28.熟れた疑念
マルティエナ・オーレンはただの女官ではない。
ただの貴族令嬢でもない。
死地へ向かう覚悟なら既にできていると告げた口で、怖気がするほど柔らかく、心底安心したように笑った女が、約一年前まで領地に引き篭もって療養していた貴族の娘な訳がない。
長い期間外へ出れずに病と闘っていたからこそ死への覚悟ができている、とも捉えられる。
けれど、そんな女がたった一年社会に出たくらいで書ける報告書ではなかった。
青字で記されたマルティエナ・オーレンの数々の見解。報告書として記述するには不必要なそれは、一介の女官が書ける内容じゃない。
厳しい選抜試験を通った魔導騎士だって、経験の乏しい一年目では無理だろう。
療養は建前で、何らかの理由で匿われていたという線が妥当だ。
そこに死への覚悟がつくとしたら――
(闇属性の魔法士集団の間者ってのが一番しっくりくる)
闇属性の魔力を持って産まれた双子。
片割れの兄は、ヴァルトセレーノ王立魔法学院の四年生が行く試験旅行で、闇属性の魔法士集団のラルフという少年に危機を助けられたという。
マルティエナ・オーレンが領地ではなく闇属性の魔法士集団の一員として過ごしていたのなら、双子によって仕組まれていた騒動の可能性もあり得る。
加えて、兄の方はコルスタン・カムデンと師弟関係で結ばれていたのだ。
そんな女が王太子の婚約者に付く女官となり、片割れの兄は第二王子の厚い信頼を得て王宮に出入りしている。
(今回ばかりは面倒ごとを任されたな)
初日の夜に彼女が書いていた日記を読んでからというもの、気を抜いて休めた記憶がない。
彼女は明らかに疑わしいのに、エレノアはともなくナザリクまでも気に留めていないのが問題だった。
「マルティエナ女官だったら、あのくらい考えててもおかしくはないですよ。お兄さんが優秀だとああなるんですね。それはもう、大・尊・敬! って感じしましたし」
人の目を忍んで女官について尋ねた際、ナザリクから返ってきたのはあっけらかんとした返答だった。
「ユリス女官も一目置いてましたよ。疑う気持ちは分かりますけど、あの子に裏なんて無いと思いますね」
ユリス・ホスタギーヴのことはそれなりに知っている。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院で目立っていた後輩だ。
氷のように冷徹だとされていた噂は事実だが、それは彼女が大の男嫌いなせいもある。
口数少なく表情も変えない彼女は人を寄せ付けない代わりに、関わる同性には割と警戒心が緩くもあった。
肉親に少々難がありつつも王太子が信用を寄せている配下のひとりだが、同性のマルティエナ・オーレンに対しては当てにならない評価だなと切り捨てる。
「まあ、あの日の笑顔はらしくないって感じはしました。諦念っていうんですかね。人生を諦めてるっていうか、そんな悲観的な性格に思ったことありませんでしたけど……いや、そんなこともないか? 意外と人を恐れたし」
――諦念。
その表現に納得しつつも、それだけでは言い表せない暗然とした何かがあった。
あの日記が向上心によるものなら、あまりにも正反対なのだ。らしくない、では片付けられない気味の悪さをどうして気に留めずにいられるのか。
「仮に病に臥せていたのが嘘だったなら、前伯爵の判断は正しかったんじゃないですか? 双子揃って出来すぎてると妬まれそうですし。残念ながら、その意志は子に引き継がれなかったってことになりますけど。昔から『疑わしきは罰せよ』と言いますしね」
「お前、随分と言うようになったな? 前から可愛げのない奴だったけど」
「俺はエレノア様の護衛騎士ですから。特務隊員ではないので、ギークさんの部下でもないですし。忠実な護衛としては、あの日の貴方の態度は許しちゃいけませんよね」
扉越しでも会話は聞こえるし泣いてるって分かるんですよ、と続けたナザリクは口を曲げて睨め付けた。
「そんなギークさんのことを、マルティエナ女官は親切心からの行動だと擁護してましたよ。あーあ、庇った相手から疑われ続けて可哀想に」
そんなやり取りがありながらも、ハーストーン辺境領へ向かう道のりは半ばを過ぎた。
僻地になるにつれて増える野営で、溜まった疲労が頭を重くする。
(ほんっと、あいつは変わらない。ああいう他人の意見に流されない所を見込んで殿下に推挙してやったのは俺だけど……。護衛騎士になれた恩を無下にしやがって)
マルティエナ・オーレンの言動を逐一報告しろと言っても、無駄なことはしないの一点張りだ。
