23.脆さの露見
何処となく漂う不安に呑まれて浅い眠りとなったマルティエナは、知らせもなしに離宮を訪ねてきた王太子によって事の大きさを知ることになる。
「君も中へ」
王太子を先頭にエレノアの執務室へと入室していく配下の最後尾にいたブラウが、マルティエナを呼ぶ。
魔法士団長と魔法士団副団長、名の知らぬ魔導騎士団員一名に、ブラウ。
場違いにも錚々たる顔ぶれが揃う執務室に身を置いたマルティエナは、音を立てないよう慎重に扉を閉めた。
「朝早くから騒がしくてすまないね、エレノア」
「そんなことないわ。団長も副団長も……朝早くからありがとうございます」
魔法士団員としてではなく、スカートの裾を軽く持ち上げた淑女としての礼をすることを選んだエレノアに、団長と副団長が身振りや口頭で挨拶を返す。
それから、始めから決まっていたように応接テーブルへと順に腰を下ろす者とその背後に立つ者とが分かれていく。
マルティエナは末席に座ったブラウの背後にそっと控えることにした。
「急な話になるけれど、エレノアにはセペルハース峡谷の調査に明朝発ってもらう。危険な任務だけれど、小隊の編成は君を決して裏切らない者を私が選んだから、安心して行っておいで」
前置きなしに口火を切った王太子の説明に、マルティエナは息を呑む。
セペルハース峡谷の調査任務。
今し方知ったばかりの内容なのに、妙に聞き覚えがある。
それがいつだったかと思案すると、鼻を鳴らした薄ら笑いをするキギリの声が頭をよぎった。
(模擬戦の帰り道に聞こえたキギリ宮内官と魔法士の方の会話も峡谷の話だった――)
あの時は音沙汰がないと話していたけれど、今回の件と繋がっていたのか、まるきり別件なのか。
状況の把握をしようがないマルティエナに反して、エレノアは冷静に頷く。
エレノアの元には何らかの情報が届いていたのだろう。つい先日王宮に戻るまでは王太子とともに視察に出向いていたのだ。前々から話が上がっていたのかもしれない。
(私はエレノアさんの遠征に伴う準備のために呼ばれたのかな)
社交シーズンは目前。夜会や舞踏会、日中のお茶会の招待状は既に届き始めている。
保留にしていた招待の全てに、断りの文を送ることになった。ドレスの最終的なサイズ合わせや小物選びなど、順調に進んでいた予定も一旦止めなければならない。
エレノアが魔法士団員として赴くにしても、身の回りの荷物準備はそれなりに必要なはず。
ぱっと浮かんだだけでも山盛りの仕事に優先順位をつけていく。
「今回の調査は場合によっては国際問題になりかねない。教会からの要望もあって、有事の際には王族の一員として立ってもらうよ」
エレノアに向けられていた柔和な眼差しが移り変わる。
マルティエナが自分に向けられた、と気づいた時にはその瞳から暖かな温度は消え去っていた。
「マルティエナ・オーレン女官。君には秘書官として調査に同行してもらう」
「承りました」
反射的に頭を垂れたマルティエナは、激しく早鐘を打つ心臓を抑えようと深く息を吐いた。
(待って、落ち着いて。大丈夫だから)
全身を震え上がらせるように鳴り響く心臓が痛い。
どうしてこんなにも恐れているのか。何に怯えているのか。
唐突に迫ったよくわからない感覚に冷や汗が伝う。
「心配せずとも、表向きは君に任せる――というだけの話だよ。実際上げてもらう書類は全て、そこにいる魔導騎士のギーク・ランスベルに一任する。君は一字一句違わずに書き写して、名を記すだけで良い」
「ディオン、それは――ッ」
エレノアの批難じみた呼びかけが不自然に途切れる。
床を映す視界の端では、魔導騎士のマントが揺れていた。今し方紹介された秘書役の一任者なのだろう。
