あとでキャベツを食べるから大丈夫」
まなは水色の皿に載ったパンを見比べ、大きい方をはんなの皿へ移した。はんなは何も知らずにパンへかじりつき、口の周りに薄いマーガリンをつける。まなは小さい方を一口だけ食べ、残りを半分に割った。
「これ、ママにあげる」
「まなが食べて。幼稚園でお腹が鳴っちゃうよ」
「昨日も鳴ったけど、先生が笑わなかったから大丈夫。赤ちゃんもお腹が空くんでしょう?」
幸子はパンを受け取れず、食卓の下でワンピースの裾を握った。まなの赤いトレーナーは袖が短くなり、手首が三センチほど出ている。新しい服を買うと言ったまま、春から同じものを着せ続けていた。
「赤ちゃんは、ママが食べたものを分けてもらうんだよ」
「じゃあ、ママが食べないと、赤ちゃんも食べられないよ」
まなは割ったパンを幸子の口元へ差し出した。香ばしい匂いと一緒に、小さな指についた石鹸の香りがした。幸子は一口だけもらい、残りをまなの皿へ戻した。
子どもたちを幼稚園へ送ったあと、幸子は区役所の相談窓口へ向かった。昨夜から同じ黒いマタニティーパンツを履き、毛玉の目立つ灰色のカーディガンを羽織っている。バス代を節約するために三十分歩くと、腹が張り、途中の公園で二度休まなければならなかった。
相談員は、幸子が持参した家計簿と離婚届の写真を見ながら、婚姻費用という言葉を教えてくれた。夫婦は別居していても、収入に応じて生活費を分担する義務があるという。透真が払わなければ、家庭裁判所へ婚姻費用分担調停を申し立てる方法があった。
「夫は、電話にも出てくれません。それでも請求できますか?」
「できます。まずは、ご主人が家を出た日と、それまで受け取っていた生活費を整理してください」
「給料から払ってもらうこともできますか?」
「裁判所で金額が決まり、それでも支払わない場合には、給与などへの強制執行を検討できます。ただ、手続きは簡単ではありません。法テラスや弁護士への相談も考えてください」
幸子は説明を書いた紙を四つ折りにして、母子手帳と一緒にバッグへ入れた。無料相談の予約は二週間後まで埋まっている。それまで食べ物が持たないと考え、透真の会社へ向かうことにした。
神崎不動産の本社は、駅前にある八階建ての自社ビルだった。磨かれたガラス扉には指紋一つなく、受付には白いスカーフを巻いた女性が二人座っている。幸子は雨で濡れたスニーカーを入口のマットで何度も拭いてから、受付へ声をかけた。
「営業部の神崎透真さんをお願いします。妻の幸子です」
「お約束はございますか?」
「ありません。でも、家族の生活に関わる急ぎの用事です。電話にも出てもらえなくて」
受付の女性は困った顔をしたが、幸子の大きくなった腹を見ると、内線電話を手に取った。しばらくして、透真がエレベーターから降りてきた。灰色のスーツに青いネクタイを締め、右手には紙コップのコーヒーを持っている。
「何しに来たんだよ」
「連絡がつかないから来たの。生活費を振り込んで」
「会社まで来るな。恥ずかしいだろ」
「恥ずかしいのは、妊娠している妻と三歳と五歳の娘を置いて逃げたことじゃないの?」
受付の女性たちが視線を伏せた。透真は幸子の腕をつかみ、受付から離れた応接スペースへ連れていく。強く引かれた拍子に腹が張り、幸子は低い革張りの椅子へ手をついた。
「痛い。引っ張らないで」
「大声を出すからだろ。母さんから五十万円の話を聞いたよな。それを受け取って離婚すればいい」
「五十万円で、この先何年暮らせると思っているの? まなとはんなは、あなたと養子縁組している。お腹の双子も、あなたの子どもよ」
「お前が産むって決めたんだろ」
「双子だと分かったとき、名前を考えようと言ったのは誰? 男の子だったらサッカーを教えるって、まなに話していたでしょう」
透真は紙コップの蓋を外し、冷めかけたコーヒーを飲んだ。口元についた雫を親指で拭い、テーブルの上に紙コップを置く。甘いカフェラテの匂いが広がり、朝からパンを一口しか食べていない幸子の胃が縮んだ。
「気が変わったんだよ。四人も子どもを養うなんて無理だから」
「無理かどうかを一人で決めないで。あなたには、家族の生活を支える義務があるの」
「母さんの受け売りか?」
「区役所で聞いてきた。今日中に振り込まないなら、家庭裁判所へ婚姻費用分担調停を申し立てる」
「家庭裁判所?」
「それでも払わなければ、給料への強制執行も考える。私が欲しいお金じゃない。あなたが家族のために払うべきお金よ」
透真の顔から薄笑いが消えた。幸子がバッグから相談窓口でもらった説明書を出すと、透真は奪うように受け取る。数行を読んだところで紙を折り曲げ、幸子の膝へ投げ返した。
「俺を脅すつもりか」
「お願いしても払ってくれなかったでしょう」
「分かったよ。今日中に何とかする。もう帰れ」
