11.潜んだ噂は根拠なく
夜会出席の名目はエレノアの侍女シスミナ・カルドレンの代役。婚姻前の貴族令嬢を見守る付添人のような役割だ。
けれども、エレノア自身は婚約者である王太子とともに夜会を過ごすので、マルティエナの役目は限られている。
王太子と別行動になった時やエレノアが控え室で休みたくなった時に付き添う程度。
夜会の主催である公爵夫妻と談笑する王太子とエレノアをホールの壁際から眺める。
目の前を貴族や給仕人が行き交うので時々しか見えないけれど、マルティエナの目に映る範囲では終始穏やかそうだ。
口元を扇で隠す公爵夫人の横顔を見ていると、視界の端から様子を窺う視線を感じた。
「知り合いがいるので声をかけても良いですか?」
横並びで立つキギリに断りを入れると「ん」と短い返事で腕を差し出されるので、手を添える。
「お願いもあるのですが――」
ついでに、ひとつ頼みごとをした。
キギリのエスコートに先導されながら目的の人物の元まで向かうと、チラと投げかけられた視線と目が合う。
偶然ではなく貴女に会いにきたと伝わるように微笑んだマルティエナは、ぱっと輝く笑顔に迎えられた。
「マルティエナ様ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、オリビア様。久方ぶりですね」
オリビアは聖テレシア女学院で親しくなった友人だ。
ハラディ伯爵家の次女で、まだ婚約者は決まっていないと以前聞いたことがある。
壁際に置かれた椅子に座ってこちらを見守っている夫人が、彼女の付添人だろう。容姿がオリビアと似ているので母親と予想して会釈する。
それから、隣に立つキギリを手のひらで指した。
「こちらは同僚のキギリ・アレサ宮内官です。王太子殿下の元で働かれていまして、今回ともに出席させていただきました」
今度は手のひらの向きをオリビアへと向けると、立ち位置を少し変えてキギリを見上げた。
「こちらはオリビア・ハラディ伯爵令嬢です。聖テレシア女学院で親しくさせていただいた私の友人です」
「以後お見知り置きを、オリビア嬢。あとで一曲如何です?」
「喜んでお受けしますわ」
「美しいお嬢さんに断られなくて良かった。先に伯爵夫人にご挨拶させていただきいても?」
「ええ。母はあそこにいますわ。深緑のドレスを着た――」
オリビアが顔を向けて手を挙げる。その先の向こうにはマルティエナが会釈した人物が同じように胸元で手を挙げていた。
再び腰を折ったキギリがオリビアに目線を合わせて微笑む。
「ありがとう。私は一旦失礼するので、おふたりは久しぶりの再会を楽しまれてください」
にこりと頷いたオリビアを見届けたキギリは背を向け歩き去る。
離れていく後ろ姿を見送るのは二度目だけれど、良い意味で裏切られた。
(夜会でのキギリ宮内官は紳士みたい。屈んで目線を合わせているし、態度に嫌な感じがしない)
広げた扇子で口元を隠したオリビアは、己の母親に声をかけて人当たりの良い笑みを浮かべるキギリを目で追い続けている。
上辺に騙されないよう釘を刺すか思案したものの、マルティエナはまだキギリのことを知らない。
――お願いもあるのですが、彼女と二人で話せる時間をいただけませんか?
何より、そう告げたマルティエナの頼みを彼は叶えてくれた。
社交界は紹介と交流の場である。
王太子とエレノアの動向を窺いながらも互いの知り合いを紹介し合っていたけれど、キギリが令嬢をダンスに誘うことはなかった。
(王太子殿下から自由に踊って構わないとは言われたけど……一度でも踊ると抜け出しづらくなるから、避けてると思ってた)
キギリのことはよく分からない。好意的な感情が向けられていないことは確かだけれど、こちらの意を汲んでくれる事実は有難い。
「オリビア様はエレノア様とお話ししたことはございますか?」
はっとして視線を戻したオリビアが手にしていた扇子で頬まで隠す。それから小さく首を振った。
「いえ。機会に恵まれず、お茶会でお会いすることもなくて残念に思っていましたの」
「では良ければ後でまたお時間をください。エレノア様に私の友人を紹介したいですし、貴女にもお会いになってほしいのです」
王太子の婚約者になったエレノアは地盤固めをしている最中だ。
だからエレノアの付添人としての役目は、本来の付き添いの意よりも知人の紹介の方が比重が大きい。
「まあ! マルティエナ様にそう仰っていただけて嬉しいですわ」
聖テレシア女学院で過ごした期間は僅かだけれど、それを感じさせないオリビアの喜びように、マルティエナの気持ちも引っ張り上げられる。
紹介は勤めの一貫でも、誰から構わずは嫌だった。
女学院を卒業してから会えない期間があっても、変わらず慕ってくれる様子に安心する。
だからこそ、オリビアの不自然に揺れた視線が引っかかった。
「オリビア様、何か気掛かりなことでも?」
「え?」
「浮かない表情をされていました。オリビア様のことですから、私を気遣ってくれているのではないでしょうか」
表情を隠す扇子からはみ出た眼差しは、声をかける前から向けられていた視線と同じだ。
伝えたくても我慢して、それでも一人では抱え切れないと悲嘆した面持ち。
教えてほしい、と訴えかけるように微笑むとオリビアは迷いのままに頷く。
「そう、ですわね。お耳をお貸しくださいませ」
頭を傾けて身長差を詰める。
息遣いが耳元に届いて、オリビアの声だけが頭に響いた。
「心配しておりますの。お姉様まで危険な地に行ってしまわれたら、と。お姉様は病み上がりなのですし、無理して何かあってはと不安で……」
賑わう夜会で二人の淑女がヒソヒソと話すのは何処でも見かける光景だ。
視線を合わせなければ、隠れずにする内緒話に割り込んでくる者もいない。
しかし、それは前提条件があってのこと。
暗い面持ちでいたら、親切な紳士が困りごとを解決しようと名乗り出てくれることもある。
幸いにしてオリビアの表情は扇子で覆われている。
マルティエナが目元を緩ませて微笑んでいたら、それなりに気の良い空気を演出できる。
内心では、身に覚えのない話に疑問が飛び交っていた。
「それに魔法学院生と私達は違いますもの。私、気が気でなくて……」
口を噤んだオリビアの続きを待てども、それ以上の言葉は出ない。
(危険な地って何? 私までってことはエレノア様――だと思うけど、魔法士団としての活動予定に危険な任務はなかったはず。それに、魔法士団の任務には女官は随行しないのに)
作った笑みを和らげて、オリビアと視線を合わせる。
「大丈夫ですよ」
根拠のない言葉が自然と口をついた。
「大丈夫です。仔細はお伝えできませんが、安心してください。なかなかお会いできない分も今度は手紙を送りますね」
上書きするように繰り返す。
自分自身にも大丈夫と言い聞かせたマルティエナは、幾ばくか安堵した様子のオリビアがキギリに手を引かれてダンスホールへ向かうのを見送った。
くるくると様相を変えていくダンスホールには、エレノアと王太子、オリビアとキギリ、そしてアスタシオンがいた。
他にも見知った顔がちらほらと。
そこに片隅に控えるマルティエナが混ざることはなくて。
刻々と変化する雲行きに取り残されたような気分だった。




