第二十一話 アル・ザークへ 後編
アリシアは、ゆっくりと言葉を選びながら語ってくれた。
父の汚名を晴らすために。
ルーメン子爵家を、見えない謀略から守るために。
そのために彼女は――領地とは名ばかりの、アルザーク地方の領主になることを選んだのだと。
けれど、その“領地”の実態は、ほとんどがあの深淵の森だという。
死の森。悪魔の住まう地。
そんな物騒な呼び名ばかりが並ぶ場所が、領地の九十九パーセントを占めているらしい。
一応、中央部には開けた場所がある、なんて噂もあるらしいけれど……そこに辿り着いた者はいない。つまり、その噂自体が怪しいものだ。
普通に考えれば、そんな場所に向かうなんて正気の沙汰じゃない。
――それでも。
「行くわ」
そう言い切ったアリシアの瞳には、迷いがなかった。
怖くないはずがないのに。
不安がないはずもないのに。
それでもなお、前に進むことを選んでいる。
……ああ、こういう子。
嫌いじゃない。
むしろ――好きな部類だ。
気がつけば、胸の奥に小さな火が灯っていた。
応援したい、っていう気持ち。
そして、それはそのまま言葉になって、口からこぼれた。
「……お手伝いします」
自分でも、少し驚くくらい自然に。
アリシアが目を丸くして、こっちを見ていたのを覚えている。
その後は、カスミも交えて、現実的な話に移っていった。
時間は、あと三日。
それだけしか、この地にいられないらしい。
つまり三日以内に、旅支度を整えて、アルザークへ向かわなければならない。
準備期間としては、正直短すぎる。
けれど――やるしかない。
そして、戦力として数えられるのは、この三人だけ。
「まぁ、予想外にシズカにコストがかかったからねぇ」
アリシアが、ため息混じりにそんなことを言う。
……ぐさっときた。
聞けば、もともとの予算は金貨三十枚だったらしい。
でも、あのガマガエルみたいな貴族が妙に粘ったせいで、値段が吊り上がったのだとか。
カスミの調べでは、あの男と奴隷商は裏で繋がっていて、最初から私を落札するつもりだったらしい。
そこにアリシアが割り込んできた、という構図。
……なるほど、それは恨まれても仕方ない。
とはいえ、アリシアはあまり気にしていない様子だった。
「どうせ私たちはアルザークに行くし、わざわざ追ってきてまで手を出してはこないでしょ」
あっさりしたものだ。
……いや、普通はもっと警戒するところじゃない?
「まぁ、予算が厳しくなったのは確かですが」
カスミも、小さくため息をつく。
二人とも大変そうだ。
……いや、ほんと。
これ、私のせいじゃないよね?
って言いたい気持ちはある。
でも――この二人がいなければ、あのガマガエルに好き放題されていた可能性が高いのも事実だ。
そう考えると、文句なんて言える立場じゃない。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「あの……奴隷商、まだ未払いの金貨が十四枚あるはずです。それと、私の荷物……全部取り上げられてて」
言いながら、ちょっとだけ不安になる。
こういう情報、今さら出しても意味あるのかなって。
でも。
「シズカ、いい情報よっ! えらいわっ!」
ぱっと表情を明るくしたカスミが、そう言って――そのまま席を立った。
え?
止める間もなく、そのまま屋敷を出ていく。
……え、どこ行くの?
ぽかんとしている私とアリシアを残して、カスミは本当にあっさりいなくなった。
そして。
しばらくして帰ってきた彼女の手には――
見覚えのある、私のマジックポーチを含む荷物一式と。
「……金貨、二十枚です」
さらっと差し出される。
「……え?」
思わず間の抜けた声が出た。
いや、ちょっと待って。
未払いが十四枚でしょ?
なんで増えてるの?
というか、どうやって?
