第三十二話 第二?の領民
「ごめんなさい……食べないで……っ」
張りつめていた空気の中に、か細い声が震えながら落ちてきた。
視線を向けると、そこには――くーちゃんの糸でぐるぐる巻きにされたまま、ぺたりと地面に額を押しつけている女の子の姿があった。肩は小刻みに揺れていて、今にも泣き出しそうなのが遠目にもわかる。
「私はエル……サキュバスクイーンと、オリジンブラッドのハイブリッドですぅ……っ。なんでも言うこと聞きますから……食べないでぇ……」
……うん。
あの、ひとつだけいいかな。
「食べないよ?」
思わず、すぐにそう返していた。
だって、なんで食べる前提なの。
「ふぇ……?」
恐る恐る顔を上げたエルさんの目が、涙でうるうるしていて、なんだかちょっと小動物みたいで――いや、見た目に騙されちゃダメなんだろうけど。
その視線が、私と、その周囲をぐるりと囲む光景を行き来する。
巨大な蜘蛛たちに、紅い牙の群れ、それから静かに佇むみぅ。
……あ、うん。
これは確かに、誤解するよね。
「えっと……ここ、そういう場所じゃないから。安心していいよ」
なるべくやわらかく言うと、エルさんはまだ半信半疑といった様子で、
「ほ、本当に……?」
と、小さく聞き返してきた。
「うん、本当。本当に食べないから」
もう一度しっかり頷いてみせると、ようやく少しだけ肩の力が抜けたみたいだった。
その様子を見ながら、私は改めて彼女を見つめる。
小柄で、華奢で、どこか儚げなのに、妙に艶っぽい雰囲気をまとった女の子。頭には小さな角、背中には薄い翼。たしかにサキュバス――それも、ただのサキュバスじゃない。
「さっき言ってたけど……サキュバスクイーンとオリジンブラッドのハイブリッド、って……」
思わず口にすると、エルさんはびくっと肩を揺らしながら、こくこくと頷いた。
「は、はい……サキュバス族の中でも上位種のエルダーサキュバス……その中でも頂点に立つのが、サキュバスクイーンで……」
そこまで言って、ほんの一瞬だけ胸を張りかけて――周囲の圧に気づいたのか、すぐにしゅんと縮こまる。
「それに、その……ヴァンパイア族の神祖、オリジンブラッドの血も……入ってて……」
「……なるほどね」
ぽつりと、カスミさんが呟いた。
その声音は落ち着いているけど、内容はまったく落ち着いていない。
「それ、完全に“災厄側”の存在よ」
「やっぱりそうなんだ……」
思わず小さく呟くと、エルさんが慌てたように顔を上げた。
「で、でもっ、好きでこうなったわけじゃないんです……! 気づいたらこうなってて、力があるってだけで狙われて……!」
言葉は必死で、震えていて、でもどこか切実だった。
「それで……ここに来たの?」
ササラが、やさしく問いかける。
エルさんは、少しだけ迷うように視線を揺らしてから、こくりと頷いた。
「強い魔力の気配がして……もしかしたら、安全な場所かもって……」
その結果が、これ。
私は改めて周囲を見渡す。
巨大なアークデーモンスパイダーたちが静かに包囲し、その外側をクリムゾン・ファングの群れが固めていて、さらにその中心にはみぅがいる。
……うん。
「ある意味、安全ではあるね」
ぽつりと漏らすと、ササラがくすっと笑った。
「ええ。少なくとも、襲う側にとっては最悪の場所でしょうね」
たしかに、それは間違いない。
エルさんは、まだ少し怯えているものの、さっきよりはずっと落ち着いた様子で、そろそろとこちらを見上げてくる。
「……あの」
「ん?」
「ほんとに……食べたり、しません……?」
念押しみたいに聞かれてしまった。
「しないってば」
今度は、少しだけ呆れながらも、ちゃんと断言する。
すると、エルさんはその場で、へなへなと力が抜けたみたいに崩れ落ちた。
「よ、よかったぁぁ……」
心の底から安心した、って顔だった。
……うん。
