17.雨雲に射す温もり
自身が治めるリヒトライ公爵領へと発つ王太子とともに離宮を去ったエレノアを見送った日の午後。
メイド長と大掃除の最終確認し、必要書類をまとめたマルティエナは、王太子付き宮内官の仕事場であるソルフォリア翠陽宮の秘書局に向かっていた。
ブラウに業務報告するため、毎日のように訪れていた場所である。
湿気を含んだ空気が足に纏わりつく。
通い慣れた通路なのに、踏み出す一歩一歩が緊張した。
(離宮に残る私に気を遣ってくれたブラウ宮内官のお気遣いは有難いけど、他の宮内官はきっと働きづらくなるよね)
決まった時間に秘書局に足を運んでいたこれまでと、朝から夕刻まで同じ空間で働くこれからとでは意味合いが変わる。
内部の者でもあり部外者でもあるマルティエナがいては、広げられない書類や話せない話題もあるのではないか。
(王太子殿下が担ってる政策にエレノアさんも今後は関わっていくかもしれないし、私としては様子が分かって有難いけど……邪魔にはならないように気を付けなきゃ)
辿り着いた秘書局の扉は閉じられていた。
これまでは常に開放されていたけれど、王太子の長期不在や議会シーズンを終えたことが関係してるのだろうか。
ノックのために握った手を胸元に寄せる。
雨特有の湿り気が入り込んだ重い空気を深く吸う。
目の前にあるのは黒茶の重厚な扉だ。
視線の高さにはソルフォリア翠陽宮の紋章が木製レリーフになっていて、金や銀の細工で飾り立てていなくても、この先が王太子の領域であることを物語っている。
(大丈夫。いつも通り過ごせばいいんだから)
溜め込んだ息をゆっくりと吐き出して不安を取り払ったマルティエナは、扉を静かに叩いた。
扉を押し開くと同時に目が合うのは、カウンター席に座るルドだ。
今日も柔和な笑みで来訪者を出迎えてくれている。
「お疲れさま。そしてようこそ、マルティエナ女官。席は僕の隣に用意しているよ」
「ありがとうございます。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」
カウンターを伸ばすように設けられた席は、元々そうであったかのように色味も材質も馴染んでいた。
抱えていた書類を置いて、薄っすらと線が流れる木目に指を沿わせる。
細かな傷はありながらも丁寧に磨かれた机だった。埃が溜まることなく滑っていく指の感覚が、秘書局に迎え入れられていると感じさせてくれる。
「それとブラウ宮内官から『来たら顔を出すように』と伝言を預かってるから行っておいで」
「はい、行ってきます」
止まった足を進める歩調が軽い。
胸に巣食う一抹の不安に息詰まるよりも、今はただ、期待に恥じない自分でありたい。
やることをやる。どんな心持ちでいようと、選ぶ選択肢は決めているのだから――
◇◇◇
早朝から降り注ぐ雨を震わせる鐘が鳴る。
使用人が運んできた昼食の香りが、少し前から秘書局内に漂っていた。
刺激され続けた空腹感に抗うようにマルティエナはペンを握る力を強める。
(このページで終わりにしよう)
秘書局勤務になって二日目は、月末に締めた帳簿の数字から今月分のページを作成をするところから始まった。
同時進行で、挟んだメモ書きを見返しながら作業が必要なことを別の用紙に書き記していくのだが、次回の社交シーズンに向けたドレスや宝飾類は発注したばかりというのもあって、近況を確認したり納品を催促するようなものはない。
目下のことといえば離宮の大掃除に必要な物品だけれど、事前に発注した分は納品を終えていて請求書を待っている状況だ。
大掃除の進捗によっては追加で発注をかけていくが、それもまだ先である。
数字を追っていたペン先が止まった瞬間、視界がふっと陰る。
同時に、椅子の背に重みが加わった気がして、マルティエナは顔を上げた。
「お疲れさまです、キギリ宮内官」
立っていても頭ひとつ分の差があるのに、座って見上げると体躯の大きさが更に際立つ。首が痛くなるまで顔を上げた先では、キギリが表情を変えずにこちらを見下ろしていた。
ただ立っているだけなのに妙に重い。
雨特有のひやりとした冷気を肌身に色濃く感じるのは気のせいだろうか。
「もう昼休憩の時間だよ。君が真剣に仕事してると皆が休憩に入れない」
キギリが視線で示したのは、壁で簡易的に仕切られた一室だった。
そこへ入るにはマルティエナの横を通る必要があるし、扉もないため会話が筒抜けになる。
(気を遣わせてた)
力の抜けた手からペンが滑り落ちる。
反射的に立ち上がろうとしたものの、キギリの影が近すぎて動きが止まった。
かといって座ったままでもいられず、中途半端に腰を上げては頭を下げる。
「すみま――」
「キギリ、冗談でもよくないよ。マルティエナ女官は気にしないで、キリの良いところまでやって良いんだからね」
口にしたかった謝罪は、半ば呆れたようなルドによって遮られた。
「待ってるのは本当。親睦を深めるのは大事だろ」
キギリがからかい混じりに口角を上げる。
そのまま彼が身を引くと翳りも消えた。窓から差し込む光量は変わっていないのに、室内の温度が温もりを取り戻した気さえする。
(冗談だった? とも思えないけど、キギリ宮内官の真顔は心臓に悪いよ)
上官室とは隔たれた秘書局で働く新米の宮内官を日頃まとめているのが、キギリとルドだ。政務が円滑に回るよう指導するのも彼らの役目である。
