19.微睡みに霞む
クレイグ・アルカシアという男はつくづく有能な人物だ。
本物の『マティアス・オーレン』を探すための手段として始まった一時的な同盟だったのに、いつしか手放すのが惜しいと思っていた。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院の助手を終えた後はどんな席がほしいのか。
望む地位を用意しよう、と問うた私への返答をギリギリまで保留にしていた彼は、今後も私の元で暗躍することを望んだ。
「必要でしょう? 殿下には。マティアスには出来ないことも俺ならできるし。表向きに適当な席を用意してくれるなら、俺は俺で親への顔向けもできますしね」
父さんは俺を産んだ目的を果たせて大喜びだろうな、と口振だけは嬉しげに話していたけれど、結局のところ彼は『マルティエナ・オーレン』の為になる道を選んだのだ。
私への忠誠心でも、親の意向に沿う為でもない。
誰にも悟られぬように恋心を男同士の友情に埋め続けた彼の信念は、それが実を結ばなくとも揺らぐことなく在り続けている。
そうして、今では私の手足となって忙しなく国内外を動き回ってくれていた。
そんな彼と合流したのは、社交シーズンを終えてヴァンビエント公爵領に戻った日のこと。
闇属性の魔法士集団が潜伏しているクラタナス公国で闇属性魔法の研究真っ只中のネヴィルから、研究過程を持ち帰ってきたのである。
ネヴィルとは王立魔法学院で友好的な関係を築いていたけれど、それだけの理由で研究過程を横流しするような人物ではない。
私とネヴィルは互いに国の名を背負う者同士。
ヴァルトセレーノ王国の第二王子とネムレスタ公国の第三公子の取引である。
「ここで研究が行き詰まったから、ヴァルトセレーノ王国の禁書からも手立てを探ってほしいってさ」
クレイグが補完することで成り立つ余白ばかりの資料を受け取った私は、今後の予定から時間を割ける日程を探して直ぐに王都へ引き返すことになった。
領地に戻ってからの数日間は、留守を任せていた代理官からの報告や保留にしていた案件の確認といった現状の把握のために空けていた。
その後は領地内の催しへの顔出しや隣領を治める領主との会合といった予定が決まっている。
少しでも多くの時間をネヴィルの研究に割きたいと馬を駆けて帰還した王宮は、酷く打ち付ける大雨の影響もあって、いつになく静まっていた。
今の時期、王宮図書館は官吏の自己研鑽のために夜間も開放している。
王族の私が顔を見せては気を散らせて彼らの目的に影響が出てしまうので、この時間に寄りつくことは普段なかったけれど、身を隠して最上階の禁書庫に行くなら問題はないだろうと進んだ結果――
(オーレン、君ってひとは……)
王宮図書館の一角から感じる魔力の痕跡と、息を潜めることで気付けた人の気配。
本を読むには適さない薄暗い片隅へと歩み寄った私の目に飛び込んできたのは、書棚の壁に頭を預けて寝入っている彼女だった。
無防備が過ぎる。
この場にいたのが私ではなく他の男だったなら――
想像したくもない光景に喉奥が焼かれるように痛んで、口元に当てた手の中で短く息を吐く。
起こすか、起こすまいか。
逡巡したものの、気持ち良さげにうたた寝する彼女をほんの一時くらい見守っても構わないだろうと書棚に身体を預けた。
耳に意識を集中すると、彼女の呼気が聞こえてくる。
その規則正しい呼吸に自分の息が重なると、大雨に急かされるように忙しなかった道中の疲労が抜けていく。
同じ時間を共有したくなって目を閉じてしまいそうになるが、彼女を一秒でも長く見ておきたくて、それができない。
月日が経つにつれて伸びていく彼女の髪の長さを、知っていたい。
次に会う時はきっと、違って見えるはずだから。
たった数センチの髪の長さで、印象は変わるだろうから。
今の姿を少しでも長く。
彼女本来の姿を――『マティアス・オーレン』の面影を残しながらも変わっていく彼女を、誰よりも深く記憶したい。
(触れたい)
湧き起こる衝動を逸らすように、彼女の手もとを意識する。
開いたままの本の内容は分からないが、そこに乗せられた手のひらの隙間からは仄かに光る青白いラインが見えている。
彼女が読んでいる書籍は、宮内官の貸出が禁止されているもののようだ。
