31.意識の崩落
魔法士に庇われながら地面へと倒れ込んだマルティエナは、道を分断するように積み重なった岩石を呆然と見つめる。
幾つもの魔法によって、頭上に落ちてきていた岩は砕けて空中で飛散した。
その結果が、目の前に積み上がった岩山だ。
もし魔法が間に合わなければ――
巨大な岩に押し潰される皆の姿が浮かんで、急き立てていた胸の鼓動が一気に血の気を失っていく。
「エレノア様!! ご無事ですか!?」
落石の影響か、辺りを覆う霧はより色濃くなっていた。舞い上がった土埃で目を開けるのも辛い。
咳き込みそうになる口元を覆って叫ぶ。ガラガラと岩が崩れて地面に落ちる音がした。
「私もナザリクさんも平気! マルティエナさんも無事で良かった!」
後方から駆け寄ってきたエレノアが霧から姿を現す。
「俺たち以外は向こう側のようですね」
すぐ後ろには四方に警戒するナザリクがいる。
魔法で防御壁を作れたのか、汚れひとつない二人の姿にマルティエナは胸を撫で下ろす。
「助けてくださってありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、マルティエナ女官殿が気づいてくれて助かりました」
足元を確認しながら立ち上がると、道を塞いだ落石から距離を取る。
小さな石がそこかしこから小さな岩音を響かせて崩れている。
不安定に積み重なった落石の山が、またいつ崩れ落ちていくか分からない。
「そっちは無事? 今魔法でこの岩を片すから離れてて」
そうなる前に魔法での対処を叫んだのは、断絶された道の奥にいるギークだった。
けれど、落石をどかすには余りにも不釣り合いな、鼓膜が裂けるほどの爆発音が峡谷に響き渡る。
「避けッ!! ――……うぁあ”!!」
続いたのは強風に伴う焼けるような熱さと、霧に入り混じる火の粉。
そして、誰のものか、何人のものかも区別できない断末魔のような悲鳴だった。
「エレノアさんは道の確保を! 私が先に行って支援に入ります」
「はい!」
前にいた魔法士が魔法を発動し、足場のない空中から道の奥へと消えていく。
「俺が視界を晴らすので、エレノア様は山塊の処理をお願いします」
「分かった! ありがとう!」
ナザリクは宙に、エレノアは地面へと素早く指を走らせる。
ほぼ同時に魔法が発動し、ふわりと風が揺らいだと思った瞬間――
「えっ!? どうして」
ぷつり、と。
呼びかけに応じていた精霊が息を引き取ったかのように、二つの魔法が終息した。
「他の魔法を!」
焦りの孕みながらも冷静なナザリクの呼びかけにエレノアが応える。
それでも刻んだ文字が魔法になることはなく、異なる文字を試みる二人を固唾を呑んで見守っていたマルティエナの耳に、この場に似つかわしくない不快な音が届いた。
(なに、何か……)
行き止まりの道の奥から流れてくる篭った熱気と、熱を纏って吹き付ける風。
岩壁に張っていた木の根に燃え移ったのかパチパチと爆ぜる音に、崩れた岩が滑り落ちていく地響き。
それらに聞き取れない叫び声が重なって、ナザリクとエレノアの張り上げる声を聞き取るのもやっとなのに、本来聞こえるはずのない音が嫌に耳に残る。
イシドールの回想に重なる状況によって、自らが生み出した幻聴なのか。
(でも今のは――)
喉奥で必死にせせら笑いを抑えているような、生きた人間の生々しい息遣い。
腰にない剣へと反射的に手が伸びて、思い浮かんだその表現が妙に現実味を帯びた気がした。
「剣を抜いて、ナザリクさん! 誰かいます!!」
青褪めたマルティエナが息苦しい喉を抑えて声を絞り出す。
もしかしたら。
音なく降り落ちた落石から始まったこの惨劇は、意図して引き起こされたものかもしれない。
もしかしたら。
突如として魔法が発動しなくなったのは――
(闇属性の魔法士集団が関係してる……?)
