6.分かりきった現実
エレノアが夜会に出席する時には、女官が随行することになっている。
本来なら侍女の役割だが、現時点でエレノアの侍女は一人しかいない。
当のシスミナは、余程のことがない限りはカルドレン侯爵夫人として出席すると事前に決めていたようで、その代役として女官の職務に加わっていた。
「マルティエナさん、朝からお疲れ様でした。後は私が引き継ぎますので、ゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。お気をつけて行って来てくださいね、ユリスさん、ナザリク様」
「はい」
「ん」
王太子の迎えで先に発ったエレノアに続いて、装飾が控えめな分、素が引き立つドレス姿のユリスと護衛騎士の正装をしたナザリクを見送る。
簡素な返事に付け加えて手を挙げたナザリクに合わせて、マルティエナも二人の足音が消えるまで胸元で手を掲げた。
(休んでと言われたものの……)
悩みながらも女官室の扉を開く。
机の上に置いた書類はひと纏めに片付いている。
今日中にやらなければならない仕事もない。
王太子が王立魔法学院に入学して以降は閉鎖されていた離宮をエレノアのために改装したというのもあって、物も書類も必要最低限に揃えられている。
そんな状況下で埋め尽くされた書棚には、王族付きの女官として知っておくべき知識の詰まった本が並べられている。
エレノアの執務室にある教養本一式は当然のように女官室にも揃えられ、その他に宮仕えの序列や指揮系統、万が一の対応例といった書物が続く。
どの知識がいつ必要になるか分からないからこそ目を通すように言われているような品揃えだ。
その中から最新の貴族名鑑と宮廷役人名鑑を取り出す。
手元にある書類から当面の社交活動の予定表と、今日の夜会の招待客リストも用意した。
今日の夜会はカルドレン侯爵家主催だ。
エレノアの侍女を引き受けたシスミナは、王太子の婚約者を誰よりも早く招くという名誉を侯爵家にもたらしている。
元の爵位も相まって、招待客は格上の貴族ばかり。
エレノアとユリスと並んで、招待客の家柄や歴史、ここ数年の領地の様子や趣味嗜好まで、シスミナに教わりながらの座学の日々が数週間続いていた。
仕事の息抜きは庭園散策をしたエレノアの付き添いで、昨日に済ませている。
招待客リストが手に入る今回が稀なのだから、と袖を捲ったマルティエナは宝石の埋め込まれた表紙を開いて、分厚い貴族名鑑に目を落とすのだった。
◇◇◇
翌日は夜遅くまで晩餐会に参加していたユリスが昼からの勤務となるため、マルティエナは一人で繋ぎの間のカウンターにいた。
疲れ切っているだろうエレノアも、まだ執務室には来ていない。
「マルティエナ女官はよー」
音無く開く扉の空気の揺れにも気づける朝に、気の抜けた声を上げたのはナザリクだった。
「おはようございます、ナザリク様。朝早いですね」
気は抜けているけれど眠気は表情に残っていない。
視線を上へと向ける位置に太陽が登り始めた今この時間。普段なら遅いけれど、長く続いた晩餐会明けにしては早かった。
「んー、エレノア様がいつ何時姿を見せるか分からないからさぁ。疲れ知らずかってくらい毎日元気なのは元からなんかな」
「あまり身体を休める時間がありませんでしたしね。無理をしていないと良いのですが」
「なー」
空席になっているユリスの席にナザリクは腰掛ける。
マルティエナは通信用の魔道具を手に取って、地下にいる使用人にコーヒーを二杯頼む。
ナザリクは一服したい時に席に座ると気づいてからは一緒に休憩を挟むようにしていて、「ありがとー」と間延びした礼を受け取るまでが恒例になりつつあった。
「昨日お兄さんを見てきたよ」
淹れたてのコーヒーをごくごくと飲み干したナザリクは、空気で冷えた表面の一層だけを飲むように浅く口をつけたマルティエナを眺める。
こくり、と飲み込みながらマルティエナもナザリクへ視線を向けた。
「似てるけどさー、見間違えるほどか?」
「子どもの頃は見分けがつかなくて、よく間違われていましたよ。今ではあまりありませんが……話し方や雰囲気が時々似ているようです」
「へえ。エレノア様が見間違えたと仰った時も一瞬だったようだしな」
昨夜の晩餐会を思い出していそうなナザリクの視線に、マルティエナも招待客リストを思い浮かべる。
兄の名は記されていなかったが、アスタシオンの名はあった。
ユリスのように付き添いで出席したのだろう。
(今回の集まりは高位貴族の現当主とその奥方だから、何も心配はないけど)
事情を知り尽くすアスタシオンもいる。
もし兄が困る状況に陥っても、彼が間に入ってくれるに違いない。
脳内ではアスタシオンと並ぶ兄が浮かぶ。
アスタシオンとマティアス・オーレンが並び歩く、時おり窓ガラス越しに見た学院生活での頃のように。
(ああ、でも……)
想像上の視野を広げてしまうと、過去の面影は掻き消えた。晩餐会に参加するアスタシオンの隣は、兄の場所ではない。
「王太子殿下が婚約したとなれば、次はアスタシオン殿下だよなー。マルティエナ女官は誰が選ばれると思う? お兄さんってそういう話する?」
ナザリクにとっては単なる雑談。
目的も無さそうな眼差しに興味津々でもない些細な声の抑揚。そうと思っていても胸に刺さる。
「どうでしょう。兄はそうした話をしないので何とも」
「だよなー。マルティエナ女官の兄さんだもんなー。そりゃあ口は堅いか」
招待客リストによると、アスタシオンのパートナーは一歳年上のハインオルド公爵令嬢だった。
聖テレシア女学院に在籍中トップの成績で居続けた、今世代の貴族令嬢にとって憧れの存在。公爵令嬢の祖父が王族の血筋を引いているので、アスタシオンとは遠い親戚に当たる。
家柄や交友関係から、王太子と婚約するのではと囁かれてもいた令嬢である。
今期の社交始まりの舞踏会で王族と親しげに会話していた姿が思い浮かんだ。
「次のパートナーに選ばれる幸運なご令嬢は誰だろうな」
王族の婚約はさっさと決めてくれないと後がつかえるしさー、と続いたぼやきにマルティエナは上手く頷けなくて、結局苦笑いで乗り切ることにした。




