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Eden’s Gate Guardian's ‐エデンの守護者-  作者: Red/春日玲音


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第二十話 アル・ザークへ 前編

ゆっくりと――本当に、呆れてしまうほどゆっくりと、馬車は前へ進んでいる。


体感としては歩くのとほとんど変わらない。むしろ、いっそ自分の足で歩いた方が早いんじゃないかとすら思える速度だ。けれど、それを責める気にはなれない。今、私たちがいるのは「深淵の森」と呼ばれる未開の地。道なんて気の利いたものが存在するはずもなく、そもそも馬車で踏み入るような場所ではないのだから。


それでも文句ひとつ言わず、いや、言えないだけかもしれないけど、必死に進んでくれている馬には、ちょっとした尊敬すら覚える。


御者台では、手綱を握るカスミさんが、周囲に注意を払いながら慎重に馬を操っている。私のご主人様――アリシア様の側近である彼女は、こういう状況でもまったく動じる様子がない。さすがというか、慣れているというか……どちらにしても頼もしい人だ。


そして、その隣で私はというと――。


ひたすら、ダイスを振っていた。


いや、別に暇つぶしとかじゃない。これにはちゃんとした意味がある。今やっているのは、「魔物とのエンカウント判定」。100面ダイスを振って、85以上を出せなければ、魔物と遭遇してしまうという、なかなかにシビアなルールだ。


普通に考えれば、こんな森の中をこの速度で進んでいて、まだ一度も襲われていないなんてあり得ない。とっくに何度もエンカウントしていておかしくないはずだ。


でも――実際には、まだ一度も遭遇していない。


その理由は、最初の判定の時に現れた、あの虹色のダイスだ。


通常の100面ダイスとは別に、ふわりと現れた不思議なダイス。あれを振った時に出た目は「57」。それ以来、私が振るダイスの結果には、常にその「57」が加算されるようになった。


つまり、今の私は――28以上を出せばいい。


成功条件が一気にぬるくなっている。ありがたいを通り越して、ちょっと怖いくらいだ。


正直、この仕組みがどういうルールで動いているのかは、さっぱりわからない。説明もなければ、確認のしようもない。ただ一つ確かなのは――この謎のボーナスダイスに、私はずいぶん助けられている、ということだけだ。


コロコロ、と手の中でダイスが転がる。


森の静けさの中で、その小さな音だけがやけに耳に残った。



「ねぇ、シズカ。さっきから黙ってるけど、調子悪いの?」


ふいに掛けられた声に、意識が引き戻される。


顔を上げると、少しだけ心配そうにこちらを覗き込むアリシア様の姿があった。


……しまった。


ダイスを振るのに集中しすぎて、完全に周囲への意識が抜けていたみたいだ。


とはいえ、今私がやっていることは、脳裏に浮かぶイメージの中での出来事にすぎない。外から見れば、ただ黙り込んでぼんやりしているようにしか見えないのだから、無理もない話だ。


「アリ……ご主人様、なんでもないです」


咄嗟にそう答えて、軽く首を振る。


本当は「ダイスを振ってます」なんて言えるはずもないし、言ったところで意味がわからないだろう。……いや、意味がわからないで済めばまだいい。下手をすれば、頭がおかしくなったと思われかねない。


だから、誤魔化すしかない。


内心では、相変わらずダイスが転がり続けている。


――次も、どうか28以上で。


そんなことを考えながら、私は何でもない顔を取り繕った。


「もうっ、アリシアって呼んでって言ったでしょっ! ご主人様禁止!」


ぴしっとした声で言われて、思わず肩が跳ねる。


……いや、それは無理でしょ。


内心で即座にそう返しつつ、私はちらりと隣に視線を送った。御者台で手綱を握るカスミさん――じゃなくて、カスミに助けを求めるように。


今の私は、アリシアに買われた奴隷だ。この世界にははっきりとした身分の差がある。軽々しく距離を詰めるような真似をしていい立場じゃない。下手をすれば、周囲からどう見られるかもわからないし……何より、自分自身が落ち着かない。


そんな私の視線に気づいたのか、カスミは一度だけこちらを見て、淡々とした口調で言った。


「お嬢様の言うとおりに。そして、私のことも“カスミ”と」


さらっと、とんでもないことを言う。


思わず目を瞬かせるけれど、カスミの表情は変わらない。冗談を言っている様子でもなければ、からかっているわけでもない。ただ、当たり前のことを口にしているだけ、という顔だ。


……本気、なんだ。


「……はい」


小さく頷く。


正直、まだ慣れない。というか、慣れる気がしない。でも――この二人がそう言うのなら、従うべきなんだろう。


それに。


胸の奥で、少しだけ柔らかいものが広がる。


買ってくれたのが、この二人でよかった。


心から、そう思う。


もしこれが別の誰かだったら、こんなふうに言葉を交わすことすらできなかったかもしれない。名前で呼ぶことを許されるどころか、声をかけることさえ許されなかった可能性だってある。