カスミは何事もなかったかのように、いつもの無表情で一言。
「交渉です」
……絶対、それだけじゃないよね。
◇
それからの三日間は、文字通り――息をつく暇もないほど忙しかった。
旅に必要な道具を揃え、保存のきく食材を買い込み、それらを運ぶための馬車と馬を手配する。
……正直なところ、思った。
本当に、あの森の中を馬車で進めるの?って。
でも、すぐにその考えは現実に押し流される。
この荷物の量を、女三人で背負って森の中を進むなんて、どう考えても無理だ。それに、何日――下手をすれば何週間かかるかわからない旅になる。寝る場所の確保という意味でも、馬車はほぼ必須だった。
多少無理でも、使うしかない。
そんな結論に落ち着いた。
慌ただしく動き回る昼とは対照的に、夜は三人でテーブルを囲んで話し合いをする時間になった。
……話題は、当然のように私のこと。
信じてもらえないとは思ったけど、それでも私は、できる限り正直に話した。
自分がここではないどこかから来たこと。
あの“ダイス”のこと。
そして――自分の「ジョブ」のこと。
異世界、という部分については、やっぱりいまいち理解はされなかったみたいだったけど。
代わりに、二人は「ジョブ」という言葉に強く反応した。
なんでも、この世界では「ジョブ」を持つ人間はかなり希少で、それだけで特別な存在として扱われるらしい。
……へぇ、そうなんだ。
正直、あまり実感がなかった。
だって、目の前にいるアリシアも「レジェンテス(裏の支配者)」なんていう、いかにもすごそうなジョブを持っているし。
カスミだって、「シャドウ・メイデン(陰に潜みしメイド)」とかいう、名前からして物騒なジョブ持ちだ。
そんな二人と一緒にいると、「ジョブがある=珍しい」という感覚がどうにもピンとこない。
……むしろ、持ってて当たり前、くらいに思えてしまう。
そんな話をした翌日。
カスミが、どこからどうやって集めたのか――とにかく大量の魔導書を抱えて戻ってきた。
ルーメン子爵家の書庫にあったものに加えて、街の魔法屋で買い集めたものまであるらしい。
机の上に積み上げられたそれを見て、ちょっと引いた。
「出発までに、最低限で構いません。水の初級魔法を習得してください」
淡々と、でも有無を言わせない口調で告げられる。
目標は一つ。
初級魔法「クリエイト・ウォーター」。
旅の中で、水を確保できるかどうかは、生死に直結する問題だ。
魔法で水を生み出せるなら、持ち運ぶ水の量を大幅に減らせる。
つまり――荷物が軽くなる。
それだけでも、価値は十分すぎるほどあった。
……うん、やるしかない。
そして私は、魔導書とにらめっこする日々に突入した。
正直、簡単じゃない。
むしろ、かなり難しい。
でも――どうせやるなら。
目標は、水だけじゃない。
お湯も出せるようになること。
そうすれば。
「……お風呂、入れるし」
ぽつりと呟いて、もう一度魔導書に目を落とす。
――うん、やる気は、十分すぎるくらいあった。
◇ ◇ ◇
――そして、今に至る。
視界の奥、意識のさらに深いところに、あのダイスが現れる。
静かに、けれど確かに。
これは――魔物が近くにいる合図。
息をひとつ、飲み込む。
指先の感覚だけを頼りに、私はダイスを振る。
ころり、と転がる音が、頭の中に響いた。
出目は――63。
……本来なら、失敗。
この時点で、魔物とのエンカウントは避けられないはずの数値。
けれど。
「……+57」
小さく、心の中で呟く。
あの虹色のフォーチューンダイス。
その恩恵が、今も確かにここにある。
63に57が加算されて――120。
成功値。
その瞬間、張り詰めていた気配が、ふっと遠ざかっていくのがわかる。
まるで、こちらの存在に気づかなかったかのように。
あるいは――気づいた上で、関わる価値なしと判断されたかのように。
どちらにせよ。
助かった。
「……はぁ……」
小さく息を吐く。
安堵というよりは、疲労に近いため息だった。
……本当に、休む間がない。
少し進めば、またダイス。
また少し進めば、さらにダイス。
そのたびに、心臓がじわりと嫌な音を立てる。
これ――
「私がいなかったら、どうなってたんだろ」
ぽつりと、思考が漏れる。
たぶん。
いや、かなりの確率で。
アリシアたちは、もうここにはいなかったんじゃないか。
それくらい、この森は危険で。
それくらい、このダイスは――重要すぎる。
……なんて。
少しだけ、自惚れすぎかな。
でも。
少なくとも、今この瞬間に限って言えば。
私は、この二人の役に立っている。
確実に。
そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ、あたたかくなった。
――アリシアに買われたこと。
それは、私にとっての幸運だった。
けれどきっと。
それは、アリシアたちにとっても――
同じくらいの幸運だったんだと思う。




