21.優しい肯定
返事は後日で良いとジェナミアは言ったが、期限はそう長くはない。
火の季節の終わりが近づいている。日に日に乾いた風が水分を取り込んで、爽やかな空気に変わっていく。
マルティエナが女学院で過ごせる日々は残り一ヶ月を切っていた。
(休みを跨ぐ前にジェナミア先生に返事をしないと。だから、今日しかない)
返事は決めた。
その前にすべきことも、わかっている。
立ち上がる力をもらえた。望みを現実にする勇気をもらえた。
いつまでも与えられる優しさに甘えてはいられない。
マティアスとしても、マルティエナとしても。
いつだって隣で笑ってくれた彼との別れが来ようとも、行きたい場所ができたのだから――
◇◇◇
「マルティエナちゃん、今日も一日お疲れさま」
毎日変わることのない、聞きなれた彼の第一声。
けれど、彼が佇む景色の色合いは日に日に明るみを帯びていた。
光に透ける薄いベージュの髪色が、より透き通った柔らかな雰囲気を彼に与えている。
「今日も迎えに来てくださってありがとうございます、クレイグ様」
差し出された手に指先を重ねる。そのまま馬車に乗り込むかと思えば、クレイグは手を握ったまま動かない。
疑問に思って、風に揺れる長い前髪で遮られた瞳を見上げた。
「――あのさ。俺、寄り道したいところがあるんだよね。付き合ってくれる?」
微笑んでいるのに、塞ぎ込んだ色合いを覗かせた彼の瞳にマルティエナは首を振る。
伝えなければならない話はあるけれど、気落ちした彼を元気づけることの方が大事だ。
「良かった」と笑って御者に指示をしたクレイグのエスコートで、マルティエナは馬車に乗り込んだ。
カタカタと揺れる馬車のなかで行き先を尋ねると、女学院が接する通りから数本逸れた十字路の中央に設けられた噴水広場だった。
なんでも各地を旅している楽団が訪れていて、人通りが増えて賑わう夕方から夜にかけての時間帯に数曲演奏しているらしい。
同じ王都に住んでいても、マルティエナは知り得なかった情報だ。
王都の中心街からも外れた地区の些細な話題にまで耳を傾けているのは、クレイグらしいとも言える。
距離を縮めるたびに、窓越しに漏れ聞こえる雑音が軽やかな楽の音に塗り替わる。
細い通りにぽつぽつと灯る街灯の明かりから、広い十字路の両端を埋め尽くす店の彩り豊かな照明に染められていく。
馬車を降りて広場をゆっくりと歩くクレイグは、目を細めて微笑んでいた。
心が弾む陽気な音楽や街道沿いに並んだテーブル席で酒を片手に賑わう大人たちに、親に手を引かれて歩く子どもの笑い声。
目に付いた出店で火鶏のロースト肉を詰め込んだパイを買って、今し方空いたばかりの花壇の縁石に腰を下ろす。
ここの噴水広場は休憩するためのベンチだけでなく、噴水や花壇の縁が椅子代わりになるように設計されている。
噴水を背に楽器を奏でる楽団の前方には簡易式のベンチが用意されていたのだが、そのほとんどが埋まっていた。その盛況ぶりから、楽団の来訪が近隣に住む人々にはちょっとした祭りになっていることが窺えた。
「マルティエナちゃんさ、俺に話したいことあるんじゃない?」
早々とパイを食べきったクレイグに遅れて最後の一口を食べ終えたマルティエナが包み紙を折りたたむと、穏やかな声が降ってきた。
弦を鳴らす奏者を眺めていたクレイグが、今はこちらを見下ろしている。
向けられた笑みで、マルティエナは気づいてしまった。
「マティアスも同じだったからさ。冷めた現実を見ちゃうところも、それでも決意したら突き進むところも。決めたんだよね?」
「――はい」
顔を合わせた瞬間から彼は気づいていたのだと。
これから告げる言葉が、マルティエナの揺るがない決意であって、そして自分たちの別れに繋がるのだと。
「私、クレイグ様のこと好きですよ」
何から話そうか。悩むよりも早く言葉が出ていた。
「――うん」
クレイグは嬉しそうに笑ってくれていた。
「ひとりの友人として好きですし、ひとりの男性としても――好きだと思いました」
「うん」
悲しい感情を絶え間なく奏でられる陽気な音色が包み隠してくれる。
マルティエナの決断を察したからこそ、クレイグはこの場に立ち寄ったのではないか。
それはきっと、彼自身の感情を悟らせない為に必要だったはずで。
