30.片鱗に触れる
セペルハース峡谷に到着してからの数日間は、住民への聞き込みや峡谷の崖上から気象の把握をすることに時間を費やした。
近年とは比べものにならない濃霧と少雨、そして頻繁な崖崩れがあると聞いていたけれど、町に住む人々は日頃の生活に不自由していなかった。
雨の降る量と頻度が少ないのは確かだが、元々が少雨の地域。
水分が少なくても育つ農作物を育てているし、染料の基になる高山植物を街の資源としていて、自給自足の出来ない野菜や果物は商人が運んできてくれているとのことだった。
それに、人や家畜に必要な水資源は井戸からの汲み上げで事足りている。
地下水脈は豊富なようで、真っ白な霧に包まれた峡谷の中からは、咆哮のような瀧の音が反響して届いていた。
霧の少ない日には、岩肌から溢れる滝が目視もできるらしい。
時間や日付を変えて様子を見に行っても見ることの叶わない光景が、霧の増加を伝えてくれる。
そんな状況の中でマルティエナが気にかかったのは、崖崩れへの住民の認識だった。
数日間滞在していただけでも、数秒続く揺れや一瞬地面が沈むような突発的な振動を感じた。
その頻度や違和感を町の住民に尋ねても、皆が笑って答えるのだ。
この地域ではよくあることだ、と。
そうした慣れが油断になると領主やこの地に滞在する司教は理解していたのだろう。
万全を期すためにも、教会本部からやってくる枢機卿を待ってから峡谷内部の調査を進めていく手筈になった。
峡谷の縁で大掛かりな魔道具を組み立ててデータを取っているイシドールのメモを、マルティエナは横から覗き込む。
小型の様々な機器から得られたデータがグラフとして記されていくらしい。今は気温と湿度、日差しの熱量に風、そして震動と音の距離を測定しているようで、動き続ける各グラフの線を目で追いながら、イシドールの右手は暗号のような文字を書き連ねていた。
助手を連れてこずに黙々とペンを走らせるイシドールによると、データは全て魔道具に蓄積されるため、本格的なデータの精査は王宮に戻ってからするのが基本なのだそう。
それでも「峡谷内部に踏み入る前に少しでも情報収集をする」と意気込んで集中しているイシドールには、鬼気迫るものがある。
走り書きのメモと流れていくグラフの線、身体で感じる体感でイシドールがチェックしている要点を想像していると、背後から近づいてくる足音に気づいた。
ハーストーン辺境伯領に駐在している、乳白色の礼装で身を固めた司教だった。
まだ司教の任に就いて三年目の新米だと語っていた彼の隣には、教会領でみた雪のように輝く銀白のローブを纏った人物がいる。
その顔を視界に収めたマルティエナは目を瞬いた。
「えっ!? セルベスタ 先生!?」
同様に驚きながらも嬉しそうに胸の前で手を合わせたエレノアが、セルベスタ の元へと駆け寄っていく。
「お久しぶりです、エレノアさん。お元気でしたか?」
「はい! 先生も変わらずお元気そうで嬉しいです! 先生がどうしてこちらに?」
「実は今年から教会本部に戻っていたのですよ。今回の話を聞いた際に、教え子がいるかもしれないと思いまして、私が担当させていただくことにしました。エレノアさんの他にも、私がお教えしたことのある方が数人いらっしゃるようで――……」
端から端へと見渡して手をかざすセルベスタに、会釈をする魔法士や魔導騎士が数人。ナザリクとギークもその内のひとりだった。
そうした姿に埋もれるように流れていくと思った眼差しがマルティエナの元で静止する。
それを勘違いと否定するには人が少な過ぎた。
「あちらの方は?」
「私の女官のマルティエナ・オーレン伯爵令嬢です。マティアス君にそっくりですよね!」
距離があってもはきはきと届くエレノアの紹介に、マルティエナは会釈する。
「ええ……とてもよく、似ています」
『マティアス・オーレン』がセルベスタの元で学ぶにつれて積み重なった敬慕が、見ず知らずの他人である『マルティエナ・オーレン』となった今でも、彼の存在に絶対的な安心感をもたらす。
長く頭を下げたマルティエナは、微笑みが薄らと抜けたセルベスタに気づくことはなかった――
◇◇◇
谷底へ降りていく崖道は、人が歩くには不適切な、道とは呼べない岩肌だ。
下っていくにつれて地層は切り替わって、時には足場が崩れることもある。
支えになる岩壁は滝が近い場所では苔生しているし、地下水脈から成長して生える木の根が張り巡らされている。
手袋が破けるのではと心配になるほど、ざらついた硬い地表が刃のように削れていた所もあった。
(足場がなかったり、歩けない段差がある時は魔法で補助してもらえるけど……)
吹き荒ぶ風や溢れ出る水源、複雑に隆起した地脈に極度の乾燥や火山地帯といった大自然には、目に見えない精霊が集まっていると伝えられている。
セペルハース峡谷がまさにそうだ。
身の内に宿る魔力が精霊と共鳴することで発動する魔法は、こうした自然の影響に左右されやすい。
魔法の精度次第では意図せず高火力の魔法となり、その影響によって災害を引き起こしてしまう可能性があるため、魔法のコントロールに長けた特務隊であっても最小限に留めての調査を余儀なくされた。
隊長率いる先行班がセルベスタとともに足場の確認や危険性を把握し、その後をギーク指揮の下で調査をしていく。
数人がイシドールとともに魔道具を設置していき、エレノア含む残りの隊員は落石の痕跡を探したり、岩肌の欠片を採取していた。
そうしたなかで、マルティエナは峡谷内部を降ってきたおおよその位置や、四方から耳に届く発言をメモに残していく。
(――うわッ、また風が)
霧で覆われた谷底から吹き上がる風に手帳の用紙が捲れ上がる。
マルティエナは動揺もそこそこに立ち位置を変えて、荒んだ風を背で防いだ。
マントや衣服の裾から入り込む風で身体ごと浮かんでしまうような浮遊感がぞわぞわと全身に纏わりついて、嫌な感覚だった。
「マルティエナ女官殿、危険なので一歩内側に」
近くにいた魔法士の声掛けに、マルティエナは足場の縁に近付いていたことに気付く。
足元に落ちた視界は、そのまま真っ白に染まる谷底へ向かった。
峡谷内部を覆い隠す霧の中を進んできたが、霞みながらも足場や数メートル先の地形は把握できている。
急に霧が濃くなったというイシドールの過去の経験もあるから油断出来ないが、今はまだ上層部なのかもしれない。
そう思って、足場の内側に入りながら天を仰いだマルティエナは、峡谷の裂け目から差し込む強い日差しに照らされた霧がポツンと小さな影を落としていることに気づいた。
その違和感に目を凝らす。
小さな円が輪を広げるように、影がみるみる大きく、色を濃くしていく。
(あれは)
ふと、これまで辿ってきた地形を思い出した。
緩やかに窪んだ岩壁に沿って歩いていた序盤は、陽の光が真上から注がれることはなく、岩肌から流れる滝の裏を歩いた。
今のように拓けた岩棚に着いてからは、歩みを進める度に陽の光を感じるようになって――
「落石です!! 避けて!」
音なく迫り来る影が、岩肌を滑べるのではなく降ってくる落石と気づいた時には叫んでいた。
瞬時に頭上を見上げた皆が次々に魔法を黒い影へと飛ばしていく。
「女官殿ッ――!!!!」
束の間、幾つもの魔法が衝突する爆音が響き渡った。




