36.光の追従者
特務隊が王宮へと帰還した日の夜更け。
夜闇に染まらずに煌々と灯りを燈す王宮の影を這うように二階の窓を叩いたギークは、返事なく開かれた窓の隙間に身を滑り込ませた。
「長旅ご苦労だったね」
暗がりに投じる瞳に始めに映るのは、燭台の灯に照らされて黄金に輝く、水を帯びた髪だ。
滴る水滴が上気した肌を伝い、首に掛けられたタオルへと吸い込まれていく。
緩く着流したシャツは所々肌に張り付き、引き締まった肉体を主張する。
同性でも見惚れてしまう美しさを全身に備えた男だった。
けれど、穏やかな微笑みの下に隠れた冷徹な支配者の顔をギークは知っている。
「ご報告に参りました、殿下」
床に跪いたギークは火のついていない暖炉の前へと進むと、腰掛けたソルディオンの正面に立つ。
そうして、一冊のノートを差し出した。
「これは?」
手にしたソルディオンがぱらぱらと捲り、一ページ目に戻してからゆっくりと目を滑らせる。
そうしながらも、ノートにのせた手は文字を描いて、湿った髪から余分な水気を抜き取っていく。
「女官が提出した報告書はご確認なさいましたか?」
「ああ。君らしい、端的で過不足ない報告書だったよ。魔法士団副隊長の報告書もね」
ページを捲る音だけが、この場を支配する。
ギークは峡谷調査が始まって以来、今日という日を恐れながらも心待ちにしていた。
「これは、そのどちらとも似て非なるものだけれど、女官の字だね」
エレノアの女官であるマルティエナ・オーレンに名目上の役割のみを与えたソルディオン・リヒトライ・ヴァルトセレーノが、彼女の日記に何を思い、どう評価するのか。
それを知りたくて堪らなかったのだ。
「女官の日記ですよ。私の報告書を読む前に毎日、彼女なりの報告書を書いていました。後学のために私のものと比較したかったそうです」
無反応なソルディオンの視線は手元の日記から逸れない。
はらり、はらりと丁寧に読み進められる記述の日付が飛んだところで、ギークは言葉を重ねた。
「エレノア様が拉致から戻ってこられた翌日の記述が抜けているでしょう。マルティエナ女官は高熱で寝込んだので、何も書けなかったんです。エレノア様の甲斐甲斐しい看病を受けたことでも書けば良いのに、そうした日常的な日記は書かないようですね」
ここぞとばかりにソルディオンの最愛の婚約者の名を出してみても、返ってきたのは意味を持たない沈黙だ。
(うーわ……つまんな)
真面目な面持ちのまま待機するギークは、内心でだけ毒づいてみる。
王太子であるソルディオンは生まれ持った光属性の魔力も相まって、ヴァルトセレーノ王国を照らす聖王になるだろうと名高いけれど、その内は非常に冷静沈着で冷酷な絶対的支配者だ。
求める結果の為なら、犠牲も厭わない。国の為になる犠牲は名誉だと本心から思っていることだろう。
そんな王太子が特別な恋情を抱く姿も、政治上有益な候補者を切り捨てて愛で成り立った婚約を強行したことも、誰が想像できようか。
(絵に描いたようなラブロマンスで平民から絶大な人気を得たわけだけど)
それも計算のうちなのだろう、とは見当がつく。
ひとりの少女が王太子の性格ごと変えてしまったのかと一時期は思ったが、エレノアの関与しない場では相変わらずだった。
そんな非情なまでに合理的な王太子が、あの訳ありな女官をどう扱うのか。
(褒めそやかすなんて有り得ないって思っても、気になるんだよな)
きっちり最後のページまで目を通し終えたソルディオンがテーブルへと置く。
「いかがでしたか」
期待を隠して問いかけたギークは、骨の髄まで底冷えする一瞥に頬が引きつるのを感じた。
「それで? まさか、これだけとは言わないだろう」
もしそうだとしたら心底残念だ、とソルディオンが微笑む。
「マルティエナ女官はアスタシオン殿下の手の者かと。病弱で引き篭もっていただけの伯爵令嬢ではないことは確かですが、エレノア様の敵にはならないでしょうね。脅したら動揺は見せましたけど、自白剤を飲ませても簡単には吐かないように思いました」
早々と降参したギークは、マルティエナを脅して得た収穫を伝えることにした。
ソルディオンの真意を探ろうなんて馬鹿な真似は無謀だし、自ら首を絞めるなんて性にも合わない。
へえ、と会話にもならない相槌で再び訪れた沈黙をギークは耐える。
燭台の炎が揺らめく回数をひたすらに数える時間だった。
「君も彼女に情でも湧いたかな」
「はい?」
二十を数えて告げられた一言に瞠目する。
(今の流れのどこでそんな結論付けるんだよ? まあ、あながち間違いでもないのは癪だけど)
あっさり絆されたと思われるのは釈然としない。
第二王子の腹心である可能性に気づいてからは興味本位で交流を図ってみたけれど、酷評に値する要素がなかったのだ。
真面目でひたむきな姿は誰だって好ましく思うものだろう。
(自己肯定感が低いっていうか、自分を卑下するのはどうかと思うけどな。そんなん、問い詰めない限りはおくびにも出さないし)
脅した直後は多少の警戒を見せたけれど、それが解れるのはあっという間だった。
――不覚にも、そう思ってしまったのだ。
親しみを感じさせる態度に懐かれていると勘違いして、ふとした時にまだ警戒されていることに気づく。
引かれた線の内側にいるのはエレノアとナザリクだけだと気付いたのは、攫われたエレノア達が戻ってからだった。
それに、見た目や物腰柔らかな言動に反して、意外にも強情な面がある。
ボロがでるのを期待して彼女を可愛がっては、線引きが消えていくのを待ってみたけれど、それを『情が湧いた』と表現してよいものか。
(殿下があの女官を切り捨てるのなら、俺もそうする)
その程度の、束の間の情である。
不服で口を曲げたギークとは反対に、ソルディオンはほくそ笑む。
「面白いじゃないか――彼女もアスタシオンのお気に入りなのだとしたら、役に立つのだろうね」
ソルディオンにとっての『マルティエナ・オーレン』は、どの盤面に動かされるのか。
それを尋ねる度胸はギークにはなかった。