王立魔法学院四年目の試験旅行先で攫われかけていた女性を助けようとした時に経験した、四元素の魔法を無効化する魔道具だとしたら。
(それなら、光と闇の魔法は使えるはず……な、のに……)
エレノアに伝えようとした言葉は声にならず。
文字を描こうとした指先には力が入らず。
煙と霧で濁った白に埋め尽くされていた視界は一転して、恐怖に染まる闇に満ちていく。
(私が闇属性の魔法を使う時も、こんな感じだったのかな。人を、死に追いやる感覚。ずっと知らずに使ってきたなんて)
眠りにつく夜の闇とは似ても似つかない、死に近づいていく焦燥感。
体中の感覚がひとつ、ふたつと消えていって。
取り残される意識だけが、死へのカウントダウンを進めていく。
このまま酸素を取り込む心臓さえも止まるのだろうと自覚して。
マルティエナの意識は悪意に染まった闇に奪われた――
◇◇◇
鈍い音を立てて何かが崩れ落ちた。
振り返って剣を構えたナザリクの足元に、オリーブ色の髪が広がる。
悲鳴も上げず息絶えるように倒れ込んだマルティエナを目に留めたナザリクは、剣を握る拳に力を込めて素早く視線を走らせた。
「マルティエナさん!?」
視界は依然として曇っていて、人影も見えない。
瞼を閉じ切って聴覚に神経を研ぎ澄ませても、マルティエナが指す誰かの足音も、強風に煽られる衣擦れの音すらしない。
殺気なんてものは論外だった。
「石壁まで後退しましょう。エレノア様は私の後ろに」
それでも、何かが起きていることは確かだ。
背後にエレノアの存在を感じながら、空いている片腕でマルティエナを担ぎ上げる。
触れて、まだ生きている人肌を感じた。
ギークの忠告のままになった現状にナザリクは歯を噛みしだく。
死体のように生気を感じなくなった彼女を捨て置けないくらいには仲間意識が生まれていて、その命を捨て置けないと思っている。
覚悟をしろと言われていたのにも関わらず。
「……光属性の魔法は使えますか?」
息絶えるように彼女を眠らせたのは、闇属性の魔法によるものだろう。
血は一滴も流れてはいないし、物理的な刺激で眠らせたとしたら人の気配がなさすぎる。
離れた位置から魔法を使ったと考えるのが妥当だ。
つい数十秒前に発動しようとした魔法の数々は不発に終わったのに、敵の闇属性の魔法だけは効いた。
その矛盾に思い当たる節がひとつある。
――――マティアス・オーレン。
その名は良くも悪くも名を馳せていて、王族の警備を主とする魔導騎士団では後者の意味で知れ渡っていた。
王立魔法学院四年目の試験旅行先で偶然にも闇属性の魔法士集団に接触した人物として。
世に流れた四元素の魔法を無効化する魔道具を壊す闇属性の魔法士集団の穏健派に接触した人物として。
彼の証言だけで確かな物証のない危険な代物は、箝口令を敷かれながらも国を守護する一部の間では周知されていて、必然的に闇属性魔法の使い手である『マティアス・オーレン』は要注意人物として知れ渡っていた。
その魔道具がこの場で効力を発揮しているのなら――
闇属性と対になる光属性の魔法は発動できるかもしれない。
稀代の魔法士になれる神の化身のような存在だと生まれながらに名高い王太子をも上回る魔力を宿すエレノア・シュネヴィオールの光属性魔法だからこそ、互いの魔法を打ち消し合い、なおも残った威力が敵を穿つに違いない。
「あっ……試してみる! ナザリクさん目を閉じてて!」
思考を察したようにエレノアが声を潜ませながらも力強く頷く。
この状況では、どちらにせよ視界は役に立たない。
エレノアに従ってきつく瞼を閉じたナザリクは、己の感覚と聴覚に全神経を研ぎ澄ませる。
目に見えない精霊が呼び寄せられるような威光を背筋に感じ、瞬間閉じた瞼が焼け付くほどの閃光を浴びる。
防ぎきれない眩い明かりは、服に覆われている皮膚すらひりつく痛みを生じさせた。
「――……ぅ”ッ……」
地を這うような呻き声が、風音のなかに紛れ聞こえた。
僅かな光の弱まりを感じながら、引きつる瞼をうっすら開く。
音のした方向へと視界を走らせる。
細詰まりの崖道の先では、光を浴びた霧にぼんやりとした黒い影が丸まっている。
断続的に聞こえる嘔吐く濁音によって、強烈な光に侵されて蹲っているのだろうと見当がついた。
(あの距離なら)
距離を目算したナザリクは剣を握る手で腰から短剣を振り抜き、その勢いのままに放つ。
一本の短剣が風を斬る。
覆い被さるように、複数の風切り音が襲い掛かった。
「エレノア様伏せてください!」
頭上で剣を振り払う。
エレノアの放った光が反射する眩い霧のなかに、血を求める銀の矢じりが混ざっている。
鈍く光る、狙いを定めた無数の一手だ。
(光魔法も計算のうちだったのかよ!)