そう考えると――私は、きっと運がよかったのだ。


馬車は相変わらずゆっくりと進み続けている。


その隣で、私はもう一度、そっとダイスを振った。


◇ ◇ ◇


「私があなたを買った、アリシア・ルーメンよ」


そう名乗った少女の顔は、あまりにも整っていて――そして、思っていたよりずっと幼く見えた。


オークションの後、私は屋敷に連れてこられ、そのまま浴室へと案内された。


「身体を清めてください」と、淡々とした口調で言われて。


……ああ、そういうことか。


嫌でも理解してしまう。


これから何が起こるのか、想像するのは難しくなかった。


だから私は、覚悟を決めた。


逃げることも、拒むこともできない立場だと、ちゃんとわかっているから。


せめて、無様にならないように。


そう思って、体の隅々まで丁寧に洗い流した。髪も、指の先も、全部。時間をかけて、できる限り綺麗に整えて――用意されていた、やけに薄いワンピースを身にまとった。


……準備は、できている。


そう自分に言い聞かせながら、私はアリシアの前に膝をついた。


(はぁ……初めてが女の子かぁ)


内心で小さくため息をつく。


思うところがないわけじゃない。でも、それをどうこう言える立場じゃないのも理解している。


求められれば、応じるしかない。


それが、今の私だ。


――そう、思っていたのに。


「なんでそんな薄着なの? 寒くないの?」


不思議そうに首を傾げるアリシアの声に、思考が止まる。


……え?


「えっと……あの……どうせ、すぐ……脱がされるの……でしょ?」


恐る恐る答えると。


一瞬、アリシアはぽかんとした顔をして――


次の瞬間、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていった。


そして。


「バカぁっ! 何考えてるのよっ!」


思いきり怒鳴られた。


……え、なんで?


怒られるようなこと、言った?


いや、でも、この流れなら普通そういう意味だよね? お風呂に入らされて、薄着にさせられて、部屋に呼ばれて――って、どう考えてもそういう……。


混乱している私をよそに、アリシアはまだ顔を真っ赤にしたまま、わなわなと震えている。


「そ、そういうつもりじゃないから! 変な勘違いしないでよねっ!」


必死に否定するその様子を見て、ようやく――


ああ、これ。


本当に違ったんだ。


と、理解する。


……じゃあ、この状況、何?


ますますわからなくなって、私はただ黙ってその場に固まるしかなかった。


温かいお茶の湯気が、ゆらゆらと揺れている。


さっきまでの妙な空気も、アリシアがようやく落ち着いたことで、なんとか収まった。呼ばれてやってきたカスミも加わり、三人でテーブルを囲む形になる。


……正直、まだちょっと気まずい。


さっきのやり取りを思い出すたびに、アリシアがまた赤くなりそうだし、私もどういう顔をしていいのかわからない。


そんな空気の中で、アリシアはぽつりぽつりと話し始めた。


どうして私を買ったのか。


これからどこへ向かうのか。


そして――それが、どれだけ危険なことなのか。


話を聞き終えた私は、湯呑みを手にしたまま、少し考えてから口を開く。


「えっと……つまり、これから自殺行為に近い場所に行くから、カスミ一人だと寂しいし……その、道連れとして奴隷を買った、ってことですよね?」


できるだけ簡潔にまとめた、つもりだった。


――その瞬間。


「ちがぁぁうっ! そうじゃなくてっ!」


アリシアが、がたんっと勢いよく立ち上がる。


びくっと肩が跳ねた。


「……近いかもしれないけど、そうじゃないのっ!」


顔を赤くしたまま、でもさっきとは違う種類の必死さで否定してくる。


……え?


思わずカスミの方を見るけど、彼女はいつもの無表情のまま、お茶を一口飲んでいるだけだった。


いや、でも。


「……違わない、ですよね?」


確認するように小さく呟く。


だって、話の内容をそのまま要約しただけだし……間違ったことは言ってないはずだ。


むしろ、だいぶオブラートに包んだつもりなんだけど。


するとアリシアは、言葉に詰まったように口を開いたり閉じたりして――


「そ、それは……その……っ!」


うまく反論できないのか、視線を泳がせている。


……あ、これ。


納得はしてなくても、そう見えることは間違ってないようだ。……本人に違う思惑があったとしても、結果としてみれば……ということ。


なんというか――気持ちとしては違う、みたいな。


そんな面倒くさい感じが、ひしひしと伝わってくる。


私は小さく息をついて、湯呑みを口に運ぶ。


……うん、やっぱり。


この娘、めんどくさい。


でも同時に――ちょっとだけ、おかしくもあった。



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