24.眩む熱に溶かす不安
ブラウへの引継ぎを終えた後は、出立の準備に追われた。
優先すべきはエレノアの身の回り品の用意だ。
当日着用する魔法士団の制服の他に替えを一着。夜着や王族の一員として相応しい正装と、それに合わせた宝飾品を数点。エレノアとともに品物や数を確認し終えると、エレノアの側仕えとして帯同することになった王宮使用人のミュレットに荷詰めを任せて、他に必要なものを数えていく。
(調査行程に余裕があるから経由する都市で調達もできそうだけど……医薬品は用意しておきたいよね)
基本的な物資はセペルハース峡谷調査にあたって編成された調査隊が用意している。怪我の治療に用いる医薬品は備わっているにしても、環境の変化や行軍での疲労に効く薬や緊張を解したり睡眠の導入に良い香は持っておきたい。
王妃や王女の地方訪問の記録を参考にしながら用意する物資を選別していったマルティエナは、不足している物資の要求書を作成して、王宮内を歩き回るのだった。
◇◇◇
日に日に遅くなっていた日没も過ぎた頃、離宮の自室へと戻ってきたマルティエナはふらつく足取りのままに寝台へ倒れ込んだ。
(さすがに疲れた……。王宮はどこも広すぎるよ)
マルティエナが見積もった内容で準備を進めて良いかを秘書局でブラウの承認と指示を仰いで、魔法士団本部や医薬局といった各所へ行く。
そこで受けた指示や記録をブラウへと報告して離宮へ戻って――と、広さも距離もある建物を何往復したかは数えたくもない。
(セペルハース峡谷についてまとめてくれた書類は……移動中に読もう)
昨日もぬけの殻になっていた秘書局の宮内官たちは、過去の調査記録や書物を引っ張り出して一夜のうちに記録をまとめてくれていたらしい。
どんよりと大きなクマをつくったキギリが「程々に頑張ってきなよ」と皮肉げに背中を押して、他の皆も疲労をのせた笑顔で送り出してくれたのを思い出す。
王宮内での事務を担う彼らは役目を全うした。
その後を完遂まで継ぐのは調査任務に向かう自分たちだとマルティエナは気持ちを引き締める。
(休むのはまだ早い。私の荷物も用意しなきゃ)
力の抜けた身体に鞭を打って身を起こす。壁際に置いていた鞄を広げて、寝具と女官服の替え、身だしなみを整える最低限の荷物を詰めていって、寝台の横にあるチェストに目が留まった。
王宮図書館から借りていた本が一冊、挟んだ栞が半分飛び出した状態で置かれていた。
慌てて室内時計を確認して胸を撫で下ろす。
(今すぐ行けば、ぎりぎり間に合いそう)
王宮図書館が開く明日の朝には王宮を離れてしまう。
酷使しすぎて固くなった太腿を叩いて、マルティエナは急ぎ早に自室を飛び出した。
◇◇◇
「――はい、返却受け付けました。今日も夜遅くまでご苦労さまです」
返却した本の折れや汚れがないかチェックをした司書官が、閑散とする図書館に馴染む落ち着いた声で会釈をする。
マルティエナも応じるように深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。閉館間際にお手数をおかけしました」
水の季節に入ってからの三か月間、何度もこうしてお世話になった司書官だ。
互いに顔は覚えていると伝わるけれど、理由はそれだけではない。
(すっかり馴染んでるけど、ヴァルトセレーノ王立魔法学院にいた方がどうして王宮図書館に配属になったんだろう。殿下は研究資料館の管理を協会から一任されている強者と話していたのに)
風の季節にエレノアと足を運んだ数回では見かけなかった。司書官は数人いるので偶々居なかったのか、水の季節に変わってから何らかの理由で配置換えがあったのか。
土の季節で兄が王宮入りしたらこっそり尋ねようと思ったけれど、先延ばしになってしまった。
(お兄様にも挨拶できそうにないし、一言でも手紙を残していこうかな)
もうそろそろ王都に着く時期だが、まだ兄からは到着したと連絡が来ていない。
すれ違いになることをカーチェは悲しむだろうな、と思いながら薄暗く燈された通路を引き返していたマルティエナの視界が突如陰った。
気づくと同時に、マルティエナの腰に何者かの腕が回る。
思考よりも早く口から飛び出そうになった悲鳴も塞がれて。
明かりのない扉の奥へと引き込まれた。
マルティエナを背後から覆う人の背によって、扉が締め切られて。
壁を滑るように腰を下ろした人物とともに、マルティエナまでも床に座り込む。
王宮図書館とソルフォリア翠陽宮を繋ぐ官吏用通路に設けられた休憩用の個室。
室内外を見通せる透明なガラス窓がない代わりに、壁上部はステンドグラスの窓が二面にある。
回廊の壁掛け燭台の明かりがステンドグラスを通してぼんやりと光を通すけれど、真っ暗闇と呼べるほど心許ない明かりだった。
ドクドクと心音が飛び交う。
