第二十九話 第一の領民 前編
「三人でなら、きっと大丈夫よ」
そう言って微笑むアリシアの顔を見たとき、胸の奥に張りついていた不安が、少しだけほどけた気がした。理由なんてない。ただ、彼女がそう言うと、本当に何とかなるような気がしてしまうのだから、不思議だ。
「……うん」
小さく頷きながら、私はゆっくりと息を吐いた。
――その、直後だった。
甲高い音が、空気を引き裂いた。
「――っ!?」
一瞬遅れて、それが“警報”だと気づく。
耳に慣れないはずなのに、体は即座に反応していた。胸の奥がざわりと波立つ。
「侵入者、ね」
アリシアの声が、先ほどまでとは違う緊張を帯びる。
「はい。結界に反応しています」
カスミはすでに周囲へ意識を巡らせていて、その手は自然に剣の柄へと添えられていた。
私はといえば、その音の意味を思い出していた。
ここに住み始めたばかりの頃、“念のため”ということで決めた合図。みぅと、くーちゃんと話し合って作った、防衛のための警報。
侵入者があった場合、結界が反応して、こうして音で知らせる仕組み。
(まあ、こんなところまで来るのなんて……)
普通に考えれば、危険な魔物くらいだろうと思っていた。
人が来るにしても、そう簡単に辿り着ける場所じゃない。
――なのに。
(……来た、ってこと?)
さっきの“クリティカル”が、頭の中で静かに主張する。
「行こう」
短く言って、私は走り出した。
アリシアとカスミも、すぐに続く。
案内役は、すぐに現れた。
木々の影からするりと姿を現したのは、くーちゃんの眷属の一匹――細長い脚を持つ、小型の蜘蛛。私たちを確認すると、迷いなく進行方向を示すように動き出す。
「案内してくれるみたい」
「助かるわね」
その後を追いながら、私は自分でも分かるくらい、心臓の音が早くなっているのを感じていた。
魔物なのか、それとも――
(いや、もう分かってるよね)
あの結果を見てしまった以上、“ただの侵入者”で済むはずがない。
木々の間を抜け、結界の外縁に近い場所へと辿り着いたとき。
私は、思わず足を止めた。
「……え?」
視界に飛び込んできた光景が、予想していたものと、あまりにも違っていたから。
そこには――
「ごめんなさいっ! 命だけはお助けをっ!」
必死な声が響いていた。
くーちゃんの糸にぐるぐる巻きにされ、身動きの取れない状態で地面に並べられているのは、およそ十五人ほどの女性たち。その全員が、地面に額をこすりつけるようにして、揃って土下座していた。
その周囲では、みぅが腕を組んで、じっと様子を見守っている。
逃がさない、けれど手も出さない――そんな距離感で。
「……ええと」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
「これ……侵入者、だよね?」
「そのようですが……」
カスミもさすがに言葉を選んでいる様子だった。
アリシアはというと、少しだけ目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「……ずいぶんと、予想外ね」
本当に、その通りだと思う。
私はもう一度、目の前の光景を見た。
必死に命乞いをする女性たち。
きっちり拘束しているくーちゃんの糸。
そして、それを静かに見守るみぅ。
(……これが)
さっきの結果が、頭の中で静かに繋がる。
(“必要な領民が集まる”……?)
たしかに、人は来た。
しかも、まとめて。
でも――
(トラブルもアリ、って……)
私は、思わず額に手を当てた。
(いきなり重くない?)
