第十八話 子爵令嬢アリシア 前編
子爵令嬢アリシアは、まだ14歳という年若さを感じさせながらも、すでに完成された美しさの片鱗を纏っている。
腰まで届く銀髪は、陽光を受けるたびにやわらかな光を弾き、まるで淡い月光をそのまま編み込んだかのように揺れる。ゆるやかに波打つ髪はふんわりと空気を含み、動くたびに軽やかに広がっては静かに収まる、その一つ一つの動きさえ優雅だ。
そして何より人の目を引くのは、その瞳――左右で色の異なるオッドアイ。右は深く燃えるようなクリムゾン、情熱や強い意志を宿した炎の色。左は澄み渡るアクアマリン、静謐でどこか神秘的な水の色。相反する二つの色が同時に存在することで、彼女の表情には不思議な奥行きと、簡単には読み取れない複雑さが宿っている。
まだ幼さの残る輪郭に、ほのかに差し込む大人びた気配。来年には成人を迎えるという節目を前に、少女と淑女の境界に立つ――そんな儚くも気高い美しさを持つ令嬢である。
◇
ドルーガ・ルーメン子爵――その名を持つ男は、重厚な執務机に肘をつき、深く頭を抱えていた。
静まり返った執務室には、紙をめくる音すらない。ただ机の上には、いくつもの書簡と報告書が乱雑に広げられている。いずれも同じ内容を指し示していた――ルーメン子爵家の“終わり”を。
発端は、王都から届いた一通の通達だった。
それは、ルーメン領内に存在する古い鉱山についての調査報告。かつて繁栄を支えたその鉱山から、近年になって「禁制資源」が採掘されていた疑いがあるというものだった。本来であれば決して扱ってはならないそれは、国家の管理下に置かれるべき危険物質。無許可での採掘は、重罪に等しい。
だが、ドルーガに覚えはない。
報告書を何度読み返しても、そこに記された採掘記録、取引の痕跡、関係者の名――すべてが巧妙に整えられており、「ルーメン子爵家が関与している」以外の結論を許さない形になっていた。
――嵌められた。
そう理解した時には、すでに遅かった。
王都は調査団の派遣を決定し、さらに一部の貴族たちがこの件を利用して、ルーメン家の責任追及を強く求め始めていた。政治的な圧力は日増しに強まり、もはや“誤解”や“冤罪”で済まされる段階ではない。
そして、追い打ちをかけるように浮上した、もう一つの問題。
――アリシアの存在だった。
彼女のオッドアイ。
クリムゾンとアクアマリン――その特異な瞳は、古くから「異端」や「不吉」の象徴として語られてきた色の組み合わせだった。普段であれば、多少の噂で済んでいたかもしれない。
しかし今は違う。
「禁制資源」――それは、古代に封じられた力と関係があるとされるもの。そして、その力に“適合する者”の特徴として、古文書にはこう記されている。
――「相反する色の瞳を持つ者」。
誰かが、意図的に結びつけたのだ。
鉱山の違法採掘と、アリシアの存在を。
やがて王都から届いたのは、事実上の最後通告だった。
「子爵家の潔白を証明できぬ場合、家名の剥奪および財産没収も視野に入れる」
さらに非公式ながら、ある提案がもたらされる。
――“原因”を切り離せば、家は残る可能性がある。
つまり。
アリシアを、切り捨てろということだった。
ドルーガの指は、机の上で震えていた。
父としての情と、当主としての責務。そのどちらを選んでも、何かを失うことは避けられない。
そして彼は理解していた。
これは選択ではない。
すでに、選ばされているのだと。
重く、押し潰されるような沈黙の中で――ルーメン子爵家は、一人の少女を手放すことでしか生き延びられない崖っぷちに立たされていた。
◇
重苦しい沈黙が、ルーメン子爵邸の執務室を満たしていた。
分厚い帳簿も、壁に掛けられた紋章も、すべてがどこか遠く感じられるほど、空気は張り詰めている。
ドルーガは机に肘をつき、額に手を当てたまま動かなかった。
その背は、かつて戦場を駆け抜けた男のものとは思えぬほど、弱々しく沈んでいる。
——守れなかった。
その思いが、胸の奥で何度も反芻される。
家を守るために尽くしてきた。
領民のために、家名のために、誇りのために。
だが今、彼はそのすべてを天秤にかけられ、最も守りたかったものを差し出そうとしている。