そのせいで俺は寝食を疎かにしてでも、彼女をひとりで見張らなければならなかった。
調査報告書の密命を王太子から受けた場に同席していたヨリアンに協力を仰ぐ案も浮かんだが、彼は彼で侮れない。
王太子の思惑の及ばぬところまで事が広がっては本末転倒というものだ。
(二人きりになれれば手っ取り早く済むのに)
エレノアのそばにいるせいで機会に恵まれないが、女官一人が相手ならば口を割らせる方法は幾らでもある。
木陰に身を潜ませて夜闇に馴染んだ天幕を眺めていると、待望の人物がひっそりと姿を現した。
「あれ、マルティエナ女官どうしたの」
天幕の隣に座り込んで空を見上げていたナザリクが声をかける。昼夜の護衛で睡眠が疎かになっているのは同じなのに、暢気な姿が癇に障る。
心労の差だろうか。
「少しだけ寝苦しくて。近くの湖畔で涼んでこようと思います」
「誰か呼ぼうか?」
「大丈夫です。直ぐに戻ってきますから」
「そう? ……帰りが遅かったら誰か向かわせるから、変なことしないでよ」
「では水浴びはやめておきますね。ありがとうございます」
そんな俺を気に病んでくれたのか、今夜は運が味方してくれたらしい。
自分へと飛んできた釘を鼻で笑って、茂みの奥へと歩いていく女官の後を追った。
◇◇◇
そよぐ風に揺られて揺蕩う水面が冷気を運ぶ。
月明りで表面だけが光を帯びた湖へと指先を沈ませると、ぬるい水温が暑さに茹だる体温を引き下げてくれる。
冷気を求めて湖へやってきたのはマルティエナだけではない。
草や石の陰に身を潜ませた虫たちが存在を主張するように鳴き声を上げている。
裾が汚れないように巻き込みながら膝を抱えたマルティエナは、湖に沈ませた指を静かに揺らす。
そこに意味はない。指先だけの水遊びだ。
意識は半分くらい、寝ていた。
瞬きは瞼を閉じている時間のほうが長く、揺れる水面に映る自分を朧気に眺めてはまた視界が暗転する。
天幕に篭った空気に汗ばんで起きてしまったけれど、湖畔は土の季節始め特有の、清々しい温かさに満たされている。
瞬きで訪れる暗闇に呑まれて眠ってしまえそうなくらい、心地良い。
それはいけないと働く自制心が指先を動かす。
次いで開いた視界に映るはずの水面は、流れ落ちた前髪に遮られていた。
水から引き上げた指先で長い前髪に指を這わせる。
(お兄様に重ならないように髪を伸ばしてるけど、前髪は短くてもいいかなぁ)
耳にかけても指から離れていかない髪を梳く。
そのまま瞼を閉じると、ふいにアスタシオンが触れた時のことを思い出した。
彼の長い指先に弄ばれた前髪。
彼の口元まで引き寄せられた毛先。
アスタシオンからでしか得られない、全身が逆上せるように熱くなる甘い奇病。
(なんだろう……切るのは勿体ない気がしてきた)
途端に恥ずかしくなって、抱えた膝に額を擦り付けるように縮こまろうとしたマルティエナは、飛び起きるように瞼を開いた。
引いた顎に触れた硬い感触。
冷え冷えとした無機質な何かが、いつの間にか喉元に突きつけられている。
月明りを反射する水面には、先ほどまではなかった一筋の閃光が走っていた。
驚きに染まるマルティエナの背後には、黒く大きな陰が朧気に映っている。
「ぁ…………ッ!!」
干乾びた叫びが、虫の奏でる音色に溶けていく。
喉元に当たる何かが引き寄せられて、そのまま喉を圧迫した。
吐くことも吸うことも許されない恐怖に全身が硬直する。
(なにか! 魔法を――……)
咄嗟に反応した指先が文字をなぞったけれど、それが発動することはなかった。
それは、発動の前にマルティエナが意識的に止めたからだ。
時間が経てども喉を割く痛みが感じられなかったから。
殺意のない奇襲なのだとしたら、反射的な行動は避けて様子をみるのが得策だ。
「あんた今魔法を使おうとしたよな」
王宮を発ってからの一週間足らずで聞き慣れた声だった。
「――ギーク、さん」
そのことに安堵しかけたのが伝わったのか、また喉元に当たる何かが強く押し付けられる。
「さっさと発動しなよ。俺相手に何ができるのか見ものだよね。あんたがただの女官じゃないって証明にもなる」
気を緩めれば魔法を今すぐにでも発動したくなる威圧感に、浅くなる息を繰り返す。
(大丈夫。これは刃じゃないから、動いても平気)
そうして、瞬時に強まる力に抗いながらも首を背後へと動かした。
首筋に位置がずれても圧迫される痛みは変わらないけれど、呼吸ができる安心感には敵わない。