なんだかんだで、この子もきっと――
ここに、居つくことになるんだろうな、って。
そんな予感が、なぜか自然と胸の中に落ちてきた。
カスミさんの話によると、サキュバス族そのものは、そこまで“強い種族”というわけではないらしい。
「単純な戦闘力で見れば、ね」
そう前置きしてから、カスミさんはゆっくりと続ける。
「ただし……相性が最悪なのよ。特に男性相手だと、まず太刀打ちできないわ」
「魅了、ですか?」
私がそう聞くと、カスミさんは小さく頷いた。
「あれはね、防げない相手にはどうしようもないの。理性を奪われるようなものだから。戦う以前の問題になるわ」
なるほど、と私は内心で納得する。
確かに、それは“強さ”とは少し違うけど、厄介さで言えばかなり上の方だと思う。
でも――と、カスミさんは少しだけ声の調子を変えた。
「エルダーサキュバス……その中でも頂点に立つサキュバスクイーンともなれば、話は別」
その視線が、ちらりとエルちゃんへ向けられる。
「直接的な戦闘能力は、他の上位魔族に一歩譲ることもあるけれど……魅了の力も、内包する魔力量も、桁が違うわ。まともに対抗できるのは、魔族の中でもさらに上位の、ごく一部だけ」
「へぇ……」
思わず、感心した声が漏れる。
その“ごく一部”っていうのが、どれくらいすごいのかは想像するしかないけど――少なくとも、普通じゃないのは確かだ。
「そして、そこに加わるのが……」
カスミさんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「ヴァンパイアの神祖、オリジンブラッド」
やっぱり来た、って感じだった。
「ほぼ無敵よ」
さらっと言うけど、全然さらっと流していい言葉じゃない。
「一般的に言われている弱点なんて、ないに等しいし……何より、その不死性が厄介ね」
「不死、って……どのくらいですか?」
自分でも、ちょっと怖い質問だなと思いながら聞くと、カスミさんはあっさりと答えた。
「極端な話、ひとかけらでも肉片が残っていれば、そこから復活できると言われているわ」
「……え」
思考が、ほんの一瞬止まる。
それってもう、“倒せない”って言ってるのと同じじゃないかな。
「でたらめ、ですね……」
「でたらめよ」
きっぱりと断言されてしまった。
そして、その“でたらめ”が、二つ。
「その両方の血を引いているのが――この子」
カスミさんの視線の先で、エルちゃんがびくっと肩を震わせる。
ぐるぐる巻きのまま、小さくなっている姿は、どう見てもそんな大層な存在には見えないのに。
「……潜在能力、すごそうだね」
思ったままを口にすると、なぜかエルちゃんはますます縮こまった。
「ひぅ……」
あれ、なんで怯えられてるの。
でも、そのとき、ふと別のことが気になった。
ひとかけらでも残っていれば復活できる、っていう話。
それって――
「さすがに……食べられて、消化されたら……復活は無理、だよね?」
つい、ぽろっと口から出てしまった。
一瞬、空気が止まる。
「……っ」
エルちゃんの顔が、みるみる青くなっていくのがわかった。
「あ、えっと、ごめん、今のはその、たとえ話で――」
「か、可能性は……あります……」
「え?」
思わず聞き返すと、エルちゃんは涙目のまま、小さく、でもはっきりと続けた。
「排泄物から……復活する可能性は、ありますが……」
「……」
「うんこからよみがえるの、いやですぅぅっ!」
ついに耐えきれなくなったみたいに、ぽろぽろと涙をこぼしながら叫ぶ。
その姿は、さっきまでの“災厄級の存在”っていう説明と、あまりにもかけ離れていて。
……うん。
「それは、いやだよね」
すごく、素直にそう思った。
・
・
・
結局のところ――あのあと、私たちはエルちゃんたちの拘束を解くことにした。
