第十五話 奴隷 3
ファンブル。絶対的失敗。
本来なら、考える時間があったはずだった。選択肢を並べて、疑って、立ち止まる余裕が。けれど、そのすべては、たった一つの結果によって無慈悲に奪われた。
気づけば、彼女の手は動いていた。
まるで自分のものではないかのように、迷いなく。
契約書の上に、静香という名前を書きつけていた。
インクが乾く頃になって、ようやく現実が追いついてくる。
(……ああ、やってしまったんだ)
遅れて湧き上がる実感は、ひどく鈍く、どこか他人事のようだった。
それでも――
(でも、舞姫は助けられた)
胸の奥に、わずかな安堵が灯る。
あの檻の中で、怯えきっていた彼女の顔。あのまま放っておけば、どうなっていたか分からない。自分一人が代わりになることで、彼女が自由になるのなら――それは、決して間違いではないはずだ。
そう思おうとした。
思い込もうとした。
だが。
「では――」
奴隷商の声が、やけに楽しげに響いた。
静香は顔を上げる。
目の前に、金貨が一枚、コトリと置かれる。
「あなたの代金、金貨十五枚から一枚引いて……あの奴隷を売りましょう」
言葉と同時に、その金貨はあっさりと持ち去られた。
静香は一瞬、違和感を覚える。
(……え?)
思考が、追いつかない。今の何が引っ掛かったのか……
違和感だけが、じわじわと広がっていく中、奴隷商は、にたりと口元を歪めた。
「しかし――奴隷が奴隷を持つことは、許可されていませんので」
その笑みは、あまりにも露骨で、あまりにも下卑ていた。
「この奴隷は、現在のあなたの主人である、私のものです」
――クッヒヒ。
喉の奥で転がるような笑い声。
それは、最初からすべてを知っていた者の声音だった。
静香の背筋に、冷たいものが走る。
(……あ……)
遅れて、理解が形を結ぶ。
舞姫を「買う」こと自体は成立している。だが、その所有権は――静香ではなく。
奴隷商にある。
「奴隷の財産は、主人のモノ。ですよ」
優しく諭すような声音が、かえって残酷だった。
頭の中で、何かが崩れ落ちる。
(そんな……)
自分は、何をした?
誰を、救った?
静香の胸の奥で、さっき灯ったはずの安堵が、音を立てて砕け散る。
助けたつもりだった……救ったつもりだった。
けれど実際には――
(……何も、変わってない)
いや、むしろ。
状況は、より悪くなっている。
舞姫は依然として奴隷のまま。
そして自分もまた、その隣に並んだだけだ。
(私……馬鹿だ)
唇が、わずかに震える。
怒りとも、悔しさともつかない感情が、胸の奥で渦巻く。だが、それを外に出すことすらできない。もう、自分にはその権利すらないのだと、どこかで理解してしまっている。
考えれば、気づけたかもしれない。
疑えば、防げたかもしれない。
けれど――
(ファンブル……)
その言葉が、呪いのように脳裏にこびりつく。
選択の余地は、最初から奪われていた。
だからといって、免罪にはならない。
最終的にサインしたのは、自分の手なのだから。
奴隷商の笑い声が、遠くで反響する。
静香はただ、立ち尽くしていた。
自分の愚かさと、取り返しのつかない現実の中で。
◇ ◇ ◇
奴隷商――レイドンは、肩を震わせて笑っていた。
喉の奥から込み上げるそれは、もはや抑えようがない。腹の底から湧き上がる愉悦が、何度も何度も彼の口元を歪ませる。
「……ククッ、ついている……ついているぞ、今回は」
始まりは、取るに足らない騒ぎだった。
街中の食堂で起きた、無銭飲食。
どこにでもある、ありふれたトラブル。普段のレイドンであれば、わざわざ関わる価値もない。衛兵に任せて終わりだ。
だがその日は違った。
オークションが近い。
商品が、あと少し欲しい。
――その程度の、軽い気まぐれ。
