第1話 月五万円の鎖
第1話 月五万円の鎖
五百円玉を握る幸子の指先に、冷蔵庫の冷気がまとわりついた。中にあるのは卵が二つ、半分に切ったキャベツ、三本入りのちくわが一本だけだった。ドアポケットの牛乳は底から二センチほどしか残っておらず、明日の朝、まなとはんなのどちらに飲ませるかを考えなければならない。
幸子は冷蔵庫を閉め、薄桃色のマタニティーワンピースの上から膨らみ始めた腹を撫でた。台所では、もやしを増やして作った焼きそばのソースが焦げ、甘辛い匂いを漂わせている。皿は三枚しか並べていないが、透真の分も必要になるかもしれないと思い、フライパンには一人分を残してあった。
「ママ、牛乳ないの?」
黄色い長袖シャツを着た五歳のまなが、冷蔵庫の前に立っていた。妹のはんなは、袖口にウサギの刺繍があるパジャマ姿で、空になった牛乳パックを振っている。幸子が買ってくると答える前に、まなは妹からパックを受け取った。
「はんな、お水でもいいよ。お姉ちゃんもお水にするから」
「二人とも、明日の朝は牛乳を飲めるよ。ママがあとで買ってくるから」
「でも、お金ないんでしょう?」
まなの言葉に、幸子は台所の隅へ目を向けた。透明な保存袋に入れたレシートと、表紙に油染みのついた家計簿が置いてある。五万円を受け取ってからまだ十七日しかたっていないのに、財布には五百円玉一枚と小銭しか残っていなかった。
玄関の鍵が回り、冷たい外気と一緒に透真が帰ってきた。紺色の細身のスーツに、先月買ったばかりの革靴を履いている。片手にはコンビニの袋があり、中から高級ビールの金色の缶と、千円近い燻製チーズが透けて見えた。
「腹減った。飯は?」
「焼きそばを作ったよ。でも、その前に話があるの」
「仕事で疲れてるんだけど」
透真は椅子へ座り、焼きそばを見るなり眉を寄せた。幸子が冷蔵庫から麦茶を出している間に、ビールの缶を開ける。勢いよく噴き出した泡を指で拭い、そのまま舐めた。
「また、もやしかよ。肉は?」
「豚肉を買ったら、明日の朝の牛乳が買えなくなるの。今月も五万円しかもらってないでしょう」
「五万も渡してるだろ」
「食費だけじゃないよ。子どもたちの衣類も、幼稚園の集金も、私の産婦人科まで全部そこから払ってるの。双子だから、検診も増えるって先生に言われたでしょう」
幸子は家計簿を開き、透真の前へ置いた。食費二万三千八百円、幼稚園の教材費三千円、はんなの風邪薬千二百円と、使った金額を一円単位で記してある。赤いボールペンで囲んだ残金の横には、今朝こぼした麦茶の丸い染みが残っていた。
「これを見て。ぜいたくなんて一度もしてない。それでも足りないの」
「俺は家賃も光熱費も払ってやってるだろ。普通なら、お前が半分出すんだぞ」
「妊娠するまでは私も働いてたよ。でも、双子だから安静にするように言われたの。透真も一緒に先生の話を聞いたでしょう」
「足りないなら、また夜に働けばいいじゃん。得意なんだろ、酒をついで男に笑うくらい」
まなとはんなが食卓の向こうで箸を止めた。幸子は反射的に二人の顔を見たが、まなはうつむき、短く切ったウインナーをはんなの皿へ移していた。幸子は家計簿を閉じ、声が震えないように両手を膝の上で組んだ。
「子どもたちの前で、そういう言い方をしないで」
「本当のことだろ」
「その仕事をしていた私に、結婚してほしいと言ったのはあなたよ。まなとはんなの父親になると言って、養子縁組の書類にも自分で署名したよね」
「昔の話を持ち出すなよ。俺だって、双子までできるとは思ってなかったんだ」
その夜、透真は焼きそばに一度も箸をつけず、燻製チーズだけを食べて寝室へ入った。幸子は残された焼きそばを保存容器へ移し、乾きかけた麺を見てから蓋を閉めた。流しでは、洗剤を節約するために薄めた泡が、子ども用の赤い茶碗に張りついていた。
数日後の午後、幸子がベランダへ子どもたちの靴下を干していると、玄関の呼び鈴が鳴った。白いブラウスに濃紺のカーディガンを重ね、首に真珠を巻いた美津子が立っている。甘い香水の匂いが玄関へ流れ込み、朝から煮込んでいた大根の匂いを押しのけた。