くーちゃんの糸は相変わらずしっかりしていて、解くのにも少し手間がかかったけれど、それでも全員無事に解放できたときには、なんだかほっとした空気がその場に広がった気がする。
改めて数えてみると、エルちゃんと一緒にいたのは、サキュバス族が十二人に、ヴァンパイア族が七人。
「……多いね」
思わずそう呟くと、
「ええ、まあ……それなりの規模の集落だったので……」
と、エルちゃんは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
そのエルちゃんを含めて、総勢二十人。
みんな女の子で、どこか疲れた様子をしているけれど、それでも解放された安心感の方が勝っているのか、表情は少しずつ柔らいでいく。
そんな彼女たちを見て、アリシアが「せっかくだし」と言い出して――そのまま、流れるように歓迎の宴が開かれることになった。
世界樹の根元に灯りがともされて、簡単だけど温かい料理が並び、ハイエルフたちが持ってきてくれた果実なんかも加わって、場の雰囲気はあっという間に賑やかになる。
その中で、私はエルちゃんの隣に座って、改めて話を聞くことにした。
「それで……どうしてここに来たのか、って話なんだけど」
やさしく切り出すと、エルちゃんは少しだけ視線を落として、それから静かに話し始めた。
「……実は、つい最近のことなんです」
その声音は、さっきまでの慌てた様子とは違って、どこか落ち着いていて。
「人族との争いで……魔族の一部が、劣勢に立たされて……」
ぽつり、ぽつりと紡がれていく言葉を、私は黙って聞く。
「それで、新しい力を得るために……近隣の集落を襲う動きが出て……その中に、私たちのいた集落も、含まれていて……」
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「みんな、ばらばらに逃げて……気づいたら、この森の奥まで来てしまって……」
「深淵の森、か」
ササラが小さく呟く。
たしかに、あのまま逃げ続けたら、ここに迷い込んでもおかしくはない。
「……事情は、ササラたちのときと似てるね」
私がそう言うと、ササラは静かに頷いた。
「ええ。立場が違うだけで、やっていることは同じ……かもしれないわね」
少しだけ苦い響きを含んだ言葉だったけど、エルちゃんはそれに反論することもなく、ただ小さくうなずいていた。
しばらくの間、静かな空気が流れて――
その空気を、やわらかく切り替えたのは、アリシアだった。
「事情はわかりました」
凛とした声でそう言って、エルちゃんたちを見渡す。
「もし望むのであれば……あなたたちを、この地の領民として迎え入れます」
その言葉に、周囲が少しだけざわめいた。
エルちゃんも、驚いたように目を見開く。
「た、ただし」
アリシアは、少しだけ表情を引き締めた。
「ここで暮らす以上、規則はきちんと守ってもらいます。これは絶対です」
「は、はいっ」
ぴしっと背筋を伸ばして、エルちゃんが頷く。
……なんだか、ちょっとかわいい。
でも、そのあとで。
アリシアは、ほんの少しだけ頬を赤くしながら、言いにくそうに視線を逸らした。
「あの……それと、ひとつだけ確認を……」
「はい?」
「ここ……その……男性が、いないのだけど……大丈夫?」
その言い方が、なんだかちょっとだけ可愛くて、思わずこっちまで緊張してしまう。
一瞬の沈黙のあと――
「はい! 私は女の子もいけますから、大丈夫ですっ!」
満面の笑みで、エルちゃんがそう答えた。
「……」
「……」
「……それ、大丈夫じゃないやつでは?」
思わず、ぽろっと本音が出てしまった。
でも、エルちゃんはきょとんとした顔で首を傾げているし、アリシアはますます顔を赤くして固まってるし、周りではササラが肩を震わせて笑いをこらえてるし。
……うん。
なんだか、また賑やかになりそうだな、って。
そんな予感が、すごくした。




