第二十八話 領民は?
「はぁ……。」
思わず漏れたため息に、間髪入れず背後から腕が回ってくる。
「どうしたの、シズカ?」
耳元で囁くようにそう言って、アリシアがぎゅっと抱きついてきた。柔らかい感触と、ほのかな香り。相変わらず距離が近い。というか、近すぎる。
「別に……ちょっと考えごと」
「考えごとでため息? それは良くないわ」
くすっと笑いながら、さらに頬を寄せてくる。逃げ場がない。
先日、私が倒れてカスミに担ぎ込まれ、アリシアに付きっきりで介抱されてからというもの、このお嬢様のスキンシップは明らかに増えていた。
「……お嬢様、あまり密着しすぎるのはどうかと」
少し離れたところから、落ち着いた声が割り込む。
振り向けば、畑の端で作業していたカスミが、こちらをじっと見ていた。いつも通りの無表情――だけど、ほんのわずかに呆れているようにも見える。
「いいのよ、カスミ。シズカは病み上がりなんだから」
「すでに全快していると、先ほど本人が申していましたが」
「それでもよ」
さらりと返すアリシアに、カスミは小さくため息をついた。
「……過保護が過ぎます」
「心配なのだから仕方ないでしょう?」
そのやり取りを聞きながら、私はなんとも言えない気持ちになる。
アリシアの言い分も分かるのだ。あのとき、私が急に倒れたのがよほど堪えたらしい。「そばにいないと不安になる」なんて、あんな真剣な顔で言われたら、強く拒むこともできない。
……でも。
最近は一緒に寝ることも増えて、そのたびに――なぜか、何も身に着けていない状態なのは、本当にどうかと思う。
しかも、同じ屋根の下にはカスミもいるのだ。
(知られてない……よね?)
ちらりと視線を向けると、カスミはすっと目を逸らした。
(……知ってる気がする)
なんとも言えない居心地の悪さを振り払うように、私は咳払いをひとつした。
「それで、どうしたのですか」
カスミが話を戻す。こういうところはさすがというか、助かる。
「うん、それなんだけど」
私はアリシアの腕の中に収まったまま、畑の方へ目を向けた。
どこまでも続く緑。整然と並んだ作物。風に揺れる葉の音が、さらさらと響いている。
「ちょっと、思ってたのと違うなって」
「思っていたのと?」
アリシアが首をかしげる。
「開拓って、もっと大変だと思ってたの。こう……小さく始めて、苦労しながら、少しずつ形にしていく感じ」
「ふむ」
カスミが短く相槌を打つ。
「のんびり畑を耕して、今日はこれだけ採れたね、って笑って……そんなスローライフを想像してたんだけど」
言いながら、少しだけ照れくさくなる。
「ですが現実は――」
カスミが視線で周囲を示す。
「うん」
私は苦笑した。
「広すぎるんだよね、この畑」
アリシアがくすりと笑う。
「確かに、最初の予定よりはずいぶん広がったわね」
「収穫も、多すぎるし……」
倉庫には入りきらないほどの作物。次々に実る野菜や穀物。どう考えても、三人でのんびりやる規模じゃない。
「もうちょっと、苦労すると思ってたんだけどなあ……」
ぽつりとこぼすと、カスミが少しだけ考えるように目を細めた。
「贅沢な悩みではありますが、一理ありますね」
「でしょ?」
思わず食いつくと、カスミは静かに頷いた。
「規模が大きくなれば、その分管理も労力も増えます。実際の作業は、ゴーレムと農業スパイダーさんたちのおかげで楽は出来ますが……調整は必要かと」
「調整?」
「ええ。作付けの範囲を制限する、あるいは余剰分を別の用途に回すなど」
「例えば?」
そう聞くと、カスミは一瞬だけ考えてから、淡々と答えた。
「売却、備蓄、あるいは――他者への分配でしょうか」
「分配……」
その言葉に、少しだけ心が重くなる。問題はそこなのだ。
「いいじゃない、それ」
アリシアが楽しそうに言った。
「シズカが望む暮らしを守りながら、余った分は誰かの役に立てるなんて、素敵だと思うわ」
「……うん」
アリシアが明るく言うが、根本に気づいていないのだろうか?それとも、元気づけるためにあえて?
