42.積もり積もった情の名は、
ヴァンビエント公爵邸の裏側は、鍾乳洞の庭園が広がっていた。
太陽の明かりを邸に遮られた庭園は日中と思えない夜の世界が広がっている。
(正面から眺めていたら緑白色に輝いて明るかったのに)
時間などお構いなしな庭園を、マルティエナは窓ガラスを隔てた一室から眺めていた。
「どう? 私のお気に入りなんだ」
薄いレースに覆われた肩へと人肌に温まった上着が乗せられる。
濃紺のシャツ姿のアスタシオンからは、淹れたばかりのコーヒーの香りが漂っていた。
テーブルには湯気の上るカップが二つ置かれている。
手ずから用意したアスタシオンが着席する気配はなく、マルティエナもまたガラス窓の向こう側へと視線を戻す。
「どこを見ても綺麗で、時間の感覚も忘れて魅入ってしまいます」
天井から垂れ下がる氷柱状の鍾乳石と地層から柱が伸びたような石筍。
随所にみられるそれらの他にも、白い結晶の塊や淡い緑に光る小池、氷が張ったように艶やかな段丘も広がっている。
閉塞的な暗闇でも見渡せるのは、自然が織りなす地形を彩るように設置された外灯のおかげだ。
ステンドグラスでつくられているのか宝石のように輝く円柱の外灯が、天井から足元まで柔らかく照らしている。
そこに腕を組んで歩く二人組を見つけた。
「せっかくだから夜会の息抜きに私たちも散策しようか」
庭園を彩る全ての明かりが二人の為のものに思えるエレノアと王太子の仲睦まじい姿は、アスタシオンの目にも留まったらしい。
「とても嬉しいお誘いですが、殿下が抜け出したら悲しまれる方が大勢います」
いつの間にか、視界に広がる庭園よりもガラスに映るアスタシオンばかりを見てしまう。
目尻の下がった優しい眼差しと、緩やかに持ち上がった口元。
穏やかに微笑む彼も窓の外を見ているようで、自分を見ているのだと感じていた。
いっそのこと顔を向き合わせれば良いのに、どうしてかそれができない。
浮ついた熱が頬に集まるのを留めたい。
そんな思いが、意に反して可愛げのない言葉を紡いでいく。
「なら私たちの後を追いかけてもらえば良い。この庭園は滅多に開放しないからね。知らずに帰るなんて、勿体ないと思わない?」
「――そうですね。次の機会まで、きっと何度も後悔するでしょう」
そしてそれは私もだ、とマルティエナは認める。
アスタシオンの誘いを断りたくなんてない。次の機会に関わらず、死ぬまで後悔を引きずりそうだ。
「殿下にご案内いただけるのが今から楽しみで待ち遠しいです」
あと一時間も経たぬ間に陽は沈む。
まばらに集まり始めている貴族が邸宅の大ホールを埋めると夜会は始まる。その何時間後に機会が訪れるだろう。
その時には今とは異なる景色に変わっているのだろうか。
それとも、時間を留めたかのように揺るがぬ庭園を眺め歩けるのだろうか。
時間の感覚を失ってしまう、彼との今を。
どのくらい長く留めておけるのだろうか。
(屋敷も庭園も光り輝いて眩しいのに、どこか落ち着く。王宮に似てるけど違うのは洞窟の陰が夜を感じさせるからかな)
いつまでも留まっていたいと思わせてくれるアスタシオンの世界。
それが叶うのなら脇役で構わない。
「ねえ、オーレン。私のパートナーに君を望んだのはエレノア嬢だけれど、それを許したのは兄なんだよ」
岩場の奥を指さしたエレノアに連れられて、王太子の姿が闇のなかに消えていく。
スポットライトを浴びるような二人の姿が見えなくなると、眩しい光が和らいで徐々に彩を消していく。
そうして静まった景色の前では、ガラス越しのアスタシオンの瞳が際立って映った。
「君を自領に連れて行くことを決めたのも兄だ。――私が君に贈った言葉は覚えているね?」
「王太子殿下にとって代えのきかない存在になれと。私にはまだ、果てしなく遠い話です。今回は偶々ですから。エレノアさんの女官が私ひとりで、エレノアさんは私の為に助力してくれるから」
だから、王太子はエレノアの意を汲んでくれたのだ。
胸を張れない報告に落ちそうになる視線を、アスタシオンが微笑みで止める。
目を離せなくなるほどに慈しむ笑みをくれるから、どうしようもなく救われた気持ちになる。
「きっと兄は、自分の眼で君を見定めようとしているんだよ。君と真正面から関わった者は皆、疑いをもってしても君を認めざるを得なくなるから」
アスタシオンの言葉は、反省と否定ばかり繰り返す思考を救ってくれる。それが事実なのだと納得させてくれる。
「君がどんな姿でいたかなんて関係ない。これまで積み重ねてきた君の努力が、今の君をつくっているんだよ」
早々に諦めた『マルティエナ・オーレン』という自分自身に、価値を見出してくれるから。
そう信じて、待ち続けてくれるから。
(私は、殿下の隣に立てる私で在りたい)
ガラス越しではなくて、直接向き合いたい。
自分だけを見続けてくれる彼の眼差しを覗き込みたい。
――淡く透き通るエメラルドの瞳を直にみたい。
そう思うだけで終わった日とは違うのだから。
「もう夢にはならないよ、オーレン。君が選んで、私の元まで来たんだ」
足先を変えたのはほぼ同時だった。
彼の感情が直向きに届く翠の瞳が直接マルティエナを映し出す。
同じように、自分の瞳には彼だけが映っているのだろう。
「私はもう、君の本当の名を何度だって呼べる。そうしてくれたのは、君なんだ」
彼の目にも焼き付いてほしい。
自分の視界をアスタシオンだけが占めることを。
気づいていてほしくて、瞬きを止める。
「だから。もう夢だなんて思わないで、私の手を取って」
それでも、緩んだ涙腺は止められなかった。
「マルティエナ」
目尻に溜まる涙に触れる指先と、切実に願う彼の瞳が胸を締める。
泰然として自信も窺えるのに、不安が見え隠れするアスタシオンの指先へとマルティエナは手を伸ばした。
返す答えは決まっている。
抑えきれない想いがあると知ってしまったから。
知らない振りは出来なくなってしまったから。
遠くから眺めるだけでは終われない想いがあると身に染みたから。
夢と名付けて区切りをつけた過去とは異なる意味を込めて。
「殿下――――」
認められなかった情を『恋』と名付けて、マルティエナは言の葉にのせるのだ。




