39.感染する温度
アスタシオンが訪ねてくる。
そう思うと、気が気じゃない。
自室に入るなり窓を開けたマルティエナは室内を見渡す。
書きかけの手紙は風で飛ばないように文鎮を乗せて、椅子やテーブル周りに余計なものが置かれていないか確認する。
水差しはあるけれど、グラスはひとつしかない。
グラスを取りに行くか、いっそのことお茶を用意するべきか。
そうは思っても、部屋を空けている間にアスタシオンが訪ねてきてすれ違いになるのは嫌だった。
(でも、ひとつしかないグラスを殿下に差し出しても受け取ってもらえない)
決断が出来ずに右往左往していると、開け放たれた窓から心地良い風が入るのを肌で感じた。
漂った彼の香りがままならない思考を吹き飛ばしてしまう。
「おかえり、オーレン」
脳を焦がして、胸のうちに溶けていく声音。
無事に戻ってこれて良かったと思わせてくれる、柔らかな微笑み。
会いたかった、と。
その想いだけをどうしようもなく膨れ上がらせる彼の眼差しに、マルティエナは目を細める。
「約束通り会いに来たよ。こんな時間でも、お邪魔していいかな?」
「もちろんです。どうぞ」
身体を横に向けたマルティエナは、カウチへと案内する。
明かりを弱めたシャンデリアの真下にあって、夜の静けさに包まれながらも温もりが感じられる。
けれど、アスタシオンが歩みを進めた先は、灯りの届かない暗がりだった。
ポフ、と空気の抜けた音と同時に木枠が微かに軋んだ。
「オーレン、こっちおいで」
まるで部屋の主のように。
寝台の片隅に浅く腰掛けたアスタシオンは、皺なく整えられていた布団を叩く。
「殿下……?」
意図を図りかねて、狼狽える。
アスタシオンは綺麗な弧を口元で描いた。
「オーレンは布団に入るんだよ。君が眠るまで、話し相手にでもなろうと思ってね」
「――いえいえ! そんなっ! 駄目です、殿下を見送らせてください!」
言葉を理解するなり慌てて否定したマルティエナは、眉尻を下げたアスタシオンに胸が締め付けられる。
(殿下はずるい)
見た目に反して、やることは横暴だ。
「私がそうしたいんだ。どうしても、いけない?」
そんな言い方はずるい。
嫌か、と聞かないのも反則だ。
(私が立場を気にしてるだけだって気づかれてる)
今でさえ、第二王子と女官ではあり得ないひと時なのだ。
それ以上は求めてはいけないと理性が歯止めを掛けているのに。
遠くからアスタシオンを眺めるだけで良いと思っていた気持ちが、甘やかに溶かされていく。
「いけなく、ない……です」
言ってしまった手前、やっぱり無理だとは言いたくない。
羽織をサイドテーブルへと置いたマルティエナは、そろりそろりと足から順に布団へ身体を埋めていく。
けれど、その前にどうしても避けてはならない話があった。
「殿下。お伝えしなければならないことがあります」
半身を振り返ったアスタシオンと向かい合う。
向かい合っているはずなのに、合わないように感じる眼差しに喉が引きつった。
(……お兄様との約束、破っちゃった。でも仕方ないよね)
土の季節真っ只中の今日は、夜の空気も温かい。
羽織を着たまま眠った日には汗ばんで目が覚めてしまう。
だから、脱いだのは致し方ない。
首元は鎖骨が顔を出すまで開き、肩から先も肌が透ける薄い生地だけれど、夜会ではもっと肌を見せたドレスを着る令嬢だっている。
兄とは比較にならないほど社交界に数多く顔を出すアスタシオンは、この程度気にも留めない。
後付けの理由をマルティエナは必死に取り繕う。
室内の僅かな照明も逆光になって陰ったアスタシオンの視線の先に、意味を見出さないように。
「魔導騎士のギーク・ランスベルさんに、私と殿下の関係性に勘づかれました。王太子殿下にも既に伝わっているかもしれません」