その瞬間、アリシアがさらに強く抱きしめてきた。
「ちょ、アリシア、近いってば……!」
「いいじゃない。三人での暮らしを守る第一歩なんだから」
「それとこれとは別問題!」
抗議しながらも、どこかでこの距離が嫌じゃないと思ってしまう自分がいる。
少し離れたところで、カスミがまた小さくため息をついた。
広すぎる畑も、多すぎる収穫も、悪いことじゃない。ただ――
「……結局のところ、問題は私たちしかいないってことよね」
ぽつりとそう言うと、アリシアとカスミがほとんど同時に頷いた。
風が畑を渡っていく。広がりすぎた緑の中に、ぽつんと私たち三人だけ。
「一応、ここってアリシアの領地なんだよね?」
「ええ、そうよ」
当たり前のように返ってくるその言葉に、私は小さく息を吐いた。
「領地ってことは……」
「領民が必要、ですね」
カスミが静かに言い切る。
「だよねぇ……」
「現在の構成は、領主一名、元奴隷の友人が一名、そして護衛兼側仕えが一名。以上です」
「改めて言われると、なんか寂しいね……」
「ええ。とても」
カスミの同意が妙に重たい。
アリシアはというと、困ったように微笑んでいた。
「でも、無理に人を集めるのも違う気がするのよね。後、シズカは友人じゃなくて私の嫁さんだよ」
「無理に集めないというのは分かりますが、領地としては成り立ちません。」
嫁、という言葉をスルーしてカスミが言う。
そう、結局そこなのだ。
どれだけ畑が広がっても、どれだけ収穫が増えても――人がいなければ、それはただの“空いた土地”でしかない。
「どうする?」
アリシアが私を見る。
どうする? と聞かれなくても分かる。
人を増やすしかない。
――その時だった。
ふ、と……視界の奥で、何かが“差し込まれる”ような感覚。
(……あ)
次の瞬間、目の前に現れたのは――二つのダイス。
十面体が二つ、静かに宙に浮かんでいる。
視線だけをほんの少し動かして、アリシアとカスミの様子を窺う。
二人とも、特に反応はない。
ダイスの下に、淡く光る文字が浮かび上がる。
『領民獲得についてのダイスロール』
(あー……なるほどね)
内心で頷きながら、私はその内容を読み取っていく。
一から五で失敗。六から九で限定的失敗。十から十四で限定的成功。十五から十七で成功。
そして――
(ゾロ目……九でファンブル、零でクリティカル、か)
自然と、思考が深く潜っていく。
時間の感覚が、すっと引き伸ばされる。
目の前では、アリシアが何か言いかけているような気がするし、カスミもいつものように周囲を警戒しているはずなのに――そのすべてが、遠く、ゆっくりとしたものに変わる。
(成功率は……ざっくり五割くらい)
頭の中で、冷静に計算する。
(悪くはないけど、安定もしないライン)
こういうのは、たいてい偏る。
出るときは変に出るし、出ないときは全然出ない。
(クリティカル……微妙だなぁ)
“必要な領民が集まるが、トラブルもあり”。
一見良さそうで、絶対に面倒ごとが付いてくるタイプだ。
(ファンブルは論外として……)
できれば、普通に成功か、せめて限定的成功がいい。
(まあでも)
そこで、ふっと肩の力を抜く。
(狙って出せるものでもないしね)
そう。これは結局、“振るしかない”やつだ。
ダイスに手を伸ばす。触れた感触は、やけに現実的で――でも同時に、どこか現実から切り離されているようでもあった。
(さて、と)
軽く息を整える。
どれだけ考えても、ここでは意味がない。決めるのは、私じゃない。
(お願い、って言うのも違うか)
苦笑しながら――私は、ダイスを振った。
ダイスは、音もなく宙に浮かび、ゆっくりと回り続けていた。
指先で触れたはずの感触さえ、どこか遠くに置き去りにされたようで、ただ視線だけが、その行き先を見届けようとするみたいに張り付いている。
(……止まって)