「……父上」
静かな声が、その沈黙を破った。
顔を上げると、そこにはアリシアが立っていた。
まっすぐにこちらを見つめるその瞳には、迷いがなかった。
——こんな目を、いつ覚えたのだ。
ドルーガの胸が痛む。
幼い頃は、庭を駆け回り、花を摘んでは無邪気に笑っていた少女だった。
転べば泣き、抱き上げれば安心したように眠った。
その娘が今、自ら運命を選ぼうとしている。
「すべて、聞きました」
アリシアは一歩、歩み寄る。
その足取りは軽やかでありながら、どこか決意に満ちていた。
「家のために……いいえ」
一瞬だけ言葉を区切り、彼女は小さく首を振る。
「父上の苦しみを、これ以上見ていられません」
その言葉は静かだった。
だが、確かにドルーガの胸を抉った。
彼は思わず立ち上がる。
「ならぬ!」
思いのほか大きな声が響いた。
「お前に背負わせるものではない! これは私の責任だ! 私が……」
言葉が続かない。
自分でも分かっているからだ。
——もう、打つ手がない。
そのとき、控えていた家令が一歩前に出た。
「恐れながら、閣下」
落ち着き払った声だった。
感情を一切挟まぬ、あくまで現実だけを見据えた声。
「ひとつ、策がございます」
ドルーガは顔をしかめた。
だが、否定する余裕すらない。
「……申せ」
「辺境の地、アル・ザークの開拓を、引き受けるのです」
その名が告げられた瞬間、空気が凍りついた。
アル・ザーク。
それは地図の端に記された、ほとんど“死地”と同義の土地。
近隣の山にはドラゴンが棲み、広大な森には災厄級の魔物が跋扈する。
開拓どころか、足を踏み入れることすら忌避される場所。
「……正気か」
ドルーガの声は低く、怒りを含んでいた。
「無論、承知しております。ですが——」
家令は一切動じない。
「引き受け手のない土地を名乗り出て、なおかつ令嬢を領主として任命する。これ以上なく“献身的”な姿勢にございます。疑いを払うには、十分すぎるかと」
つまりは——
表向きは忠義。
だが実際は、戻れぬ地への追放……いや処刑だ。
「死ねと命令しろと言うのか……私に、娘を」
絞り出すような声だった。
そのときだった。
「受けます」
はっきりと、アリシアが言った。
ドルーガは目を見開く。
「アリシア……!」
彼女は父の前に進み出ると、静かに膝をついた。
「父上。どうか、お許しください」
その姿は、どこまでも凛としていた。
「わたくしは、ルーメンの娘です。家が苦境にあるとき、何もせず守られるだけでいることはできません」
「違う……!」
ドルーガは首を振る。
「お前は、そんなことのために生まれてきたのではない!」
「いいえ」
アリシアは顔を上げた。
その瞳には、揺るがぬ光が宿っている。
「父上が苦しんでいるのに、見ているだけの娘でいるくらいなら……」
一瞬だけ、声が震えた。
だが、すぐに立て直す。
「そのほうが、よほど耐えられません」
ドルーガの言葉が止まる。
何も言い返せない。
目の前の少女は、もはや守られるだけの存在ではなかった。
自ら選び、背負い、進もうとしている。
——それでも。
それでも父としては、認められるはずがなかった。
「……帰ってこられぬぞ」
かすれた声で、ようやくそれだけを言う。
アリシアは、わずかに微笑んだ。
「はい」
その返事は、あまりにもあっさりとしていた。
「ですが——」
彼女は立ち上がる。
「必ず、生きて、お家のために助力します」
その言葉に、根拠はない。
だが、不思議と虚勢には聞こえなかった。
「わたくしは、父上の娘ですから」
その一言が、ドルーガの胸を深く打った。
誇りと、絶望と、愛情と。
すべてが入り混じり、言葉にならない感情が込み上げる。
やがて彼は、ゆっくりと目を閉じた。
長い沈黙の末——
「……好きにしろ」
それは許しではなかった。
諦めでもなかった。
ただ、娘の覚悟を否定できなかった男の、最後の抵抗だった。
アリシアは深く頭を下げる。
その姿を見つめながら、ドルーガは思う。
——どうか、生きろ。
それだけが、もはや彼にできる唯一の願いだった。
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