元の住人
子供が幸せに生きる世界を望んでいます。
マリーたちが森の奥へ走り去っていく少し前、悠久もまた馬車を飛び出していた。
同じ方角へ逃げた子供が何人かいたはずだった。今はもう、誰がどこにいるかもわからない。もう捕まってしまったのか。
ただ、この脱走劇の発端である悠久のことを賊が簡単に逃がすわけはなく、追ってくる足音は、すぐ背後にあった。
「待てっ!」
怒声が森に響く。悠久は方向も考えず、ただ木々の間を駆けた。この身体は、思っていたより重く、思っていたより遅かった。
(くそ、思った以上に動けない。)
後ろを振り返る余裕はなかった。枝が顔を切り、石に躓きそうになる。それでも背後からの足音が、止まれば終わりだということを告げていた。
遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。他の子供が捕まったのだろう。
助けに戻る、という選択肢は浮かばなかった。今は、自分一人をどうにかすることしか考えられない。
不意に、足首に痛みが走った。
何かに引っかけられたのではない。賊の手が、足首を掴んでいた。
悠久は地面に倒れ込む。視界が反転し、土の匂いが鼻を突いた。
「捕まえたぞ、ガキ。」
見上げた先に、賊の顔があった。その表情には、任務を失敗させられた怒りが滲んでいた。
賊が悠久の腕を掴み、引き上げようとした。
(また、あの感覚を使えるか。)
馬車の中で起きたことを思い出す。縄が「縛るもの」でなくなった時のことを。あの剥がれていくような感覚。
ただ理屈がわからない。なぜ起きるのか。あの時は必死で、縄が外れることを思った。その対象はなんだったのか。縄本体か、はたまた「縛られている」という事象か。それとも―――
(縄や格子には効いた。じゃあ―――これは、どうだ。)
賊の手を見た。あの時も、賊の手がマリーから離れるように念じた。あの時と同様だ。
迷っている時間はなかった。
(試すしかない。)
悠久は賊の手首——正確には、その手が「自分を掴んでいる」という事実に意識を向けた。掴むという行為。捕らえるという意味。支配しようとする意志。
何かが、剥がれた。
力が抜けた。賊の手が、悠久の腕からするりと外れる。掴んでいたという事実そのものが、なかったことのように。
「な、、、なんだ!?」
賊が自分の手を見て狼狽える。
そして悠久はもう一つ違和感に気付いた。賊の目が、悠久を見ていないのである。
正確には——見えているはずなのに、意識がそこを素通りしていく。賊は怪訝な顔で周囲を見回し、やがて興味を失ったように視線を逸らした。
「……気のせいか。」
そう呟いて、賊は別の方向へ歩き去った。
(どういうことだ……?)
理由はわからなかった。ただ、今は考えている時間も惜しい。
悠久はその場を離れ、ただひたすらに走った。
どれだけ走ったのか、もうわからなかった。
森が開け、小さな岩場に差しかかったところで、悠久はようやく足を止めた。大きな岩の陰に身を隠すように座り込む。
息が整わない。この身体は、まだこの感覚に慣れていなかった。
しばらく荒い呼吸を繰り返した後、悠久はようやく頭を働かせる余裕を取り戻した。
(さっきのは、何だったんだ。)
賊の手が外れた瞬間。賊が悠久を見失った瞬間。あの二つは、おそらく同じ現象だった。
縄から「縛る」という意味を剥がした。格子から「閉じ込める」という意味を剥がした。
賊の手から「掴む」という意味を剥がした。
じゃあ、それらが意味するものは何なのか。
そして——おそらく自分自身からも、何かを剥がした。
(存在感、というやつか。)
うまく言葉にできない。ただ、剥がしすぎた、という感覚だけがあった。指先が、輪郭が、薄い。まるで自分という存在そのものが、紙のように薄くなっていくような。
怖くはなかった。むしろ妙に冷静だった。これが代償なら、受け入れるしかない。前世でも、何かを得るには何かを失うのが当たり前だった。
(次に使うときは、もっと——)
考えが、途中で途切れた。
視界の端が、暗くなっていく。岩の感触が、急に遠くなった。
(あ、れ……?)