「貴方に感謝をしています。貴方とお兄様のご友人を紹介してくださって、毎日迎えにきてくださって、私が女学院に馴染めるようにしてくださって。貴方のそういった特別な親切のおかげで、私は、私の人生を楽しいと思えるようになりました」
そのことに気づいてしまったから、一番に彼への感謝を伝えたかった。
「うん、マルティエナちゃんにそう思ってもらえて嬉しいな」
クレイグは時々本心を隠す。それでも、今この一瞬は心から喜んでくれているのだろう。
「今の私がいるのは、貴方のおかげなんです」
「うん」
弦の音が跳ねる。
どこから現れたのか、煌びやかな衣装を見にまとった踊り子が舞い始めて、拍手や指笛が鳴り響く。
クレイグが笑うから、マルティエナも目を細めて笑う。
別れを惜しむよりもずっと大切に思えるから、幸せな時間を少しでも長く感じていたい。
「ですが、忘れられない想いがあって」
「うん」
透きとおる水晶にも似たアイスブルーの瞳には、黄色の外灯に橙のランタンの燈、光を受けて一層鮮やかになる蒼や翠の絹の裾をはためかせる踊り子の輝きが、ゆらゆらと映し出されている。
それがかえって翳りを色濃くさせるけれど、クレイグは見てほしくないのだろうから、反射する輝きだけを目に留めた。
「私の憧れで、夢のような物語だったんです。叶わないと思い続けていた恋をしていたんです」
「うん」
「叶わなくても、傍にいれなくてもいいから、少しでもその人の近くにいきたいと思ってしまったんです」
「うん――分かるよ、マルティエナちゃん」
クレイグは笑っていた。
どうしても息が苦しくなって唇を食んでしまうのに、向けられた眼差しに「笑ってよ」と言われているようで不格好に頬を持ち上げる。
「――クレイグ様のお気持ちにはお応えできません。私を見ていてくれて、ありがとうございます。私は幸せでした」
「うん。こちらこそ、ありがとね。俺もずっと楽しかったし! 幸せな時間をもらったよ」
まだまだ夜の賑わいは続くけれど、子どもたちの夜は早い。
帰りを促すような緩やかな曲調が流れ出したのをきっかけに、クレイグは立ち上がった。
差し伸べられた手のひらに連れられて、マルティエナも歩き出す。
「あのさ、マルティエナちゃん。俺からひとつ提案なんだけど、聞いてくれる?」
「何でしょう?」
広場の端で待たせている馬車に近づくにつれて、賑わいが遠くに流れていく。
「俺らが友達なのはこれからも同じだって思っていい? 変わらずに友人でいてほしいな、俺はさ」
「クレイグ様がそう思ってくれるのなら。私にとっては、いつだって代わりのいない特別な友人ですよ」
「そっか。――なら、俺はやっぱ幸せ者だ!」
消えていく幸せへの寂寥を感じる暇もない。
そう思わせてくれるところもクレイグらしくて、マルティエナは耳の奥に木霊する彼の余韻を噛み締める。
「それと、俺がマルティエナちゃんの逃げ道になるって話」
「私が決断するための勇気をくださいましたね」
ひとりでは太刀打ちできない形のない恐怖に相対するためには、勇気が必要だった。
『マティアス・オーレン』として過ごしている間はいつだって強く在れた。尊敬する兄のためと思えば、それが立ち向かう力になった。
その欠けた穴が埋まらずにいたから、気持ちがあっても決断をできずにいた。
――逃げればいい、と。
非現実的なことをさも簡単なようにクレイグが話してしまうから、選択肢のひとつに含んでしまえる。
例え先の未来に光が射さなくても、自ら選べる選択肢があると思えば、立ち向かう力に変えられた。
(だから、何があっても私は逃げない。私の望みのために選んだ道だから、逃げる選択肢は選ばない)
そう伝えよう。
胸に手を当てて決意を固めたマルティエナとは反対に、クレイグは気の抜けた調子でにへらと頬を崩す。
「あれさ、本気だから。いつだって、どんな状況にあっても、ひとつの選択肢として覚えていてよ。――俺はマルティエナちゃんの一番の友人で、親友だって、忘れないでほしいな」
そんなことを軽口のように言ってしまうものだから、言葉にしようとした決意をマルティエナは固く飲み込むことになった。
(親友のためならなんだってするもんね。クレイグは)
侯爵家の生まれでも爵位を継がない三男だからとクレイグは気軽に話すが、例え後継者だったとしても彼の気質は変わらないのだろう。
互いに一歩も引かないことは目に見えているから、心に留めて頷くことにした。