◇
「はぁ……おいしいですぅ……」
ついさっきまで、地面に額をこすりつけて命乞いをしていたとは思えないほど、満ち足りた顔でそう呟いた女性を見て、私は思わず遠い目になった。
屋敷の食堂には、ほっとするような空気が満ちている。温かいスープの香りと、焼きたてのパンの匂い。それらに囲まれて、先ほどまで“侵入者”だったはずの彼女たちは、今やすっかり客人のように席についていた。
……いや、客人というより。
(なんかもう、普通に居着きそうな空気なんだけど……)
内心でそんなことを思いながら、私はそっとため息をつく。
とりあえず、交戦の意思がないことは明らかだったし、むしろあの様子では戦うどころではない。だから一度屋敷に招き入れて、落ち着いてもらうことにしたのだけれど――結果として、こうなっている。
「落ち着いたところで、事情を聞かせてもらえるかしら?」
静かに、けれどはっきりとした声でアリシアが切り出した。
「あなた方は、エルフ……でいいのよね?」
その視線は、女性たちの耳へと向けられている。長く、すらりと伸びた耳。人とは明らかに違うその特徴は、説明するまでもなく種族を物語っていた。
「はい」
代表らしき女性が、すっと姿勢を正す。
「正確に言えば、ハイエルフですが」
そう言ってから、彼女は立ち上がり、改めて深く頭を下げた。
「私はリーダーを務めております、ササラと申します」
その動作には、先ほどの必死さとは違う、どこか洗練された気品のようなものがあった。長い年月を生きてきた者特有の落ち着き、とでも言えばいいのだろうか。
ササラはそのまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「私たちは……およそ三百年前に起きた、魔族と人族の争いに巻き込まれ、故郷の集落を失いました」
その一言だけで、空気がわずかに引き締まるのが分かった。
三百年。
さらっと口にするには、あまりにも長い時間だ。
「当時は、三百名ほどの同胞がおりましたが……」
静かな声のまま、彼女は続ける。
各地を転々としながら、生き延びるために移動を繰り返したこと。その中で、安住の地を見つけて離れていった者たちがいたこと。あるいは、旅の途中でトラブルに巻き込まれ、行方知れずになった者たちもいたこと。
そして――意見の相違から、袂を分かった者たちも。
「……次第に数は減り」
淡々と語られるその内容の裏に、どれだけの出来事があったのか、想像することしかできない。
「約三十年前からは、現在の十五名で行動を共にしております」
私は思わず、目の前にいる彼女たちを見渡した。
食事に安堵し、ようやく緊張を解いたような表情の者。静かに話を聞いている者。疲れがにじんでいる者。
どの顔にも、“長く生き延びてきた”という重みがあった。
「その間、私たちは“深淵の森”に身を潜め、暮らしてまいりました」
その言葉に、カスミの視線がわずかに鋭くなる。
深淵の森――名前だけでも分かる。まともな場所じゃない。
「ですが……」
ササラはほんの少しだけ言葉を切り、それから静かに続けた。
「ご存じの通り、あの森は決して安住の地ではございません」
その声音には、ようやく感情の影が差した。
危険な魔物。変化し続ける地形。瘴気の濃淡による環境の悪化。
語られなくても、その一端は想像できる。
「私たちは、危険から逃れるように住処を移し続け……」
そのたびに、より安全な場所を求めて。
けれど、その“安全”は、常に別の何かを犠牲にしてしか得られなかったのだろう。
「結果として、次第に森の奥へ、奥へと追いやられていきました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
――奥へ、追いやられる。
それはつまり、逃げ場がなくなっていった、ということだ。
ササラは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、静かで、それでいてどこか決意を宿している。
「そして……ついに、これ以上退くこともできなくなり」
ほんのわずかに、息を吸う。
「私たちは、森の外へ出る決断をいたしました」
静かに告げられたその言葉は、思っていた以上に重かった。
三百年、外の世界から離れて生きてきた種族が、自らその境界を越えるということ。
それがどれほどの覚悟を伴うものなのか、私には計りきれない。
「ですが……」
そこで、ササラはわずかに苦笑した。
「久しく外界と関わりを持たなかった私たちは、行くあてもなく……」
視線が、ほんの一瞬だけ、こちらへと向けられる。
「彷徨ううちに、この地へと辿り着いたのです」
その言葉を聞いたとき、頭の中で、何かがぴたりと繋がった気がした。