「君にしか任せられない、エレノアの側を方時も離れずにいれば済む簡単な仕事だよ。できるね?」
王太子には信頼と呼べるものはおろか、信用すら欠片もされていない。
それをこの場で、王太子が認め傍に置く者たちが集う中で公言されている。
「仰せのままに」
ユリスがいれば、選ばれるのは自分ではなかった。
ユリスが任されていれば、代役を立てるなんて回りくどい方法も取らなかった。
そう瞬時に理解できるほどには明白に、王太子の冷淡な微笑には何も宿っていなかった。
(殿下、ごめんなさい――)
期待してくれているアスタシオンに顔向けできない。
震えを噛み締めた唇からは、身体中を暴れ回って痛みを撒き散らす血の味がした。
◇◇◇
たった一日では整理もできず王宮に残していく大半の仕事は、そのままブラウに引き継ぐことになった。
ブラウの背を追って戻ってこれた女官室で、ぎこちない笑みを浮かべながら引き継ぐべき書類を揃えていく。
「少しだけお待ちください、すぐに用意できますので」
彼からの気まずい視線が、動悸の治まった身体をちくちくと刺激する。
何も気にしていないとさっぱり笑えば済むのに、それを行動に移した途端に涙も溢れて出てしまいそうで、手元の書類を見下ろすことで気持ちを押さえつける。
そうして忙しなく動いていたマルティエナの手を、ブラウの骨張った手が覆った。
触れられてないすれすれに人肌が加わる。
ブラウの手は火傷しそうなほどに熱い。そう勘違いするくらい指先が冷え切っていたと知る。
「君には辛い思いをさせたな。明日からも、それを強いることになる。私に謝罪する時間をくれないか」
淡々と紡がれる言葉が温かい。
微笑みの内で氷の刃を向けていた王太子とは真逆だった。
マルティエナがギリギリで保っていた糸は呆気なく千切れていく。
ぽたり、と音を立ててブラウの手に雫が落ちた。
どうにも情けなくなって、自由の効く手で乱雑に目元を擦る。冷え冷えとした手と生温かな涙でまた火傷してしまいそうだ。
「私は君にそのまま秘書の務めを任せて良いと思っている。今の君には言い訳に聞こえるだろうが、私の本心だ。君は誠実で直向きに務めてくれている優秀な官吏だ」
労いの言葉はいつもくれるけど、ブラウからはっきりと仕事ぶりを評価されたのは初めてだった。
「殿下も少なからず気付いている。君を無能と判断していたら、とっくに王宮から追い出していただろうからな」
淀みなく真摯に紡がれる声音に顔を上げたいのに、勢いを増していく涙がそうさせてくれない。
ぽたぽたとブラウの手元に落ちる雫の量が弱さの表れのようで情けなかった。
「王太子というお立場上、他者を信用するまでに長い時間を掛ける。表向きでは信用しているようでも、内心では違うこともザラだ。人の言動は状況次第で簡単に覆るからな。特段、王宮ではそれが日常茶飯事だと、学生生活を過ごされていた時には懐かしんでもいたくらいだ」
嗚咽のような呼吸すら止めてしまいたくて、血の滲む唇を噛み締める。
「殿下は国政に携わるまでの間に、決して裏切らないと信頼をおける人脈を築き上げて、随所に散りばめてきた。ギーク・ランスベルもそうだ」
そうですよね、と。
王太子殿下のお立場上正しい判断と解ります、と理解を言葉にしたいのに。
「表向きは称賛されているが、殿下を王太子の座から引き摺り下ろしたい派閥はいる。慎重すぎるくらいでも足りないのが王宮と分かってほしい」
引き攣る喉がそうさせてはくれないから、首を強く振る。
――そうして涙を全て出し切るまで。
出立までの限りある時間を泣いて浪費してしまったマルティエナをブラウは見放しはしなかった。
昂っていた気持ちが落ち着いてからやってくる後悔と恥ずかしさに逃げたくなる気持ちを抑えて、ブラウへと向き直る。