だからなのか、先ほどの視線にはひりつくような緊張感があった。多分、気のせいではないだろう。
「皆はそうでも、お前はどうしてかマルティエナ女官に素っ気ないよね。嫌われちゃうよ」
「お前には分からない俺たちの仲があるんだよ。ワルツも踊った仲だし」
砕けた会話が続くなか、話題の中心にされたままのマルティエナは広げていた書類を静かにまとめていく。
席の配置上、ルドが動かない限りは二人の間に挟まったままだ。待ってくれている気配をひしひしと感じて、内心慌てながら引き出しに押し込むと、カタンと木枠が鳴った。
「な」
「ええと……」
それを合図のように同意を求められたものの、返答に迷う。
(本音を言っていいなら、少しくらい私にも愛想良くしてくれると嬉しいんだけど)
結局、視線を泳がせてしまいながらも無難な笑みを作った。
肯定も否定もしづらい時は話題を変えるに限る。
「仕事も終えましたので、私も皆さんと休憩に入れたら嬉しいのですが、ご一緒しても?」
「ん」
「もちろん大歓迎だよ。今日は鹿肉のサンドとポトフなんだって」
ルドが話し合えるのを待たずに、キギリが背を向けて歩き出す。
その後をマルティエナとルド、そして遠巻きに様子を伺っていた数人の宮内官たちも続いた。
四方を囲める大テーブルの中央に置かれているのはサンドイッチがぎっしりと詰められた籠。そしてスープ鍋だ。
弱火の卓上コンロで温められた鍋の中ではポトフがグツグツと煮えている。
「マルティエナ女官は先に食べる分確保して。手届くよな?」
「はい、ありがとうございます」
手渡された皿にポトフを取り分けたマルティエナは、無言で手を差し出すキギリにレードルを渡す。
「美味そうですね!」
「俺今日はがっつりいただきますわ」
誰が取り分けるわけでもなく、各々が手を伸ばして自分の分を確保していく。それが秘書局でのルールらしい。
サンドイッチを三個まとめて手に取る人もいれば、溢れる寸前までポトフを皿に移す人もいて、なみなみだったポトフがあっという間に鍋底に届きそうになっていく。
(凄い量……ずっと頭を使うとお腹空くもんね。なんだか学生だった頃を思い出すな)
兄として過ごした過去の日々。
クレイグやカストとともに取り皿に好きなものを山ほど盛り付けて、苦しくなるまで食べていた王立魔法学院での日常。
成長期の俺達は沢山食べなきゃな、なんて言っては、食事を終えようとした『マティアス・オーレン』にクレイグがお皿を押し付けてくるのが定番の流れで、良くも悪くも賑やかだった。
若手が集まる男所帯なら、どこも似た雰囲気なのかもしれない。
「のんびりしてたら無くなるから」
長く伸びた手が中央に置かれた籠からサンドイッチをふたつ掴む。
そうして、マルティエナの頬に押し付けられた。
「あ、りがとうございます。おひとついただきますね」
力の加減はしてくれてるのだろうが、口が少し動かしにくい。
頬に当たるサンドイッチの下に手のひらを向けると、落とすなよと言わんばかりに押し込まれてから、力強い手が離れていく。
「なら次からは自分で取りなよ。それは二つとも女官殿の分」
キギリが意地の悪い笑みを口元に浮かべる。そのまま話は終わったとばかりに再びサンドイッチをふたつ豪快に掴むと、包装紙を剥がして齧りついた。
(キギリ宮内官が兄貴肌って慕われてるのはこういうところ? 強引なのに、優しくて)
――少しだけ、コルスタンに似てる。
優しさに気づかれないほどに皮肉も悪態も勝っていたかつての師匠が思い浮かんで、ふっと笑みが零れた。
コルスタンに比べたらキギリの素っ気なさなんて可愛いものではないか。
「キギリさん抜け駆けですか!」
「マルティエナ女官、この人、俺たちには『取り分け禁止、したら罰金』って口酸っぱく言ってたんです」
「それだそれ! キギリ宮内官も罰金ですね! 俺らにください!」
「君たちうるさいよ。そんなことで騒いでたら、マルティエナ女官がここで食べたくなくなるだろ」
馬鹿馬鹿しいと眉を顰めたキギリに、ノリ良く騒いでいた宮内官は青褪める。
「それは嫌ですけど……!! ううっ……マルティエナさ〜ん」
眉を分かりやすくハの字に下げた彼はマルティエナと同じで、宮内官になったばかりの新人だ。
風の季節ではすれ違いざまに会話したり、ちょっとした頼まれごとを引き受けたりと、何度か関わりがあった。感情豊かな彼から泣きつくような表情を寄せられると、年下の彼を守りたくなってしまう。
「大丈夫ですよ。こういうのも新鮮で楽しいです」
そんなマルティエナに不機嫌さを深めたのはもちろんキギリで――
「マルティエナ女官はこいつらを調子に乗らせないでよ。それよりもさっさと食べな。のんびりされても迷惑だからさ」
「お前もそこまで。キギリの話は間に受けなくて良いけど、俺たちも食べようか」
肩をすくめたルドの口調こそキギリを嗜めるものだったものの、表情は柔らかい。
呆れ混じりのその眼差しは、同僚という関係以上の何かに見える。
続く賑やかな応酬を横にルドと食前の祝詞を告げたマルティエナは、湯気の立つポトフへと手を伸ばした。
そうして、スープ皿やサンドイッチが空になった頃――
わいわいとした騒めきに、コンと小さな音が響いた。
扉のない開放された休憩室の壁を、誰かが軽くノックしたのだ。
「ブラウ宮内官! お疲れさまです!!」
出入り口が視野に納まる席にいた宮内官が一目散に立ち上がる。
(え……っと?)
