第十七話 奴隷オークション
薄暗い石造りの一室に、静かな呼吸の音だけが落ちていた。
窓は小さく、高い位置にひとつ。鉄格子越しに差し込む夕暮れの光が、部屋の床に細長い影を落としている。
その影の端、粗末な寝台に腰掛けたまま、静香は身じろぎひとつしなかった。
――外から見れば、打ちひしがれているようにしか見えないだろう。
実際、部屋に出入りする侍女奴隷たちも、彼女をそう判断したに違いない。視線を合わせようとせず、必要最低限の言葉だけを残して去っていく態度が、それを物語っていた。
だが、静香の内側はまったく違っていた。
(考えろ……とにかく、情報を集めないと)
膝の上で握りしめた手に、じんわりと汗が滲む。
ここはどこなのか。
自分はどんな立場に置かれているのか。
そして――どうすれば、この状況から抜け出せるのか。
何ひとつ分からないままでは、動きようがない。
幸い、完全に孤立しているわけではなかった。食事を運んでくる侍女奴隷や、湯浴みを手伝う者たちから、断片的ながらも情報を引き出すことには成功している。
その中でも、まず重要なのは――貨幣価値。
(銅貨、大銅貨、小銀貨、銀貨、小金貨、金貨……)
頭の中で順番に並べる。
それぞれ十枚で一段上の貨幣に相当する。
つまり、銅貨十枚で大銅貨。銅貨百枚もしくは大銅貨十枚で小銀貨一枚。そこからさらに積み重なっていく仕組みだ。
(……銅貨一枚が、大体百円くらい)
色々計算すると、大体そんな感じになる……が、一概にそうと決めつけることが出来なかった。
街に入るときの出来事を――銅貨二枚を払えなかった、あのときの視線。
(たった二百円程度、って感覚じゃ通用しない)
宿代が大銅貨一枚。
つまり銅貨十枚分。
日本円に換算すれば千円ほどだが、感覚としてはもっと重い。
むしろ、生活水準を考えれば、それ以上の価値があると見た方が自然だった。
(物価も、生活レベルも……地球で言う発展途上国に近い、か)
ゆっくりと息を吐く。
思考を巡らせるたびに、この世界の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
そして、もう一つ――社会の構造。
(身分制度……貴族と平民、それに奴隷)
言葉にするだけで、胸の奥がざらつく。
自分が今、どの立場に置かれているかなど、考えるまでもない。
けれど、完全な無法地帯ではないらしい、というのがせめてもの救いだった。
法は存在し、建前の上では守られている。
貴族であっても、理由もなく人を斬り捨てるような真似はできない。
平民も、耐えかねれば上に訴えるか、土地を捨てて逃げることができる。
(……まあ、“表向きは”ってやつだけど)
静香は小さく、皮肉げに息を漏らした。
結局のところ、力の差は埋まらない。
貴族は貴族であり、平民は平民。
そして奴隷は、そのさらに下。
それでも――完全な絶望ではない。
(少なくとも、無秩序じゃない)
ルールがある。
常識がある。
ならば、それを理解すれば――隙は生まれる。
静香はゆっくりと顔を上げた。
窓から差し込む光は、すでに赤みを帯びている。
オークション迄残された時間はあとわずか。
(時間はない。でも……ゼロじゃない)
膝の上で握っていた手を、静かに開く。
指先の震えは、もうほとんど消えていた。
(情報を集めて、考えて……動く)
その瞳に、かすかな光が宿る。
それは、諦めではなく――生き残るための意志だった。
静香は、誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
「ステータス、オープン。ログ参照」
その瞬間、視界の奥に淡い光が滲む。
空中に、半透明の板が幾重にも展開されていく。数値と文字列が整然と並び、冷たい規則性をもって彼女の過去を映し出した。
指先で触れるように意識を動かすと、ログが滑る。
過去の行動が、淡々と、容赦なく記録されている。
――売買契約。
その一行に辿り着いた瞬間、静香の思考が止まった。
「……やっぱりだ……」
小さく、吐息のようにこぼれる声。
だが、その瞳には確信の光が宿っていた。
この世界には、法がある。
曖昧で、穴だらけで、権力者に都合よく歪められることもある。
それでも――完全に無視できるものではない。
ログは嘘をつかない。
少なくとも、このシステムが存在する限り、「事実」はここに固定される。
静香は視線を走らせた。
まず、装備品。
記録上は「喪失」――つまり窃盗扱いだ。
けれど現実では、奴隷商が「預かっている」と言い逃れる可能性が高い。
だがそれも、所有権が確定すれば話は変わる。
(……主人が決まった時点で訴えれば、取り返せる可能性はある)
自分の手に戻るとは限らない。
それでも、「奪われっぱなしではない」という事実は大きい。
さらにスクロールする。
――売買契約:金貨十五枚。
その下に続く記録。
――支払い:金貨一枚。
――残額:十四枚(未払い)。
静香の指が止まった。
「……杜撰すぎるでしょ」
思わず、呆れが混じる。