幸子は立ち上がったが、腹の張りは治まっていなかった。入口まで歩く途中で、受付の女性が小さな紙袋を差し出す。中には、来客用に用意された個包装のビスケットが三枚入っていた。
「お子さんにどうぞ。雨が強いので、気をつけてください」
「ありがとうございます。でも、会社のものをいただくわけには……」
「賞味期限が近いので、今日中に処分するものです。どうか持っていってください」
女性はそう言って頭を下げた。幸子も頭を下げ、紙袋をバッグの奥へ入れた。三枚のビスケットを、まなとはんなと自分で一枚ずつ食べようと考えた。
幼稚園へ迎えに行くと、はんなは画用紙で作った黄色い花を差し出した。まなは泥のついた上履き袋を持ち、晩ご飯は何かと尋ねる。幸子は冷蔵庫に残ったキャベツと卵で、お好み焼きを作ると答えた。
「お肉も入ってる?」
「今日は入ってないけど、卵を二つ入れるからおいしいよ」
「卵を二つ使ったら、明日の卵はなくなるよ」
「明日は明日で、ママが考える。今日はみんなで温かいものを食べよう」
帰宅すると、幸子はすぐに銀行のアプリを開いた。透真からの振り込みはない。代わりに、家賃を引き落としていた透真名義の口座が使えなくなったという連絡が、管理会社から届いていた。
幸子は小麦粉を水で溶き、細く刻んだキャベツと卵を混ぜた。フライパンへ流すと、焼けた小麦粉の匂いが狭い台所へ広がる。まなとはんなは、ビスケットの袋を開けずに食卓の端へ並べていた。
「食べていいんだよ」
「ご飯のあとに、三人で食べるの」
「一枚余るよ。ビスケットは三枚だから」
「一枚は半分にして、赤ちゃん二人にあげる」
幸子は背を向けて、お好み焼きをひっくり返した。形が崩れ、端がフライパンへ張りついた。箸で寄せ集めて丸く戻していると、スマートフォンが震えた。
透真からだった。振り込みの連絡だと思い、幸子は濡れた手をエプロンで拭いて画面を開く。しかし、表示された文を読んでも意味が分からず、最初からもう一度読み直した。
《残念でした。俺は今日、会社を辞めました》
続けて、笑っている顔の絵文字が送られてくる。
《これで俺は無職です。給料がなければ差し押さえもできないよな。裁判所でもどこでも、好きなところへ行けば?》
幸子の手から菜箸が落ち、フライパンの縁に当たった。焦げたお好み焼きから細い煙が立ち、はんなが鼻を押さえる。幸子は火を止め、窓を開けた。
「ママ、焦げちゃったの?」
「少しだけね。焦げたところを取れば食べられるよ」
「パパから?」
まなはスマートフォンを見ていた。幸子は画面を伏せ、まなの皿へ形の崩れていない部分を載せる。ソースを細くかけると、甘い匂いが焦げ臭さを少しだけ隠した。
「パパは、しばらく帰ってこないって」
「まなが悪い子だったから?」
「違う。まなも、はんなも、何も悪くない。大人が自分の責任から逃げているだけ」
食事が終わる頃、美津子からもメッセージが届いた。
《透真は本日、自己都合で退職しました。収入のない人間からお金を取ることはできません。身の程を知ったら離婚届に署名なさい。五十万円なら、手切れ金として払ってあげます》
幸子は返信欄へ指を置いた。言い返したい言葉はいくつもあったが、一度書いた文章をすべて消す。透真と美津子から届いたメッセージを、日時が見える状態で一枚ずつ保存した。
さらに、透真の勤務先を訪ねた時間、話した内容、退職を知らせる連絡が届いた時間を家計簿の後ろへ書き込んだ。ボールペンの先が紙を破りそうになり、幸子は一度手を止める。台所では、まなが残ったお好み焼きを保存容器へ入れ、はんなが小さな手でテーブルを拭いていた。
「ママ、明日もこれを食べようね」
「うん。明日はお味噌汁も作ろう」
「お豆腐、ある?」
「ないから、キャベツのお味噌汁にしよう。甘くておいしいよ」
子どもたちが眠ったあと、幸子はビスケットを一枚だけ食べた。乾いた生地が口の中の水分を奪い、うまく飲み込めない。ぬるくなった麦茶を飲み、残りの二枚を子どもたちの朝食用に戸棚へしまった。
透真のメッセージをもう一度開く。給料を差し押さえられたくないから退職したと、自分から証拠を残している。幸子には、それがどれほど重要なものか、まだ分からなかった。
ただ、五十万円で離婚届に署名すれば、まなとはんなも、これから生まれる双子も、最初からいなかったことにされる。それだけは分かった。幸子は母子手帳の間に区役所でもらった紙を挟み、そこに書かれた法律相談の電話番号をスマートフォンへ登録した。
「無職になれば、父親を辞められると思っているのね」
腹の中で、双子の片方が強く動いた。幸子は薄くなったパジャマの上から腹を撫で、台所の時計が朝の六時を指したら電話をかけようと決めた。透真が仕事を捨てたのなら、幸子はもう、夫への遠慮を捨てるしかなかった。




