32.らしさを捨てた懸命さ
「―――て! ―――から―――……いで!!」
泣き叫ぶ悲鳴が鼓膜を劈く。
死にぬかるんだ暗闇に囚われたままのマルティエナは、沈んだ奥底の意識まで反響したそれに胸を締め付けられた。
(起きなきゃ)
自分の身に何が起きたのか。横たわっている状況に至った経緯は思い出せなくても、それだけは強く感じる。
起きなければ、と。
焦燥に駆られた視界に映ったのは、しぶきを上げて降り注ぐ大量の水だった。
「――ッ!!」
開いた口の隙間から入り込んだ水を吐き出してせき込んだマルティエナは、手をついた床に広がる氷交じりの水に身震いする。
濡れた髪や衣服が肌に張り付いて、急速に身体の温度を引き下げていた。
けれど、身を恐怖で震わせた要因はそれだけではない。
「マルティエナさん!!」
地べたから見上げた先では、目元を真っ赤に腫らして涙ぐんだエレノアが椅子に拘束されていて、その隣には水を引っかけた桶を手にした男が不気味に笑っていた。
「おい、起きたならこの女の口を塞げ! さっきから喚かれてうるさいんだよ」
その男に力任せに腕を引かれて起き上がると、足元から金属が擦れた音が響いた。
足首に纏わりつく無機質な感触は、移動を制限する鎖らしかった。
(私の拘束は片足だけ……)
口悪く急かされたマルティエナは、上着の内ポケットから取り出したハンカチでエレノアの口元を覆う。
浴びせられた冷や水が水滴となって肌を滑るたびに、冷静になれと警告されているようだった。
床に触れた時に感じたざらついた岩肌。
松明の灯によって薄暗いながらも照らされている壁面はざらつきのある床と同じ質感なのか、不規則に黒光りしている。
左右の壁にひとつずつ掛けられた松明では空間全てを照らしきれずに、視界の奥は見透かせない黒一色。
その手前では、三人の男に囲まれて取り押さえられた人影が、灯りの弱いランタンに照らされて浮かび上がっていた。
「―――ぁあア”!! ぐッ…ぅあ”……」
マルティエナが指示に従うなり離れていった男が、蹲るナザリクの腹部に差し込んだ足を蹴り上げる。
体格の良い男たちに踏みつけられた頭や手足からは血が流れ、床はナザリクの周りだけ赤黒く染まっていた。
不快な鉄の匂いが鼻につく。
どのくらい長い間ナザリクへの暴行が続いていたのだろう。
魔法を使えないように指一本ずつ、そして四肢の全てを括り付けられても必死に足掻くエレノアの服は擦れて汚れ、露出した肌は赤い痣になっていた。
そんなエレノアの肩口にマルティエナは顔を伏せる。
非力な女が恐怖に怯えて目を背けている。
そう思われるように――
「そのまま聞いてください。エレノア様からみて、あの方々は魔法に長けていると思いますか」
エレノアの身体がびくりと大きく跳ねた後、緩く覆ったハンカチの隙間から擦れた呟きを溢す。
「ううん。ひとりだけ黒のマントの魔法使いはいたけど、多分他は……。その人もここに居ないと思う。声も足音も、あの人たちだけだったから」
「分かりました。……魔法が使えたら、気づかれないように拘束を解きます」
背後に人の気配がないことは、起き上がった時に確認済みだ。
男たちの視界に入らない椅子の背にマルティエナは文字を記す。
まずは風。次に水。そして土と火。
エレノアは指一本すら動かせないように拘束されているのに対して、ナザリクは手足を踏みつけられているだけで、魔法が使えないように拘束されてはいなかった。
四元素の魔法を無効化する魔道具がこの場でも使われているにせよ、魔道具の時間的な制約や効力があるのか、性能は不明だ。
現状を打破する手段を少しでも多く手に入れたくて使える魔法を試してみたものの、四元素の魔法や複合魔法は発動しない。
けれど、闇属性魔法だけは過去の経験同様に発動した。