おそらく奴隷商にとっては日常だったのだろう。
どうせ奴隷に金など持たせない。
ならば最初から渡す必要もない――そんな雑な理屈。
だが、ログは違う。
ここにははっきりと「未払い」と刻まれている。
つまり契約そのものが、未完了の状態で残っている可能性が高い。
(……もし売値が、金貨十四枚以下なら)
そこまで考えた瞬間、心臓が一つ大きく脈打つ。
(その場で、買い戻せる……)
あり得ない話ではない。
むしろ、この状況で掴める唯一の現実的な抜け道だ。
静香はゆっくりと息を吐いた。
希望と呼ぶには細すぎる糸。
けれど、確かに存在する。
あとは――
「フォーチューンダイス……99」
かすかに呟く。
運命に干渉する、あのスキル。
99という出目が、どちらの運命に傾くのか……
静香は視界のウィンドウを閉じた。
光が消え、薄暗い現実が戻る。
石の床の冷たさ。
鎖の重み。
かすかな鉄の匂い。
すべては何も変わっていない。
それでも――
(やれることは、ある)
そう思えた瞬間、張り詰めていた意識がふっと緩んだ。
考え続けていた思考は、次第に輪郭を失っていく。
可能性、計算、リスク――それらが溶け合い、やがて闇に沈んでいく。
静香は、いつの間にか目を閉じていた。
静寂の中で、微かな寝息だけが残る。
彼女の手にはまだ何もない。
だが、掴むための「手段」だけは、確かにそこにあった。
◇
ざわめきは、途切れることなく続いていた。
壇上では、次々と少女たちが呼ばれ、値が付き、落とされていく。
乾いた槌の音が、そのたびに響く。
「金貨七枚!」
「十枚!」
「……十五!」
歓声にも似た熱と、欲望を押し殺したような沈黙が交互に場を満たす。
値は安いもので金貨五枚、高いものは三十枚以上。平民が手を出せるレベルをはるかに超えている。という事は、ここのお客さんは、皆貴族という事。
落札された者は、そのまま急かされるように連れ出され、買い手もまた長居を嫌うように席を立っていく。
それでも――
静香の順番が近づく頃には、会場の席はまだ半分ほど埋まっていた。
逃げ場のない視線。
値踏みする目。
息が詰まりそうな空気。
名前を呼ばれ、壇上に上がる。
「――開始、金貨十枚!」
その瞬間、間を置かず声が飛ぶ。
「十二!」
「十五だ!」
「十八!」
(……早い)
静香の思考とは無関係に、値が跳ね上がっていく。
まるで、商品としての価値だけが独り歩きしているかのように。
「二十七!」
「三十!」
空気が変わる。
三十枚を越えたあたりから、声は減り、代わりに重みが増した。
軽い冷やかしや衝動では踏み込めない領域。
「三十一……」
「三十三」
「三十五」
一つ一つの数字が、鈍く、確実に積み上がっていく。
やがて――
「金貨三十九枚」
その声を最後に、ぴたりと止まった。
沈黙。
静香は、ゆっくりとその声の主を見る。
小太りの男。
脂ぎった指。
ねっとりと絡みつくような視線。
(……最悪)
理屈ではなく、本能が拒絶する。
このまま槌が落ちれば、自分はあれのものになる。
喉が、わずかに強張る。
――そのとき。
「金貨四十枚!」
空気を裂くような、澄んだ声。
場違いなほどに通る、凛とした響き。
ざわめきが広がる。
視線の先――そこにいたのは、銀髪の少女だった。
この場に似つかわしくない少女……だが、その眼差しはまるで場のすべてを見下ろすかのように静かで、強い意志があった。
「な……っ!」
小太りの男が狼狽える。
「よ、四十枚と……小金貨一枚!」
引きつった声。
無理に積み上げた見栄。
(ケチ……)
静香の中で、妙に冷静な感想が浮かぶ。
だが次の瞬間――
「金貨五十枚」
間髪入れず、少女が告げた。
一切の迷いも、駆け引きもない。
ただ、断ち切るような一言。
場が凍る。
五十枚――
それは、もはやこの場の均衡を壊す額だった。
小太りの男の顔が歪む。
何か言おうとして、しかし言葉が出ない。
額に浮かぶ汗。
揺れる視線。
だが――
それ以上、声は上がらなかった。
完全な沈黙。
競りは、終わった。
「……五十枚、他にないか!」
一度。
二度。
確認の声が虚しく響く。
誰も動かない。
そして――
カン、と乾いた音が会場に響いた。
「落札!」
その瞬間、空気が一気に緩む。
ざわめきが戻り、人々は次の興味へと意識を移していく。
静香は、ただ立ち尽くしていた。
五十枚。
想定を大きく超えた金額。
そして――
あの男ではなく、銀髪の少女。
視線が合う。
少女は、わずかに顎を引いた。
それは命令でも、感情でもなく――
ただ「決まった事実」を受け入れさせるような仕草だった。
静香は、ゆっくりと息を吐く。
(……とりあえず、最悪は回避、かな?)
自分を買ったのが女の子ならば、少なくとも性的なアレコレを強要されることはない……はず。……ないよね?
そう思いながらも、胸の奥の緊張はまだ解けない。
自分がどこへ向かうのか。
それは、まだ何一つ分かっていなかった。
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