「オーレン、私の心配はしなくて大丈夫だよ。それよりも――……何か、嫌なことされた? そっちの方が問題だ」
一転して凍てついた空気は、首を振って振り払った。
「私が疑われる行いをしてしまったので、少し脅されただけです。害する気はないと分かっていましたから平気でしたよ。一度きりで、その後は親しく接してくださいましたし、私の体調も気に掛けてくださってましたから」
安心してほしくて言葉を重ねる。不服に思っていることは伝わってきたけれど、省いた詳細を追求されることはなかった。
アスタシオンは観念したように笑む。
「難しいことはもう考えなくていいから、オーレンはゆっくりと眠るんだ。ほら、横になって」
布団を引っ張り上げてマルティエナを寝台に押し込むと、彼は満足したらしかった。
背を向けたアスタシオンから冷えた温度は感じない。
それなのに、距離を感じていた。
「眠るまで、手に触れてても良いですか?」
勘違いだと思いたかった。
「いけないよ。私は王宮に帰らなきゃいけないからね。君を起こしたくはないんだ」
「起きませんよ。私、寝つきが良い方なんです」
マルティエナはそう口にしながら、瞼を伏せた。
声なんてかけずに手を重ねればよかった。
そうすれば拒絶されずに済んだかもしれない。
「それでもいけないよ。こんな真夜中に布団にくるまる君に触れたら、襲ってしまうだろうからね」
アスタシオンの顔だけが振り返った。
「過去に一度、君を奪おうとしたことがある。前科者の私を信頼しすぎてはいけないよ?」
瞬きを終えた時には、頭上にアスタシオンの金の髪が流れ落ちていた。
より一層闇に紛れた表情から、火傷しそうな眼光が見える。
そんな気がした。
「この間だって、歯止めが効かなくなりそうで苦労したんだ。夜は良くないね。暗闇に紛れて、何だって出来てしまえるから」
身体の横へと置かれた手に体重が加わって、寝台を軋ませる。
――数分前の、陰って見えないアスタシオンの眼差しがマルティエナの脳裏に蘇る。
普段の自分と比べたら肌は出していたけれど、世間的に思えばそれほどでもない。
それなのに、首元や肩はきっと、赤く染まっていた。
アスタシオンは気づいていただろうか。
ドレスよりも薄い夜着の生地が、隠れた肌も、その奥すらも透かしているのではないかと心配になっては汗ばむ肌に夜着が吸い寄せられる様を。
どのような思いで、眺めていただろうか。
触れていないのに、そうは思えない。
早まる鼓動が熱を生んで、血を駆け巡る。
「眠れなくなるのは、よくありませんよね。殿下が王宮に戻って休めるように、私も寝ますね」
熱に浮かされながらも、震える口が声を絞り出す。
吐き出した吐息は熱い。
身体のあちこちからアスタシオンの熱を感じていた。
両手で顔を覆いたい。
布団を頭から被って身を隠したい。
それを、覆いかぶさるアスタシオンが許してくれない。
マルティエナに被さる布団を固定した彼の両の手は、互いに効かせた歯止めだった。
「目を閉じて」
互いだけをただひたすらに見つめていた静寂に、アスタシオンの甘い声が過ぎる。
言われるままに視界を閉ざすと、より強く実感する。
触れることのできない心は、確かに繋がっているのだと。
どっちのものか識別できないほどに混ざり合っているのだと。
「おやすみ、オーレン」
その声はまるで魔法のように鼓膜に溶けた。
(まだ、眠りたくなんてないのに)
あと少し。
一秒でも良いからと、眠れぬ夜を願う。
触れるよりも近い距離を、記憶の全てで覚えておきたい。
触れずとも暖かな熱が近づいてから離れていくのを、マルティエナは遠退く意識の縁で感じていた。




