35.鳴らない警鐘
結果として、敵地を抜けて外へ出るのは呆気ないものだった。
「思い返しても、あの魔法使い以外はただの野盗でしたね」
魂が抜けたように椅子にだらしなく座るナザリクが宙を見る。
視線は上の空だ。
最も重要な証人になっていたかもしれない魔法使いを殺めたことを、相当悔やんでいるらしい。
「隊長たちの調査が進展あると良いんだけど……」
そう話すエレノアは、セペルハース峡谷で育った林檎の皮を剥いてマルティエナへと差し出す。
峡谷特有の気候の影響なのか、林檎の実は一口で食べきれるほど小さく、甘さがギュッと凝縮されている。シャキシャキとした歯見ごたえを感じたと思ったら、ふわりと溶けていく軽さもあって、熱で火照った身体でもすんなりと喉を通っていった。
「私のせいでお二人まで屋敷に留まることになってしまって、申し訳ないです」
峡谷調査に踏み込んだあの日、適地となっていた洞窟から外に出たマルティエナたちは、エレノアが空へと打ち上げた光属性の魔法によって駆け付けてくれた特務隊員とともに、敵が使っていたと思われる一本道を辿って峡谷を抜けた。
それから近くの村で馬を借り、峡谷の頂にある辺境伯の別荘に着いた時には、窓から漏れる明かりが消え去った深夜だった。
落石によってばらけてしまった他の皆も、負傷はあるものの戻ってきているとのことで、それぞれ何が起きていたのか話をまとめるのは翌日に持ち越しになったのだが――
(まさか高熱で倒れるなんて)
原因は分かっている。
闇魔法で昏睡状態に陥っていた時に、氷入りの冷や水を頭に掛けられたからだ。
緊張が長時間続いていたことや、久しぶりに魔法を使って魔力を消耗したのも、熱が悪化した要因だろう。
打ち合わせに不参加となってしまったマルティエナの元へと、エレノアとナザリクが看病と併せて状況を教えにきてくれていた。
「敵はエレノア様狙いだから、どっちにしろ待機させられてたよ。この魔道具だって、安心して任せられる人が必要だしさ」
もう魔力は尽きたようだけど、と続けたナザリクの手には懐中時計のような魔道具が握られている。
峡谷の異変が闇商人の下請けである野盗が起こした事象だったのなら、これを機に落ち着いていくだろう。
この地に滞在して調査を続けた後、そう結論付けられれば王宮へ帰還する予定だ。
ナザリクが手にしている魔道具は今回の騒動の証拠となる為、ヴァルトセレーノ王国で厳重に管理し、研究することになった。
闇属性の魔法士集団の手掛かりになる魔道具を教会は手中に収めたいものと思っていたけれど、随時の情報共有と、必要に応じた共同研究を条件にすんなり決まったのは、教会の代表がセルベスタだったからだろうか。
捕らわれた洞窟が闇の神を祀る聖堂のような場所だったため、セルベスタとこの地の司教、そしてギークは現場の調査へ向かっている。
隊長率いる残りの特務隊員は捕えた者への訊問と闇商人の捜索、そしてイシドールとの峡谷調査へ分かれているらしい。
「闇商人の追跡と訊問が終わって安全性が確認できたら、イシドールさんの調査に加わることになってるの。私たちは今のうちに休んでおこう!」
もっと食べて、と林檎を刺したフォークを向けるエレノアに、マルティエナは甘えることにした。
◇◇◇
町の小さな教会に寝泊まりしていたセルベスタは、晩餐会の招待を受けてハーストーン辺境伯の別荘を訪れていた。
晩餐会と言っても、そのほとんどが騎士や魔法士だ。
ヴァルトセレーノ王国の王宮で編成された特務隊が峡谷の調査を終えたので、別れの挨拶を兼ねた打ち上げである。
日頃この地を守っているハーストーン辺境伯の騎士団と特務隊が入り混じりながら、騒々しく酒を酌み交わしている。
そうした様子を見渡せる上座へと案内されたセルベスタは、魔法士団副団長であり特務隊隊長のヨリアンと静かに杯を傾けていた。
この場にはヴァルトセレーノ王立魔法学院での教え子が何人もいる。
王太子のソルディオン・リヒトライ・ヴァルトセレーノが学院に入学した年からの八年間を教職に費やしてきたセルベスタには、教え子の成長が感慨深くあった。
関わった年数はそれぞれ異なるが、当時の面影を残して成長した教え子達を微笑ましく思っていると、取り分け長い付き合いの一人が席を立つ姿が目に留まる。
エレノア・シュネヴィオール――生まれた時から光属性の魔力を大量に有し、教会内部で長年成長を期待されていた子どもである。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院には何人もの司教が教師として在籍しているが、それは未来の優秀な魔法士とクレメン教会の縁を繋ぎ、場合によっては神職へ招く目的もあるからだ。
ヴァルトセレーノ王国の次代を統べる王太子と、その補佐に回るであろう第二王子。
エレノアとは反対に、生まれ落ちた瞬間から危険視されていた闇属性の魔力の塊とも言えるコルスタン・カムデン。
そして、小さな公国では勿体無いないほどの多彩な才能があるネヴィル・クラタナス。
他にも数人、神の思召しとしか思えないほどに特異な存在が寄り集まった世代。
