5.望まずにはいられない
息が詰まる。
吸うことを忘れて、吐き出せない。
人に知られてはいけない関係だから?
「オーレン」
名前を呼び合える間柄ではないから?
「会えたね」
だから、こんなにも彼の言葉ひとつに揺さぶられてしまうのかもしれない。
そうでないと困る。
「お会いできて嬉しいです、殿下」
ただ歩くだけで注目を浴びる彼が、人目を忍んで来てくれた。
こうして会うこと自体が問題だと分かっているのに、胸に湧き上がるどうしようもない気持ちがマルティエナの言葉を正直にさせる。
「私もだよ」
アスタシオンもそうだった。
どんな形でも会えたことが何より嬉しいと伝わる笑み。
それを伝えてくれる声音。
触れ合う空気に、気持ちをのせてくれていた。
(好き、だなぁ)
他の言葉では言い表せない感情が胸を締め付ける。
声になど出せない。
この感情が占める割合を自覚するのも、知られるのも怖いのだ。
「仕事には慣れた?」
「はい。ユリスさんもブラウ宮内官も親切に教えてくださいますので、少しずつ慣れてきました」
「なら、いいんだ」
三度目だった。
アスタシオンを見上げて自覚する。
『マティアス・オーレン』とは違う身長差。
半歩分遠い距離感。
そして、彼の眼差しに映る偽りない自分の姿。
それに慣れる日は来るのだろうか。
「オーレンは女官服も似合ってるね」
アスタシオンの指先がマルティエナの前髪を揺らす。
流れる前髪を伝って、毛先に辿り着く。
伸びた数センチがアスタシオンの手のひらに収まって。
首筋に触れそうな彼の指先が心音を大きく響かせる。
「殿下……近いです」
兄に名を返してから伸ばし始めた髪は肩を流れ、鎖骨を掠めるようになった。
女学院のパーティーではカーチェが気合を入れて結ってくれたから、綺麗に髪を伸ばした令嬢と並んでも見劣りしなくて、一種の魔法のようなものだった。
古代魔法で偽らない姿。
華やかに飾り立てていない姿。
これまでとは違う素の自分だと思うと途端に心許なくなって、視線を逸らしたくなってしまう。
「そうだね。近いよ」
そんなマルティエナを前に、アスタシオンは目を細めて綻んで。
首筋に感じる彼の熱は遠ざかったのに、より一層彼の顔が寄せられた。
「私にだけ許される距離でありたいと願っているよ」
そうして、指先に絡められた髪が彼の口元で揺れた。
「君の兄さんに会う体でいつでも私の元へおいで。マルティエナ女官殿」
気づいた時にはエレノアの離宮にいた。
「――マルティエナさん?」
「っはい、なんでしょう」
離宮に戻って、エレノアの側に控えるユリスに戻ったことを伝えてから席について。
それから。
(私、何してたんだろう)
手元を見ても何もない。
書類は一枚も出ておらず、ペンもインクも片したまま。
時間がある時にやろうと思っていたことは沢山あるのに。
「エレノア様が今日はお部屋にお戻りになると仰いました。夕食も自室で簡単に済ませるとのことでしたので、私たちもそうしましょう」
「では夕食の手配を頼みますね」
「大丈夫です。先ほどエレノア様の執務室から済ませました」
「そうでしたか。ありがとうございます」
執務室の扉は開放されているから、普段なら気付けていたはずだ。
(私の馬鹿……)
王宮はほんの少しの油断が命取りになる。
分かっているつもりだったのに、心の何処かで安心してる自分がいる。
離宮内だからといって、全てが安全とは限らないのに。
「私ももうすぐ上がりますので、マルティエナさんは先にお休みになってください」
気を引き締めなければ。
気遣ってくれたユリスに感謝して部屋に戻ったマルティエナは、すっかり暗くなった自室で緩みきった己を叱咤する。
それなのに、吐き出した息は何処となく甘かった。