振り返った頭を上に向けたマルティエナは、光の射さないギークの眼孔を睨みつける。
「皆さんのように専門で魔法を学んでいなくても、隙を作ることはできます」
「無理だね。平和に生きてきた人間が突然喉を押さえつけられたら、魔法を放てる余裕はできない。反射的にできるとすれば訓練された側だ」
エレノアが何を言っても届かないと諦めた気持ちが分かる。
彼の正論に歯向かった数だけ話の通じない相手とみなされる感覚があるから、それ以上を言えなくなるのだ。
実際マルティエナには口外できない事情があるから、彼の真っ当な疑いを否定もしずらい。
「ここまでするほど、私は信用なりませんか」
それでも、震えを抑え込んで強く問う。
エレノアの女官として相応の努力はしているつもりだ。
王宮を発った初日の夜に一度だけギークには嘘をついたけれど、それだけ。
特務隊の迷惑になる行いも不審な行動もしていない。報告書だって、ギークの指示に従っているのに。
身に覚えのない敵意に憤りを感じながらも、黙ってしまえば後がないと分かっていた。
「あんたが書いた報告書の青い文字。あれはつい最近まで引きこもってた貴族の娘が書ける内容じゃない」
「兄や父から話を聞いていたんです。兄の使い古した教本も繰り返し読みました。それに、女学院でも魔法は学べます。身を守る手段は知っておきたいですから」
『マルティエナ・オーレン』に定めたシナリオを事実のように諳んじる。
嘘を混ぜた本当の話は、嘘をついているという事実への罪悪感を減らしてくれる。
そうして見ない振りしてきた罪に、とうとう裁きが訪れたのだろうか。
「無駄な抵抗はよして吐きなよ。俺は面倒ごとは嫌いなんだ。それとも痛い目見ないと気が済まない?」
首に当たる何かが向きを変える。
ひんやりとした金属が触れる面積で、片刃のナイフだと気付いた。
「死ぬ覚悟はできてるのかもしれないけど、屈辱を味わう覚悟はできてんの? エレノア様に気づかれない傷をつけることだって出来るんだよ。あんたは女なんだから。――俺の言いたいこと分かるよな?」
ナイフの背を肌に当てながら下がった切っ先が夜着の胸元へ、言葉とともに沈んでいく。
息を吸いこむと肌が金属に触れる恐怖が心拍数を跳ね上げた。
(相手のペースに呑まれちゃだめ。ギークさんは私を脅すことはできても、手は出せないはずだから)
わざと動いて夜着が裂ければ、ギークに襲われた証拠になる。
それが無理でも、抵抗してギークの肌に爪を引っ掻ければ、決定的な証拠にならなくても心象は悪くなる。
ギークの生まれのランスベル家は伯爵位だ。
オーレン伯爵領とは縁もゆかりもない家紋だから、家紋同士が対立したとしても権力や財力で屈する心配はないし、王太子が表立ってギークの肩を持つとも思えない。
耳に広がる心臓の鼓動に、冷静になれと何度も唱えた。
「私はエレノア様の女官です。エレノア様の為に全力を尽くします。他にお伝えできることはありません」
虫の喧騒が急き立てるように。
鼻で笑ったギークに、マルティエナは声を張る。
「貴方には理解されないと思いますが、私にとっては兄が全てで、心の支えだったんです。『マティアス・オーレン』だったら何をするかを考えて生きてきました」
『マルティエナ・オーレン』のシナリオは偽りだらけでも、その本質は真実だ。
それすら否定しないでほしい。
「疑われても、困ります」
祈るように飛び出た吐露は悲鳴に似ていた。
「問題はそこだよ。双子揃って闇属性の魔法士集団の間者だったら最悪。好き好んで闇属性の魔法使いを側に置くなんて、第二王子殿下は情に弱いのか甘いのか」
「――殿下を侮辱する発言は許しません!!」
冷静さを欠いた反発にギークの鋭い眼差しが見開かれる。
「へえ……あんたにとっての殿下は第二王子殿下なんだ?」
ようやく光の射した眼差しは、水面に映った刃の閃光のようにマルティエナを刺した。
「貴族は王族に忠誠を誓っています。王太子殿下も第二王子殿下も私が仕える方です」
マルティエナは以前、ギークの前で王太子を「王太子殿下」と呼んだことがある。
とすれば、エレノアの女官としてはアスタシオンを「第二王子殿下」と呼ぶのが道理。
取り繕う理由は思い浮かんだものの、愉快とばかりにほくそ笑むギークには意味をなさないだろう。
「今日のところはもういいよ。これ以上話してると本気でナザリクが誰か寄越しそうだし、そろそろ帰りな」
そうして力づくで引っ張り上げられたマルティエナは、木の葉が揺れる木々の奥闇へと背中を押されるのだった。




