18.らしさを演じる滑稽さ
雨粒が窓を打ち付けるある日のこと。
石壁から漏れる冷気で冷えた身体を温めてくれるスープを飲んでいると、ルドが何を思い出したのか手を叩いた。
「マルティエナ女官は王宮図書館に行く機会はあった?」
自分への質問に頷いたマルティエナは、咀嚼していた具をのみ込む。
「はい。何度かエレノア様と足を運んだことがあります。初めは蔵書量に圧倒されて、目的の本を探すのに一苦労でした」
「あはは! だよね〜。目的の本がある時は皆、司書官頼りだよ」
王宮図書館は国の知識の保管庫として、国内外のあらゆる蔵書が収容されている。王宮外への持ち出しを禁止された蔵書を求めて貴族が訪れる分、警備が常に厳重な区画だ。
王宮勤めの宮内官は蔵書を借りて自由に学べる特別な権利が与えられている。けれど、勤務時間外で出入りできるのは朝の勤務前と昼休憩の僅かな時間のみで、離宮で毎日を過ごしていたマルティエナには縁遠い場所でもあった。
(そういえば、秘書局勤めの今なら行きやすいんだ)
王太子区画のソルフォリア翠陽宮と王宮図書館は隣り合っていて、回廊で繋がっている。
雨天が続く水の季節でも、秘書局から王宮図書館までは雨に濡れることなく往復できるのだ。
「もしかしたら聞いたかもしれないけど、オフシーズンは僕たちが学びやすいように、勤務時間後も遅くまで開けてくれているんだよ」
「そうなのですか? 知らなかったので、教えていただけて嬉しいです」
「なら良かった。夜の九時までだから気になるなら行っておいで」
「王族も貴族も来ない分、警備は緩いしな。そういう目を気にせず集中できるから本当、今が行き時」
「そう言って、キギリは大抵部屋に戻ってから読むでしょ」
「それはそれ」
険のあるキギリの軽口は通常仕様だ。
それでも利点を教えてくれようとする優しさが伝わるから、マルティエナには為になる話である。
「本には書名の書かれた栞が挟まってるんだけど、青のラインが入っているものは俺達でも貸出禁止なんだ」
「栞にラインですか」
過去に目にした王宮図書館の蔵書を思い出してみるも、実際に本を手に取ったのはエレノアだ。
ぱっと思い浮かばないマルティエナに、ルドが両手の指で縦長の四角を作り、その中央を割くように指を引く。
どうやら青のラインは栞の中央に縦に入るらしい。
「司書官からも止められるから覚えておいて」
「分かりました。教えていただいてありがとうございます」
マルティエナは礼を告げながらも、頭の中で午後の予定を早速組み立てていた。
今は秘書局で働いているが、基本の仕事内容は離宮に関する事務である。
届いた郵便や荷物を持っていき、メイド長に大掃除の進捗を確認したり、衛兵から警備記録を受け取るのが毎日の流れだ。
(夕食は冷めても食べやすいものを部屋に置いといてもらおう)
勤務後に離宮に戻るといつも暖かな食事を用意してくれる使用人への伝言を併せてしようと決める。
そうして勤務終わりを心待ちにしたのが伝わったのか――
「遅くまで残るなよ」
キギリが突き放す口調で釘を刺す。
「使用人を除いたら、王宮にいる女なんて今は極僅かなんだからさ。君は非力な女官だしね」
この場にいたのがユリスだったら嫌悪を丸出しにしたことだろう。
「ありがとうございます。遅くならないよう気をつけますね」
それでもキギリの言わんとすることは伝わるので、マルティエナは曖昧に笑んだ。
ヴァルトセレーノ王宮は、貴族として訪れる表と官吏として過ごす裏では異なる性質をもつ。
王族と貴族、そして上級職の高官が歩く荘厳な回廊に沿うように、官吏や騎士、兵士が行き交う実務的な通路があり、使用人通路は壁の内に隠されているからだ。
往来する通路や部屋が区分されているため、官吏が利用する区域に女性がいるのは少々珍しい光景らしかった。
騎士団や魔法士団に所属する女性も少なからずいるものの、非力と呼ばれる女性はいかほどか。
(私も非力とは縁遠いと思うけど。『マルティエナ』は病に伏せていた過去があるから)
王族と地方貴族がこぞって王都を離れるオフシーズンは、外からの警備は厳重になるが内部は手薄だ。
加えて、ひとつの街と言えるほど広大な王宮で過ごす官吏の数は極端に少ない。
人通りのない場所や光の差さない暗がりはいくらでもある。
(お兄様も心配してたし気をつけなくちゃ。油断は禁物だよね)
ひとつ言えるのは、キギリは兄が心配するような人物ではないことである。
◇◇◇
官吏にとって今が穴場とされる図書館には、意外と人が少なかった。
司書官のいる受付や広々とした閲覧ホールを抜けて、吹き抜けの階段へ。
それから壁一面を埋め尽くす書棚に沿って歩くにつれ、人の気配は更に減っていく。
これが常なのか、それとも時間を追うごとに勢いが増していく大雨のせいなのか。