ブラウが姿を見せた途端、緩んでいた空気がピンと張り詰めた。
昨日も今日もブラウが通路を通る度に背筋を正すような宮内官の変化は感じていたが、ここまで露骨な姿は初めてだ。
「――いや、すまない。君たちの休憩の邪魔をした」
対してブラウに動揺はなかった。
続々と立ちあがろうとする他の宮内官達を言葉で制す。
「マルティエナ女官が休めているか気になって顔を出したんだが、心配はいらなかったようだな」
これが普通とでもいうように淡々とした態度で、マルティエナに向けて小さく笑んでいた。
「はい。皆さんとても親切で、楽しく過ごせています」
「そうか。なら良かった」
「ブラウ宮内官のおかげです。ありがとうございます」
「ああ、午後からもよろしく頼む。何かあればいつでも声をかけてくれ」
宮内官達の緊張に引っ張られて、マルティエナまでもぎこちなくなる。
それでも普段通りを意識して感謝を述べると、ブラウは頷き、長居をせずに休憩室を去っていく。
見えなくなった後ろ姿を追いかける、妙な沈黙だった。
それを打ち消すように扉の開閉音が遠くから聞こえると、誰とも言えぬ溜め息が落ちる。
「ブラウ宮内官はあまりこちらへはいらっしゃらないのですか?」
「そうだね。むしろ初めてかな? 普段は自席で食べたり、宮内長官や殿下とご一緒されているよ。上級職のようなものだから」
「そうなのですね」
口では頷きながらも違和感を覚えたマルティエナを見下ろしたキギリが、態とらしく息を吐く。
「あのさ、君はお兄さんが第二王子殿下の秘書局に迎えられていたから不思議に思わないのかもしれないけど、王宮で働く官吏は爵位を継げない次男以下の数少ない名誉なんだよ。宮内長官も上級秘書官のおふたりも、長年の献身から今の地位にいる」
サンドイッチを包んでいた包装紙を乱雑に丸めた音が嫌に響いた。
「そこに殿下と親しくされている幼馴染で名門侯爵家の後継者が、特別待遇で選ばれたんだ。同じ宮内官でも、与えられてる役目や扱いは雲泥の差があるし、気に入らない下っ端官吏の首なんて簡単に飛ばせるだろ」
力任せに握りしめた手にはどんな感情が表れていたのか。
「王宮では年齢差なんて関係ない。権力があるか無いかで、俺らにとっては上司以上に厄介な存在なわけ。君のお兄さんもそう思われてたと思うよ」
皮肉に笑うキギリにあるのは、生まれとともに決められた運命への嫌悪だ。
努力次第では抜け出せる境遇もあるけれど、努力だけでは覆せないこともある。生まれ持った魔力の素質と同じように。
己のままでは爵位を継げなかったマルティエナにも共通しているようで、きっと別物だろう。
「でもね」
口を噤んだマルティエナにルドが朗らかに告げる。
「ブラウ宮内官は誰よりも自分に厳粛な方で人一倍努力されてるって、ここで働いていたら皆気づくから大丈夫だよ。畏まっちゃうのは尊敬もあるんだよね?」
「――ですです!」
「本当、あの人凄いですよね。回ってくる書類も指示も的確だし」
「実は今シーズンも王太子殿下の視察に同行する方向で進んでいたんだけどね。『マルティエナ女官を秘書局に連れてきておいて、宮内長官に後任せにしては責務を果たせない』と残られたんだ。良い上官に当たったね」
昼休憩の終わりを告げる鐘が鳴る。
自席へと戻る道すがら、マルティエナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
温かな陽だまりの下にいるような離宮とは異なり、秘書局は一見穏やかでも王宮ならではの緊張が静かに張り巡らされている。それでも互いを尊重し、支え合う空気は確かにある。
それは、初日に覚えた胸の息詰まりを解すには十分だった。