光属性の魔力は四元素の魔法を強化する。
その特徴は強力な複合魔法の威力を更に増加させるけれど、時を進める白昼の煌めきが必ず混ざる。
光の神を彷彿とさせる神聖な魔法の煌めきは、単発の光属性魔法で更に威光を示すのだが、あろうことかそれを逆手に取られていた。
教会の教えへの忠誠心も信仰心の欠片もない敵の戦略を前に、降り注ぐ矢の雨を一振りの剣で弾いていく。
「くそっ!」
エレノアとマルティエナに飛び交う矢を優先して防ぎきれなかった矢が身体を掠めていく。
覚悟が足りなかった自分とは異なり、マルティエナには出来ていたのだろう。
いち早く落石に気づいて、真っ先にエレノアの無事を確認して、エレノアを守るために剣を握る指示をした。
彼女の方がよっぽど主君を守る騎士らしい。
(けど俺にだってプライドはある)
身体の節々を掠めていく痛みなんて気にならない。
意識は全て、風の裂け目を察知する聴覚と白光に染まる視界に混ざる鈍い銀の矢じりを突き止める視覚のみ。
一から十を超え、百を過ぎ。時が刻まれるたびに増えていた矢が降り止んだ頃、エレノアが息を呑む。
「――ナザリクさん!! 囲まれた! 私もでるよ」
背後ではエレノアが腰にさしているレイピアが鞘を擦る音が鳴る。
それを抑えるように片腕に抱いていたマルティエナを押し付けた。
「エレノア様は魔法での援護を。私が倒します」
引きつる腕を頭上に翳した剣とともに振り払い、疲労を伝える頭を叱咤する。
下劣な笑いと乱雑な足音。勝機を確信している緩んだ殺気が敵の程度を示してくれている。
(訓練されてるとは思えない動き……野盗なのか?)
マルティエナの意識を奪った魔法使いの仲間とは思い難い、下等な立ち回りだった。
野太い雄叫びとともに振りかかってきた切っ先は簡単に剣で弾き飛ばせるし、蹴り上げた足は容易く肉塊に沈んでいく。
背後から放たれる閃光によって鈍い動きが更に鈍化するから、数の不利を気にするまでもない。
エレノアの放つ光に群がる雑魚を薙ぎ払い、終わりが見えたと思った。
敵の数が半減し、怖気づいたように後退し始めた気配を察して。
けれど気を緩めることなく構えていた剣が、するりと手のひらから抜け落ちた。
赤い血で染まった愛剣が不吉な音を立てて、岩道に叩き落ちる。
「ナ、ザリク……さん?」
動揺したエレノアが戦慄く。
耳にはっきりと届くはずのその声が、遥か彼方から聞こえる。
じわじわと光を失っていく視界が地に落ちる最中。
ナザリクの脳裏に、黒いマントに覆われた魔法使いの歪んだ口元だけが焼き付いた――