王宮の敷地内に住まいを持つ者でさえ、王宮図書館までの道のりは近くはない。
外套に本を隠しても濡れてしまいそうな雨脚では、足が遠のくのも無理はなかった。
こんな日には、司書官だって貸出を良しとしないかもしれない。
マルティエナも今日は本を借りるのを諦めて、下見のつもりだった。
『国政における魔法災害対策史』
その重々しい書名を見つけた瞬間、マルティエナの足が止まる。
エレノアが期待されている責務を思えば、避けて通れない分野だ。
中身を見てみようと手を伸ばす。
けれど、触れる直前で迷いが生じた。
(――大丈夫。これなら私が手に取っても不思議じゃない)
マルティエナにとって、あらゆる書籍が揃う王宮図書館への憧れはあったものの、業務外で本を手に取ることはいささか気を張る行為でもあった。
兄として王立魔法学院での勉学に励み、その後を伯爵当主として過ごしてきた影響か、思考は魔法学への関心や領地管理への意識が表れる。
単純に自分の読みたい本を――と考えたなら、迷いなくそうした分野の書棚へ向かっていた。
けれど、本を借りる以上記録は残る。
他者から見て『マルティエナ・オーレン』が手に取る本なのか。
そこがどうしても気にかかるのだ。
自身に課した設定との整合性は必要である。
難解な書籍でない限りは適当な言い訳を用意できるものの、生まれた疑いの芽を完全に消すことは容易くないだろう。
些細な引っ掛かりが根を生やし、やがて脅威となる。
そのきっかけを作らないために、マルティエナは女官としての本選びを意識していた。
躊躇った手を今度こそ伸ばして背表紙に指をかける。
隙間なく収まった書棚からそっと引き抜いて、表紙を捲った。さらりとした紙の質感は経年劣化による痛みがなく、古びた香りもしない。
目次のページには年代ごとに章立てされていて、過去から順に災害対策を記したこの本は五年前の内容で終わっているようだった。
(災害の状況と領主の対応、国への要請と国政としての介入にその結果――結構細かく書かれてるみたい。読んでみようかな?)
ぱらぱらと中見を捲り、今後借りる本の候補に入れようと本を閉じかけた時、ふとルドの言葉が脳裏に浮かんだ。
(先に栞を確認しておこう)
何処かに挟まる栞を探すために紙片をぱらぱらと捲ると、ぱっくり裂ける箇所がある。
そこに挟まっていた栞には、澄み切った夜空のような深い青色のラインが中央に走っている。
ルドから教わった貸出禁止の印だ。
閲覧ホールの壁時計が示す時刻は六時半を指していて、図書館が閉まるのは九時ちょうど。時間はたっぷりある。
(八時までに出れば遅くはないよね)
今日はいつ帰ろうとも、月明かりの遮断された暗い夜道や土砂降りの雨は変わらない。
むしろ、雨脚が多少でも落ち着く可能性だってある。
夜道に警戒を――とは思えども、天候はどうにもならないのだからしょうがない。
決めてしまえば迷いは消える。
マルティエナは本を胸に抱えて閲覧席へ向かった。
階下に広がる閲覧ホールのほかに、書架の間を抜けた窓際には本棚に紛れたカウンター席がひっそりとある。
それが王立魔法学院の研究資料館と似た造りだったので、マルティエナは迷わず腰掛ける。
荒れた天候を忘れてしまいそうなほど真暗な外を見透かす窓際の席には、外の音や温度が届かない。
本のページを捲る紙の擦れ音。そして魔力を込めた魔導灯の炎を木芯がパチパチと爆ぜるささやかな音が全てだった。
小耳に挟んだ覚えがある五年前の出来事から順に過去へ遡っていたマルティエナは、自身の生まれ年の記録に辿りつく頃には瞼の重みを感じていた。
ページを捲る音が耳に届く間隔は次第に開き、文字が朧気に映っていく。
(寝るのは流石に、駄目……なのに)
襲い来る眠気は意志の問題ではない。
きっと、王宮図書館の環境が悪いのだ。
外気や雨音は魔法で防ぎ、本の保存に適した温度と湿度を一定に保っている。
館内は柔らかい橙色の明かりに照らされているものの、背の高い書棚が影を落とす。
手元を照らす魔導灯は魔力の消費によって、眠りに誘うように光も音も弱まっていていく。
だから――
(少しだけ。すぐ……起きる、から)
そう思った瞬間、マルティエナの意識はゆっくりと沈む。
パチ、パチと弱まった灯りの音。
落ちかけた意識に届く最後の音が消え、閉じた瞼の先のじんわりと暖かな灯火までも遠退いてく。
書棚に覆われた図書館の片隅。
元より光が届きにくかった閲覧席の影は、より一層濃くなる。
魔力が消えた魔導灯の痕跡に気づいた何者かが書棚の合間を塞ぎ、微かな明かりを遮ったのだ。
絨毯に包み隠された静かな足取りが、息を呑むように止まる。
その視界には、規則正しい寝息を立てる女官の姿が映るだけ。
「無防備過ぎるよ――オーレン」
アスタシオンのくぐもった呟きは、マルティエナの耳に届くことはなかった。




