10.嬉しい綻び
女官室で書き物をしていたマルティエナは、区切りが良くなったタイミングで手を止めて壁掛けの時計を見る。
(今日はここまで。ユリスさんも分かるように進捗をメモしたら終わりにしよう)
終業時間にはまだ早いけれど、今日は特別だ。
途中経過を記したメモと栞を挟んだマルティエナは、扉の外から聞こえた衛兵の挨拶に顔を上げた。
「戻りました」
次いでユリスが女官室に戻ってくる。
胸元で抱えた書類ケースの上には、出掛けた時にはなかった手紙が一通乗せられていた。
「お疲れさまです、ユリスさん」
「ブラウ宮内官から取り急ぎの連絡はありませんでした。その他のことは明日お伝えします」
「分かりました」
「それと……キギリ宮内官が、今日はよろしくと」
「――? 伝言もありがとうございます。今日の夜会はキギリ宮内官が出席されるのですね」
マルティエナは疑問に思いながらも伝言を受け取ったと礼を告げる。
キギリからの「よろしく」の意味が引っかかったのではない。キギリに託された言葉を告げる時に、躊躇うようにユリスは間を置いた。それを不思議に思ったのである。
(ユリスさんが言いよどむなんて珍しい)
話を終えたはずの今でも、心情を表すように下がるユリスの瞳が気にかかる。
どうかしたか尋ねたくなるけれど、ユリスは私的な話を自ら口にしない。
飲み物や食事の好みだったり、休日をどう過ごしたか、聞けば教えてくれる。同じ空間に居るだけで会話が膨らむような関係ではないけれど、だからといって困ることもなかったから、込み入った話を聞くこともなかった。
それにマルティエナにとってのユリスは、ヴァルトセレーノ王立魔法学院の大先輩であって先生の助手である。
助手というのは、学生にとって先生のような存在だ。
そう思っているのは兄として過ごした自分だけと分かってはいても、踏み入って良いことなのかの判断に影響しては言葉に詰まる。
かといって、話は終わりだとばかりに自分から切り替えることができず。
「キギリ宮内官に聞きました」
仕事を終えようとしていたマルティエナの手元と時計の針が差す時刻に気づいたユリスが先に口を開く。
「私のことをかばってくれたのでしょう。マルティエナさんに気を遣わせてしまって情けないです」
「そんなこと」
慌てて立ち上がった拍子に机と椅子が揺れてガタッと音を鳴らす。
耳障りな音に意識が逸れたマルティエナの言葉の続きをユリスは待たなかった。
「分かっていたんです。女官の仕事をしていく以上ひと付き合いは必要ですから、避けてばかりはいられません。私はマルティエナさんを見習わなければならないですね」
ユリスの言葉には、否定する余地がない。
(格好良いな)
力みが抜けたユリスの口調がマルティエナを対等にみてくれていると分かるから、素直に思う。
「私は都合の良い人にならないように気を付けたいと思います」
「マルティエナさんは人が良すぎますから、その方が良いかもしれません」
「実を言うと、単なる親切心ではないんですよ?」
神妙に頷くユリスを有難く思いつつも首を振る。
お願いを引き受ける対価としてちょっとした情報を貰えたらと思っていたのだから、彼らとは質の異なる下心をもっていたのだ。
ユリスの評価は受け取れない。
そんな思いが伝わったのか――
「優しい方です。他に思うところがあったのなら尚更、私を気遣ってくれた事実が貴女の人となりを表しています。ありがとうございました」
ユリスの赤くなった頬を隠すように長いまつ毛が下を向く。口元はキュッと引き締まりながらも口の端が上がっていた。
普段あまり変えない表情を崩した、自分にだけ向けられた微笑み。
「ユリスさんにそう思っていただけて、とても嬉しいです。こちらこそありがとうございます」
言い慣れていないと伝わるからこそ、飾り立てない率直な言葉が胸のなかに入り込む。
(キギリ宮内官からは策士って言われたし、私自身そう思いもしたけど……気にしていたのかな)
王太子付きの宮内官達に頼られた時に、困っているなら手を貸したいと思う気持ちもあったから。
「私、マルティエナさんとは上手くやっていけそうな気がしています」
「私もです。これからもよろしくお願いしますね、ユリスさん」
開いていた帳簿を閉じて机周りを整理したら、壁付けの棚に帳簿を戻す。
時計の針は刻一刻と進んでいく。そろそろ部屋に戻らないと、夜会の身支度を焦ってすることになりそうだ。
メイドが今か今かと部屋の前で待っていることだろう。
ユリスはといえば、手に抱えていた書類を机に置いてひと息ついてから「これは余計なお世話かもしれませんが」と告げた。
「くれぐれもキギリ宮内官には気を許し過ぎないでください。ああいう、平気で人を試すような方に気に入られたら後が厄介そうです」
ふふっと思わず声を上げたのはマルティエナが先で、思い当たる節があることに気づいたのか、ユリスも口元を緩ませた。
「良くも悪くも距離が近い方ですよね。でも、私のことは眼中になさそうでしたよ」
彼は不要な場でのエスコートはしてくれたのに、目線を合わせる気がなかった。
(そういえば、キギリ宮内官って私とも身長差あったんだよね)
正面を向いてるとちょうど喉仏が見える高さだったから、表情を窺う時は見上げていたことを思い出す。
特に小柄なユリスは顔を思い切り上向けて、かつ彼が腰を折るか見下ろさない限り、一向に目が合わないのではないか。
「マルティエナさん。私は男を撃退するために魔法を学んできました。何かあれば、いつでも力になります」
とても頼もしい。
今までで一番力強い口調に感謝を述べつつも、マルティエナは万が一にも頼ることがないことを願う。
これは過去にクレイグから聞き知った話だけれど、対人戦――特に男相手には魔法の扱いが容赦ないと、ユリスはひっそりと恐れられていたらしい。