「決して、王太子殿下のご決断に異論はございません」
さして珍しくないことと流されてもおかしくないのに誠意を示してくれたブラウに応じたかった。
「エレノア様や他の皆様の荷物になるだけの、体裁上必要なお飾りでいることが――……私が、そんな私を許せないんです。それだけなんです」
それだけ、と何度も繰り返す。
言葉にして唱え、心の中で唱え。
そうして自分自身に言い聞かせる。
王太子の信用に値する価値を自分自身に用意できなかった己を恨め。
王太子の目に留まらぬ行動で良しとしてきた己を恨め。
ただ毎日の雑務をこなすだけなら、誰だって良いのだ。
そんなことでは王太子に認められることなど有り得ないと始めから分かっていた。
だから当然の結果だと言い聞かせて、これからを向き合えば良い。
「ありがとうございます、ブラウ様。エレノア様が少しでも快適に過ごせるように精一杯努めて、離宮に戻って参ります」
強がりながらも今できる心からの笑みで見上げたマルティエナは、土の季節特有のからりとした陽射しが窓から差し込むのを感じた。
昨夜から音なく降り続いていた小雨が止んだらしい。
光の神ラスヴィータは、危険な任務へと旅立つエレノアを太陽の輝きでもってして応援してくれることだろう。
そんな、根拠のない予感が視界を晴らす。
「気を悪くするかもしれないが、殿下が君をお認めにならない理由に少なからず心当たりがある」
粗方の引継ぎを終え、秘書局へと運ぶ書類を手分けしてまとめていると、唐突にブラウが口を開いた。
「君は経歴の割には有能すぎる。ヴァルトセレーノ王立魔法学院を退学することなく通えていたならば、と思わずにはいられないくらいにな」
一瞬強張った身体が優しさの入り混じる声音によって解れていく。
驚きで目を瞬かせたマルティエナへと、ブラウは困ったように笑った。
「屋敷から外を出歩けないほどの病だったと聞くが、表向きはそう仕立て上げて娘を言葉の通りに『深窓の令嬢』にする貴族もいるくらいだ。アスタシオン殿下とエレノア様からは病を治したと報告を受けているが、殿下は少なからず君を疑っている」
その疑いは正しい。認めてはいけない肯定に視線が落ちたマルティエナが気落ちしたと思ったのか、宥めるように無骨な手のひらが一度だけマルティエナの頭を撫でていく。
「マティアス・オーレン伯爵の妹なのだから、私は腑に落ちているが。君らは本当によく似た双子だ」
寄り添うように語るブラウの裏表のない言葉がマルティエナには少し重い。
兄に成り代わるのを止めた今も、変わらず人を騙し続けているのだ。
「お兄様をお知りなのですね……?」
彼から与えられる信頼がどこからやってきたのか気になって、探る問いかけが口をつく。
マルティエナが『マティアス・オーレン』として過ごしてきた期間、ブラウとは接点がなかった。王太子と極力関わらないように、隣を歩く機会の多かったブラウも避けていたとも言える。
マルティエナ同様に今年から王宮入りした兄だって、ブラウと交流があったとは思えない。
「一方的にな。学生の頃は研究資料館に行くたびに目にしていたが、勉強熱心なのは今も変わらなかったな。先の季節では王宮図書館に頻繁に出入りしていたようだが、水の季節では入れ替わるように君が入り浸っていたから驚かされた。座る席まで……よく似た双子だよ」
肩を竦めて笑ったブラウが「行こう」と手元にまとめた書類を抱えて歩き出す。
同じく数冊の紙束を手にして後を追うマルティエナは俯きがちに口元を緩めた。
鎖骨まで届く髪が隠したい表情を隠してくれる。
本物の兄とも似ている。それが単なる容姿の話ではなくて、行動からそう思われていたことがどうにも嬉しかった。