そう思った瞬間、世界がわずかに息を止めたような気がして、回転していたそれは、ぴたりと静止した。
こちらへ向けられた面を見たとき、私は一瞬、自分が何を見ているのか分からなかった。
最初のダイスに浮かんでいたのは、0。
これは失敗が確定したのも同然だ。せめて限定的失敗であれば……もう片方のダイスへと視線が吸い寄せられていく。
――そして、そこにも同じ数字があった。
0。
重なるように並んだ二つの零を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。考えるより先に、あの説明文が、鮮明に頭の中へと浮かび上がってくる。
零と零のゾロ目。それが示すもの。
クリティカル。
同時に、そこに添えられていた一文も、嫌になるくらいはっきりと覚えていた。
――必要な領民が集まるが、トラブルもアリ。
(……うん)
心の中で、どこか他人事みたいに頷く。
(そうだよね)
都合のいいことだけが起こるなんて、そんな甘い話は、最初からどこにもなかったのだと、妙に納得してしまう自分がいる。
むしろ、“必要な領民が集まる”という部分が保証されているだけでも、十分すぎるくらいなのかもしれない。今の私たちにとって、それがどれだけ大きな意味を持つのかは、考えるまでもないのだから。
それでも――
(絶対、面倒なことになるよね、これ)
胸の奥に引っかかるのは、やっぱりそっちだった。
どんな形で来るのかは分からない。
人なのか、状況なのか、それともその両方なのか。
ただ、“トラブルもアリ”という曖昧な言い方が、かえって想像の余地を広げてしまって、じわじわと落ち着かない気持ちを膨らませていく。
その不安を置き去りにするように、ダイスは静かに輪郭を失い、何もなかったかのように消えていった。
ほんの一瞬の出来事。
時間にすれば、まばたき一つ分にも満たない。
「――それで、シズカはどう思うの?」
すぐ耳元で、アリシアの声がした。
途切れていたはずの現実が、何事もなかったように繋がる。風の音も、草の揺れる気配も、そのままの続きでそこにあって、今見たものだけが、ひどく場違いな幻だったみたいに感じられた。
「……え?」
間の抜けた返事をしてしまった自覚はあるけれど、誤魔化す余裕はなかった。
アリシアが不思議そうにこちらを覗き込み、その少し後ろで、カスミが静かに様子を窺っている。二人とも、ほんのわずかな時間の空白にすら気づいていない様子で、それがかえって、さっきの出来事を“私だけのもの”として際立たせていた。
私は小さく息を吐いて、頭の中で言葉を探す。
どう説明すればいいのか、そもそも説明すべきなのか。そんな迷いはあったけれど、これから起こるかもしれないことを考えれば、黙っている方がきっと厄介だと、直感が告げていた。
「……たぶんなんだけど」
ゆっくりと口を開く。
「領民は近いうちに集まりそうな予感がするの」
自分の声が、思っていたよりも落ち着いて聞こえて、少しだけ安心する。
「本当?」
アリシアの表情が、ぱっと明るくなる。その変化があまりにも素直で、胸の奥にほんの少しだけ、温かいものが広がった。
「うん。ただ――」
その続きを口にする前に、ほんのわずかに躊躇う。
言葉にした瞬間、それが現実になるような気がしてしまうから。
それでも、私は小さく首を振って、その考えを追い払った。
「ちょっと、トラブルも起きそうな予感」
アリシアは少し考えるように瞬きをしてから、ふわりと微笑む。
「それでも、人が来てくれるのなら……嬉しいわね」
その言葉は、驚くほどまっすぐで、飾り気がなかった。
「……うん」
私は小さく頷く。
「大丈夫、三人なら何とかなるよ。」
アリシアが明るく言う。
そう、この明るさに、私もカスミさんも救われてきたのだ。
アリシアがそう言えば、何とかなると思える。
そう思えることが、単純に嬉しかった。