(この辺りの書棚には国政関連が並んでいるから……オーレンが選ぶならエレノア嬢に関わりそうな――魔法士の派遣や災害対応かな)
――兄にとって代えのきかない存在になれ、と。
そう期待を言葉にしたのは私だ。
そして、彼女は私の期待を決して裏切らない。
例え辛く苦しい道のりでも、道標さえあれば幾らでも努力して進んでしまう。
平然とした顔で無理をする彼女を止められる者は誰も傍にいないのに。
それを分かった上で伝えるしかなかったのは、彼女が王宮に身を置く以上は兄の力が必要不可欠だからだ。
いつまでも闇属性の魔法士集団の存在を兄に隠し通せはしない。
クラタナス公国が何年も彼らを匿い続けるとも限らない。
兄に打ち明ける際にこちらの有効な切り札にする為にも、彼女には、切り捨てるのは惜しいと兄が思う存在になってもらわなければいけない。
彼女ばかりに負担を強いることになるけれど、それが兄の使い勝手の良い手駒にさせない最善なのだ。
八時の鐘が鳴る。
魔法壁で覆われている王宮図書館へは大聖堂の鐘の音は聞こえてこないが、その代わりになる壁時計が軽やかな音色を響かせ始めた。
「ん…………」
小さく身じろいで、けれども目を覚まさない彼女へと近づく。
――挨拶だけでも起き抜けの彼女と交わせたら。
淡い期待が生まれはしたが、ほんのひと時と思っていたのに、気づけば既に長針が半周している。
人通りがなかったおかげで欲張り過ぎた。
魔力が尽きて消えていた魔導灯に明かりを燈す。
ゆらりと燃え始めた炎に照らされて、暗がりのなかで静かな呼気を繰り返していた彼女の表情が橙に染まっていく。
「―――― ……」
またね、と。
無防備な彼女の耳に近づけた口元で、声なく挨拶を残した。
これが限界。
彼女のおかげで日に日に貪欲になっていく身体を理性が抑えつける。いつまで保つだろうか。
鐘の音は続いている。
魔導灯の明かりは徐々に照度を上げていた。
そう時を置かずに彼女は目を覚ますだろう。
この場にいたのが私でよかった。
そう思いながら、私は静かに本来の目的へと歩みを戻した。
◇◇◇
閉じきられた視界の暗闇が明るみ始める。
じんわりとした暖かさに違和感を覚え、遠くから響く耳慣れない鐘の音に、普段とは違う場所で寝ていたことに気付く。
耳のそばでパチ、パチと炎の爆ぜる音が聞こえた。
煙の不快な匂いはしない。
むしろ、上質で品のある――
(あ、れ……? この香りは)
嗅ぎ慣れた、けれども懐かしい香り。
この香を爽やかな風にまとわせた人物を、マルティエナは一人だけ知っている。
(殿下?)
続いていた眠気が嘘のように晴れて目を覚ましたマルティエナは、陰る書棚の合間を見渡す。
けれども期待した人影はどこにもいない。
(いるはずない、よね。殿下はヴァンビエント公爵領に発たれたと聞いたし。今頃はもう領地で過ごしているはず)
鳴り響いていた鐘が止む。
どのくらい寝入っていたのか。
閲覧ホールの柱時計を確認するためにマルティエナが立ち上がると、停滞していた空気が揺らぐ。
インクや古びた紙を感じさせる図書館特有の匂いに混ざるのは、紛れもなくアスタシオンの香りだった。
(勘違いじゃなくて、本当に……殿下はいたの?)
視界を照らすのは煌々と光る魔導灯。
魔力切れで消えているはずの明かりが今こうして辺りを照らしているのは、誰かが魔力を注いだからだ。
思わず駆け出したくなる足を踏み留まる。
見える範囲に人通りがないとはいえ、ここは王宮図書館の中。司書官や他の宮内官がいつ何処を通るか分からない。
(落ち着いて。殿下を見つけたところで、私には声をかける資格もないんだから)
――それでも、一目だけ。
時間を確認するついでに辺りを見渡すだけだから、と自分に言い聞かせた。
ホール沿いの通路へ辿り着くまで、歩いて十秒程度。
急がずとも短い時間だ。
けれど、そのたった数秒でさえ惜しかった。
結局いつもより足早になったマルティエナは、通路の手すりに手を添えて吹き抜けの階下を見下ろす。
司書官と数人の宮内官はちらほらといるけれど、アスタシオンらしい姿は何処にもない。
壁時計の針は八時を指していた。
真下へ降りた秒針が上へ上へと昇っていく。
(そういえば、最上階には禁書庫があるってブラウ様が話して――)
記憶に導かれるように視線が上がる。
人の気配のない薄明るい通路の奥で、ひらりと外套の裾が揺れた気がした。