音が鳴らないように細心の注意を払いながら、足首に纏わりつく鎖を灰に変える。
それから、エレノアの右の親指を覆う金具にも魔法をかけた。
手すりの内側へと回っていた親指は、注視しなければ金具が消えていていることに気づかれないだろう。
「マル、ティエナさん……」
驚きを悟られないためか、エレノアまでも顔を正面から逸らす。
動揺しながらも冷静な対応が心強かった。
「四元素は使えませんが、闇属性は使えました。光の魔法で敵の意識を奪うことはできますか? 人が増えたら困るので、あまり叫ばれたくないのですが」
「……目くらましの威力を最大まで上げたら、もしかしたら出来るかもしれないけど……私たちも影響受けちゃうから難しいかも」
「では、それをしてください。私が闇魔法で結界を張ります」
「でも出来ないかもしれないよ!? 全員はきっと無理だし、誰にも効かないかも」
「その時は目くらましが効いてる間に倒せば良いだけです。私が必ず何とかします」
エレノアのレイピアは外されているけど、マルティエナが腰に括り付けていた、手帳を納める為のベルトポーチはそのままだ。
金細工の装飾を指で動かして金具を外すと、装飾の一部となっていた小型のナイフを引き抜く。
(こんな形で使いたくはなかったけど……備えておいて正解だったみたい)
獣に襲われたり、逸れた際に使い勝手の良い短剣を護身用に持っておきたかったけれど、体裁を気にして隠しナイフにしたのが功を奏したようだ。
ナイフ自体は小さいけれど、丁寧に研ぎ澄ました刃で首筋を払えば致命傷を与えることは出来るだろう。
それに、マルティエナには闇属性の魔法がある。
意識が途切れる際に感じた恐怖心を思い出す。
同じ方法で人の意識を奪うのだと自覚すると、吐き気が込み上げてきた。
一歩間違えれば人を死に至らしめる魔法。
けれど、今なお苦痛に味わわされているナザリクを救える手段。
学院在籍時はこの魔法で敵一人の意識を奪うのがやっとだったけれど、魔力の消費を抑える特訓を続けるうちに三人までなら対処できるようになった。
(流石に四人相手だと魔力が保たないから、その時は)
人を殺めなければならない。
容赦しては反撃を受けるだろうし、ナザリクを取り囲むのは筋肉の盛り上がった体格の良い無骨者たちだ。
震える脚をナイフを握りしめた拳で叩く。
「ナザリクさんを助けましょう」
言葉にすることで、溢れ出て止まらなくなりそうな不安が落ち着きだすのを感じる。
絶対にやり遂げると決めた。
エレノアとなら、それができると確信できるから。
無駄な恐れは不要だと切り捨てる。
「――うん」
頷きひとつで、エレノアも同じだと思わせてくれるから。
「ナザリクさんの頭上を中心に魔法を発動してください。いきますよ」
なぞった文字を通して、闇の神と精霊に願う。
そうして、エレノアの発動した魔法がきらりと瞬いた瞬間、闇属性の魔力で防御壁を展開した。
ナザリクを取り囲む男たち全てを漆黒の結界に閉じ込めて。
新たな文字を宙に記しながら、マルティエナは駆け出す。
エレノアの光魔法によって溶け消えていく結界のなかに立つ人影に狙いを定めて魔法を放ち、駆ける勢いのままに蹴りつける。
「ぐぁア”!!」
鉛のように重く鈍い音を鳴らして、男の身体が地面へと崩れ落ちる。
それを目にも留めず、ふらつくもう一人の男の首筋目掛けて肘を払った。
ドサり、ドサりと残りの二人は手を下すまでもなく地面へと倒れ込む。
「うぅ”……」
最後に発した呻きは誰のものだろうか。
地に伏した男たちが意識を手放していることを首筋にナイフをあてがいながら確認していったマルティエナは、四人全員が白目を剥いていることに安心して、力を貸してくれている闇の精霊に終わりを告げるのだった。