胸元で両手を握りしめたマルティエナは、それが恐怖からではないと分かっていた。
耳元にかかる浅い息遣い。
腹部に回った腕と背中を覆う人肌の暖かさ。
覆われた口元の代わりに息を吸った鼻先で感じる生涯忘れられない香りに、枯れ果てた涙腺が蘇る。
恐怖を感じても良いはずの暗闇が、これほど心強くなるなんて。
「――驚かせてごめん、オーレン」
耳を掠める息遣いに混じったアスタシオンの囁きが、マルティエナの胸と思考を埋めていく。
口元をひたりと覆って返事を許してくれない彼の手のひらが少しだけ憎かった。
仕方がないからゆるゆると首を振って否定する。
彼がどれだけの時間、ここで息を潜めていたのか分からない。
暗闇のなかで個室に引き込まれた驚きよりも、人目を忍んで会いに来てくれた喜びの方が勝っているというのに。
背中越しに伝わるアスタシオンの微かな震えが不安を生み出す。
「ごめんね、オーレン」
繰り返された思い当たりのない謝罪。
マルティエナは大きく頭を振った。
「本当に私には、君のためにしてあげられることが何一つとしてないんだ」
ぽつり、ぽつりと。
音のない雨のように、静かに耳元を掠めていく彼の声。
意識がちょっとでも逸れたら聞き逃してしまう、か細い音。
マルティエナの知らない場で、アスタシオンは戦ってくれていたのだと容易に想像ができて。
(立場の弱い私を守るために――)
出来得る力を尽くして、けれど彼の思いは叶わなかったのだと唇を噛みしめる。
「王宮での私の立場は君が思っている以上に弱い。そうなるように、私自らが選んできた。兄の望むように私が選んだ結果だよ」
マルティエナの肩口に額を預けたアスタシオンの声が籠る。
ほんの数センチ遠退いただけで一層聞き取りづらくなった彼の言葉。
取りこぼさないよう必死に耳を澄ませた。
「その罰かな。私は、いざという時に君を守ってはあげられない。君のように、私という存在を捨てて行動できれば良いのに、それもできない。――したくないんだ。兄が君を捨て駒にしたとしても、私は今の在り方を変えられない。兄の治世を支えることが私の幼少からの目標だから」
抱き寄せられた腕に力が集まる。
焼け付くような熱が、冷えた夜の空気を忘れさせる。
「――君だけがいればいい、なんて理想的な言葉は私には言えない」
その熱の籠った吐息にマルティエナは睫毛を震わせる。
「ごめんね、オーレン」
君だけがいればいい、と。
アスタシオンが胸の内でそう叫んでいるようにマルティエナには聞こえて。
否定された言葉のままに受け取ることはどうしてもできなかった。
いつも心からの本心だと告げる彼の言葉を、背中越しに伝わる彼の温もりが否定しているように感じたから――
口元を覆う手のひらに両手を添えると、力をかけなくても引き離せる。
そのまま彼の固く冷えた手に、お返しとばかりに体温を分けた。
「殿下は、私を待ってくださると仰いましたよね」
身分を偽って聖テレシア女学院の卒業を祝うパーティーに訪れたアスタシオンが贈ってくれた言葉。
今でも鮮明に残る彼の贈りものと、颯爽と舞った風を肌身に思い出す。
「変わらずに待っていてください。私はそれだけで充分なんです。殿下のお言葉が、選択を迷わずに進める標になるんです」
そうして、両手に収まる彼の手のひらに頬を摺り寄せた。
全てを包み隠す暗闇だから、ほんの少しの欲がでる。
布越しではなく直接、彼の温もりを感じたい。
今ではどちらの熱か分からないけれど。
明日からの峡谷調査が何事もなければ良い。王太子の言うように、エレノアの傍に控えるだけで終われるのなら、それで良い。
それなのに、肌が粟立つ奇妙な胸騒ぎがするのだ。
始めから何者かに仕組まれていたかのような違和感。
オリビアから伝え聞いた噂話の通りになったからだろうか。
不幸なことにユリスの父であるホスタギーヴ伯爵が事故に遭ったからだろうか。
――もし峡谷調査の最中で何か問題が起こったとして。
魔法を使えば解決できる場にいたとして。
『マルティエナ・オーレン』では到底扱えないとされる魔法を使うのだろうか。
失踪していた兄が戻ってきて平穏になったオーレン伯爵家の闇に葬るべき過去を、自分が兄に成り代わってきた所業を表沙汰にしてしまう危険を冒してまで、魔法を使おうと思うのだろうか。
できることをせずに、目の前で起こる何かをそのまま受け入れるのだろうか。
そんな、己の醜さが露呈するかもしれない不安に向き合う強さを欲しくて。
頬を包み込んでくれる手のひらへと頭を預けた。
「オーレン」
唇へと掠める息を感じた時には、彼の手によって左を向いていて。
「また、君に会いに来るから」
ようやく交わった眼差しに逆上せるような眩暈がした。
「私のもとに戻っておいで」
短い言葉と頷きが重なる。
潜めた呼気が二人分、静寂の闇夜に紛れて消えた――