そんな彼らとの縁を深め、クレメン教会の教えを未来へ繋ぐため。
若くして枢機卿の名を賜った己が教師の任を賜ったのである。
けれど、セルベスタには彼らの他にも特別気に掛けていた学生がいた。
(オーレン君の双子の妹――見れば見るほどに似ている)
立ち上がったエレノアを気に掛ける仕草。手を振って一人でバルコニーへと消えていくエレノアの後ろ姿を見守る眼差し。
後を追うナザリクと目配せした時の安堵した表情まで。
性別を除けば『マティアス・オーレン』本人のように、セルベスタの眼に映っていた。
声を掛けようか。
考える間にも、彼女はギークに絡まれて騎士たちの輪に入っていく。
峡谷調査に入ってからの約ひと月で言葉を交える機会は幾度とあったけれど、良くも悪くも適度な距離で、彼女が女官の顔を崩したことはなかった。
どうしようか、と考えた末に手にしていた杯を空にしたセルベスタは、夜風に当たる教え子に別れの挨拶をすることにした。
バルコニーの手前に立つナザリクにひと声かけてから、空気を孕んだカーテンを潜る。
ナザリクとの会話が聞こえていたようで、エレノアは満面の笑みでセルベスタを出迎えた。
冴え渡る紫紺の夜空には真っ白な星が散らばっている。
王立魔法学院の助手期間を終えてから今日に至るまでの日々を搔い摘まんで報告してくれるエレノアへと耳を傾けていたセルベスタは、高濃度のアルコールで高揚する熱を引き下げる冷気を吸い込んだ。
「マルティエナ・オーレン女官は、貴女にとってかけがえのない方なのですね」
柔らかく微笑むと、より一層嬉しそうにエレノアが綻ぶ。
風の季節からの一年にも満たない間に、『マルティエナ・オーレン』はエレノアの特別な存在へと昇華したらしい。
(エレノアさんの性格上、何もおかしなことではないですが)
他者との交流を好み、分け隔てなく人と接し、無類のお人好しだった彼女を、多くの者は博愛主義と捉えるのではないか。自身の心に境界線を引かず、誰しもと心を通わす。それを実現できる者は多くはない。
「彼女はマティアス君に非常に良く似ている。そうは思いませんか?」
対するマティアス・オーレンはというと――きっと彼のことも、多くの者は博愛のように思うだろう。
目立った何かを進んで行うことはなくても、困っているものがいれば、それが人でも魔獣でも手を差し伸べる。
立ち姿から滲む気品や飄々とした振舞いには近寄りがたさも感じるけれど、一度でも歩み寄ればすんなりと他者を受け入れる寛容な彼は、人知れず人気だった。それは学生に留まらず、教師の間でも勉強熱心な彼は一目置かれていた。
しかし、エレノアとは決定的な違いがある。
心許されていると錯覚してしまうほど親密に思えても、決して踏み込むことのできない彼だけの領域。明確な線引きは、最も彼が信頼していた学友も含めた全てに存在していた。
情に脆く、誰をも受け入れるのに、今にでも全てを切り捨てて身をくらませてしまいそうな危うさ。
『マルティエナ・オーレン』に感じた既視感によって、セルベスタはそうした『マティアス・オーレン』をまざまざと思い出していた。
「本当、よく似ていますよね! 実は私も何度見間違えたことか……」
えへへ、と頬を掻くエレノアの顔は赤い。
あの人たらしな一面は、もしや妹にも引き継がれているのだろうか。
今すぐにでも背後のカーテンを開いて、大半を男が占める騎士と魔法士の輪に混ざる女官を確認したい衝動に駆られた。
もしも、無意識に顔を寄せるようなことがあれば、酒の入った男達に何をされるか。
そう思うと、守らなければ――という感情が湧きたつ。
大切な教え子の家族だから、そう思うのだろうか。
「でも、関わるにつれてやっぱり違うなって思うこともありました」
空を見上げたエレノアに倣って、セルベスタも頭上を見上げる。
白く輝く月が数多の星とともに冴えた明るい闇に浮かんでいる。
半分欠けた月は輪郭を闇に溶かして、己の存在を薄めていた。
「マルティエナさんは、なんだか『守らなきゃ』って思うんですよね。――無理しすぎないように私が負担を減らしてあげたいなって」
闇の神オスクリートが支配する夜を、エレノアは慈しむ。
白昼に光の神に祈りを捧げるように、闇の神に誓っているように見えた。
「私のほうが助けられてばかりなんですけど。でも、そういう所はやっぱり、似てても違うなって思うんです。 マティアス君って、何でも卒なくこなしちゃうじゃないですか!」
そうして朗らかに笑んだエレノアにつられて、セルベスタも穏やかにほほ笑む。
「そうでしたね」
心地良く冷えた夜の風を浴びて、月夜を眺める。
エレノアの去ったバルコニーで、セルベスタは雲のない鮮明な闇の空を見上げていた。
雲に攫われることなく姿を見せ続けるのに、今にも闇に塗れてしまいそうな脆い月を見ると、思い出す。
コルスタン・カムデンが魔力暴走を起こした学院祭を。
誰かに縋らなければ今にも崩れ消えてしまいそうな、儚い眼差しを。
(マティアス君も、そうだったんですよ。エレノアさん)
エレノアとの会話を通して、より強く実感する。
性別以外は全て――同一人物なのだと。
そんな稀有な話が、果たして実在するのだろうか。