(……ああ)
これが。
(“必要な領民が集まる”って、こういうことか)
確かに、彼女たちは“必要”だ。
戦力としても、知識としても、そして何より――この土地に“人”をもたらす存在として。
でも同時に。
(トラブルもアリ、ね……)
私は心の中で、小さくため息をついた。
三百年の流浪。
深淵の森からの脱出。
行き場のない十五人のハイエルフ。
――これが、軽いわけがない。
「――マン・イーター」
ぽつり、と落とされたカスミの一言は、静かな食堂の空気に、やけにはっきりと響いた。
その言葉を聞いた瞬間だった。
ササラの肩が、びくりと揺れる。
「……っ」
さっきまで落ち着いた様子で話していたはずなのに、その表情が一瞬で崩れて、視線があからさまに泳ぎ始めた。
(あ、これ)
私はなんとなく察してしまう。
(図星の反応だ)
「マン・イーターって……」
つい、口に出してしまう。
「人を食べるの?」
自分で言っておいて、ちょっとだけ背筋がぞくっとした。
だって、ここまでの流れで“深淵の森”なんて単語が出てきているのだ。人食いの何かがいても、不思議じゃない気がしてしまう。
「ち、違いますっ!!」
ササラが勢いよく否定した。
その声は、さっきまでとは打って変わって、どこか焦りを含んでいる。
「わ、私たちは決して、そのような――物理的に人を捕食するようなことはしておりませんっ!」
「物理的に、って言った?」
思わず聞き返すと、ササラははっとした顔になって、一瞬言葉に詰まった。
(あ、今のはまずいやつだ)
沈黙が、ほんの一瞬だけ落ちる。
その隙間を埋めるように、ササラは慌てて言葉を重ねた。
「い、いえ、その……事情がありまして……!」
そうして彼女は、どこか観念したように、小さく息を吐いた。
「……現在の私たちをご覧いただければ分かる通り、ハイエルフは十五名、全員が女性です」
「……そうね」
アリシアが静かに頷く。
「このままでは、一族としての存続は不可能です」
淡々と語られるその事実に、私は思わず口を閉じた。
確かに、それは――どうしようもない現実だ。
「そのため、私たちは……」
ササラは少しだけ言い淀んでから、意を決したように続けた。
「ある程度安全に暮らせる場所を見つけた際、近隣の村へ赴き、男性と関係を持つことで、子を成す機会を得ようとしておりました」
「……なるほど」
カスミが短く相槌を打つ。
「も、もちろんっ!」
ササラは慌てて手を振った。
「無理やりなどではありません! あくまで双方の同意の上でのことですし、私たちにも好みはございますので、誰でもよいというわけでは――」
「そこはちゃんとしてるんだ……」
思わず本音が漏れる。
「当然ですっ!」
なぜか力強く返された。
その勢いに、少しだけたじろぐ。
「ですが……」
ササラの声が、少しだけ落ちた。
「結果として、それが問題を招きました」
「問題?」
アリシアが首をかしげる。
「はい。私たちに声をかけられなかった男性たちが……その……」
言いづらそうに視線を伏せる。
「嫉妬や不満から、事実とは異なる噂を流し始めたのです」
「事実とは異なる、というと?」
カスミが淡々と問う。
ササラは、小さく息を吐いてから、どこか諦めたように答えた。
「“死の森にはマン・イーターがいる。エルフの姿に惑わされるな”と」
「……それはまた、極端な」
アリシアがわずかに眉をひそめる。
私はというと、なんとも言えない顔になっていた。
(いやまあ……気持ちは分からなくもないけど)
誘われた側と、そうでない側。
そこに感情の差が生まれるのは、想像に難くない。
「最初はですね」
ササラが、少しだけ苦笑を浮かべた。
「“マン”を“イートする”……つまり、男性を“いただく”という意味合いだったのですが」
「……ああ」
なんとなく察する。
「それがいつの間にか、“人を食べる魔物”という意味に変わってしまいまして……」
ササラは、どこか遠い目をしながら肩を落とした。
「噂というものは、本当に恐ろしいものです」
「……そうね」
アリシアも小さく頷く。
カスミは特に何も言わなかったけれど、その表情からは「あり得る話だ」という理解が読み取れた。
私はというと――
(なるほどね)
心の中で、小さく息を吐く。
(確かにこれは……トラブルだ)
しかも、ただの誤解では済まない類のもの。
周囲から警戒され、恐れられ、場合によっては討伐対象にすらなりかねない。
「……うん」
思わず、ぽつりと呟く。
「クリティカルって、こういう感じなんだ……」
誰にも聞こえないくらいの小さな声だったけれど、その言葉は妙にしっくりきてしまって、私はひとり、なんとも言えない気持ちで天井を見上げた。