それだけで、彼は四人を引き取った。
「小銀貨一枚……か」
指先で貨幣を弾いたときの感触を、思い出す。
食堂へ支払ったのは、小銀貨一枚。四人分の飲食代に、多少色をつけた手数料込みだ。相場から見ても文句は出ない額。
だが、レイドンにとっては――
(タダ同然だ)
口元が、自然と吊り上がる。
仕入れ値がゼロに等しい商品ほど、美味いものはない。
男が三人。
粗悪な労働力として捨て値で流しても、銀貨十枚にはなるだろう。買い叩かれたとしても、確実に黒字だ。
そして――女。
「あれは……いい」
思い出すだけで、目が細まる。
整った顔立ち。怯えを含んだ瞳。まだ荒事に慣れていない、傷の少ない体。
あの手の「品」は、需要が尽きない。
「金貨五枚は固い……初物なら、十五も見えるか」
舌なめずりするように呟く。
さらに言えば、転がり込んできた女。
世間慣れしていない小娘を、舌先一つで転がすのは簡単だった。思った通りに手に入れることが出来た。
今回のオークションは、もともと粒が揃っていた。そこにあの女を加えれば――
(五十枚……いや、それ以上も狙えるな)
金貨の重みが、脳裏で心地よく鳴る。
その時点でさえ、十分すぎる成果だった。
だが。
「そこに、さらにだ……」
レイドンは、堪えきれず吹き出した。
運というものは、時に連鎖する。
良い流れに乗った者に、さらに良いものを寄越す。
まるで世界そのものが、自分を祝福しているかのように。
あの、シズカという女の検査の結果を思い出す。
最初は、念のためだった。
どうせ拾い物だ。万が一、何か付加価値があれば儲けもの――その程度の期待。
だが、結果は。
「ジョブ持ち、だと……!」
あの瞬間の高揚が、今も消えない。
ジョブ。
それは、生まれつき授かるか、あるいは苛烈な修行と才覚の末にようやく得られるもの。誰もが持てるものではない。
持つ者は、例外なく“上”に行く。
力を持ち、価値を持ち、そして――金になる。
「俺もそうだった……」
レイドンの目に、わずかな誇りが宿る。
三十のときに得たジョブ――「闇商人」。
それが、彼の人生を変えた。
だからこそ分かる。
ジョブ持ちの価値が。
「シズカ……あの女が、ジョブ持ちとはな」
偶然にしては出来すぎている。
だが、偶然だからこそ価値がある。
さらに念を入れた。
シズカが買おうとしていたもう一人――マキ。
ついでの確認のつもりだった。
だが。
「やはり、な」
口元が、ゆっくりと歪む。
「癒し手」
その名を思い浮かべるだけで、別の種類の興奮が走る。
回復の力を持つ者。
教会が保護し、囲い込もうとする希少な存在。
市場に出回ること自体が少なく、出れば高騰は必至。
だが同時に、扱いを誤れば――
(教会が動く)
それは、面倒どころの話ではない。
最悪、商売そのものに傷がつく。
だが。
「……問題ない」
レイドンは、にやりと笑った。
彼には“繋がり”がある。
この街の教会の司教に伝手がある。金と情報で築いた、都合のいい関係。
(あの男に話を通せば……むしろ、より高く売れる)
危険は、利益に変えられる。
それができるからこそ、自分はここまで来たのだ。
すべてが噛み合っている。
安く仕入れた商品。
上質な女。
ジョブ持ちという付加価値。
そして、教会との繋がり。
「はは……はははははッ!」
ついに、笑いは高らかに弾けた。
静まり返った室内に、下卑た歓喜が響き渡る。
「来ている……俺に、来ているぞ!」
人生最大の波。
それを確信するには、十分すぎる材料が揃っていた。
レイドンは笑い続ける。
これから手に入るであろう金貨の山を思い描きながら。
そして、自分がその頂に立つ未来を、疑いもせずに。
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