「急にどうしたんですか。透真さんは仕事ですけど」
「あなたに用があって来たのよ。上がらせてもらいます」
美津子は返事を待たず、先の尖ったパンプスのまま玄関へ入った。幸子が慌ててスリッパを出すと、美津子は毛玉のついた子ども用スリッパを避け、一番新しい客用を選んだ。居間へ入るなり、テーブルの上に青い縁取りのある紙を置く。
「これに署名して、印鑑を押しなさい」
幸子は紙を手に取った。離婚届には、透真と美津子の字で必要事項がほとんど書き込まれている。幸子の署名欄だけが、不自然なほど白く残されていた。
「どういうことですか」
「書いてあるとおりです。透真はあなたとの離婚を望んでいます。水商売上がりの女に、神崎家の財産を渡すつもりはありません」
「透真さん本人からは、何も聞いていません」
「あの子は優しいから言えないのよ。あなたと連れ子にまとわりつかれて困っているの」
美津子は白いハンカチを取り出し、テーブルの端についた焼きそばのソースを拭いた。汚れた部分を内側へ折ると、二度と触れないようにバッグへしまう。その仕草を見ながら、幸子は離婚届をテーブルへ戻した。
「まなとはんなは、透真さんの娘です。養子縁組もしています。それに、私のお腹には透真さんの双子がいます」
「だから何だというの?」
「双子は今、五か月です。昨日の検診では、二人とも元気に動いていました。透真さんも写真を見ています」
「産みたいなら、勝手に産めばいいでしょう。父親がいなくても、あなたなら慣れているはずよ」
腹の奥で、片方の子が小さく動いた。幸子はワンピースの上からそこを押さえ、ゆっくり息を吸った。美津子の香水が喉に絡み、吐き気と一緒に朝食のバタートーストの味が戻ってくる。
「今、何と言いました?」
「透真には、もっと釣り合う女性を選ばせます。あなたには今月中に、この家から出ていってもらいます」
「ここは透真さんと私が借りた家です。お義母さんに、出ていけと言われる筋合いはありません」
「家賃を払っているのは透真でしょう。五万円を渡してもらいながら、まだ足りないと騒いでいるそうね。寄生するのもいい加減にしなさい」
隣の部屋で積み木が崩れる音がした。昼寝をしていたはずのまなが、襖の隙間からこちらを見ている。幸子は離婚届を二つに折らず、そのまま美津子の前へ押し返した。
「署名しません。透真さん本人と話します」
「後悔するわよ」
「後悔するかどうかは、私が決めます。子どもたちを侮辱する人の言うとおりにして、よかったと思う日は来ません」
美津子は唇を引き結び、離婚届をバッグへ押し込んだ。立ち上がった拍子に椅子が床を擦り、甲高い音を立てる。玄関を出る直前、美津子は振り返った。
「透真が生活費を一円も払わなくなっても、同じことが言えるかしらね」
その夜、透真は十一時を過ぎても帰らなかった。幸子は子どもたちを寝かせ、何度も電話をかけたが、呼び出し音の途中で切られた。食卓にはラップをかけたアジの開きと、表面に薄い膜が張った味噌汁が残っていた。
日付が変わる頃、寝室のクローゼットが半分空になっていることに気づいた。透真のスーツ、下着、腕時計だけでなく、銀行の通帳と印鑑を入れていた缶も消えている。洗面所からは歯ブラシと電気かみそりがなくなり、棚には使いかけの整髪料が一つだけ残されていた。
幸子は電話を握り、もう一度透真へかけた。今度は呼び出し音さえ鳴らず、機械の声が電源を切られていると告げる。直後に、美津子から短いメッセージが届いた。
《これで分かったでしょう。五十万円で離婚に応じるなら、今週中に連絡なさい》
襖の向こうから、はんなの咳が聞こえた。幸子はスマートフォンの画面を保存し、消えた通帳と印鑑、空になったクローゼットを一枚ずつ撮影した。それから冷めた味噌汁を流しへ運び、明日の朝に食べる焼きそばを冷蔵庫の奥へ入れた。
「五十万円で、この子たちを捨てられると思わないで」
声に出すと、腹の中で二人の子が続けて動いた。幸子は家計簿を開き、透真が家を出た日付と、手元に残った金額を書き込んだ。財布の中にあったのは、千八百四十二円だった。