身体から力が抜けていく。座っているはずなのに、まるで沈んでいくような感覚だった。
最後に見えたのは、灰色に染まっていく視界だった。
そして、悠久の意識は完全に途切れた。
暗闇だった。
いや、暗闇というより、何もない場所だった。上も下もわからない。足の感覚すらない。
悠久はそこに、ただ「在る」だけだった。
「——気づきましたか。」
声がした。自分の声ではない。だが、不思議と聞き慣れた響きがあった。低く、静かで、どこか諦めたような色を帯びている。
振り返ろうとしたが、振り返る身体がなかった。視界だけが、声の方向に向く。
そこに、誰かがいた。
輪郭がはっきりしない。霧のような、それでいて確かに人の形をした何か。だが悠久には、それが誰なのか——いや、何なのか、なぜか直感的にわかった。
(お前は……)
「僕は、その身体に、もともといた人間です。ナタカといいます。」
ナタカと名乗る存在が答えた。
「ユクルさんのことを、ずっと見ていました。」
自分の名を知っていることに、悠久は何も言えなかった。そもそも言葉を発する仕組みすら、ここにはないようだった。ただ、思考だけが伝わるらしい。
(俺が……お前の身体を、奪った。)
「奪った、というのは正確じゃありません。あなたが来た時、僕はもう、ほとんど消えかけていました。」
淡々とした声だった。恨みも、哀しみも、その声からは感じ取れなかった。
「親に売られる馬車の中で、死にかけていました。ユクルさんが入ってきたのは、その後です。」
悠久の中で、何かが冷たく沈んだ。
(同じだ。)
前世の自分と、同じ場所にいた人間が、ここにもいた。
「ユクルさんのことは、よく見えていますよ。」ナタカの声が続いた。
「前世で、妹を置いて死んだことも。先生という人間に、ずっと言われ続けた言葉も。」
(なんで、それを——)
「同じ身体ですからね。深いところで、繋がっているんです。ユクルさんが眠っている間、僕はずっとここにいました。」
悠久はその言葉を、すぐには受け止められなかった。誰にも見せたことのない部分を、誰よりも近い場所から見られていた。
「ユクルさんのお父さんのことも、知っています。」
ナタカの声が、初めて低く沈んだ。
「僕の父親と似ています。」
(……お前の、父親か。)
「ええ。僕を、売った人間です。」
短い言葉だった。だが、その短さに、削ぎ落とされた感情の重さがあった。
悠久は先ほど言葉を思い出す。深いところでつながっている、と。であれば、悠久も見ようとすればナタカの過去について見ることができるのだろう。ナタカの父親というやつも。
「恨んでいますよ、今でも。許せるわけがありません。」
悠久は、その言葉に何も返せなかった。自分も同じだから?それだけではないかもしれないが、今はナタカの過去を遡ろうとも思わなかった。今、ナタカから意識を逸らすのは失礼なことだと感じた。
「ユクルさんの父親も、同じだったんでしょう。」
ナタカが続けた。
(……ああ。)
「だから、ユクルさんが逃げようとした時、僕は嬉しかったんです。僕にはできなかったことを、やってくれるんだって。」
声に、わずかな震えが混じった。
「僕は、最後まで何もできませんでした。ただ、売られて、消えていくだけでした。」
「だからユクルさんには——」ナタカの声が、強くなった。
「僕の代わりに、ちゃんと怒ってほしいんです。」
悠久は、その願いの輪郭を、はっきりと感じ取った。
「怒っていませんよ、ユクルさんのことは。」ナタカが言った。顔はわからない。しかし、微笑むように―――
「むしろ——感謝しています。」
(感謝……?)
「ユクルさんは僕の人生を、変えようとしています。父に売られ、奴隷になって、誰にも見つからずに終わるはずだった人生を。」
声に、わずかに熱が混じった。
「ユクルさんが国を変えようとしているのを、ここで見ていました。それは、僕の願いでもあったんです。」
悠久は、その言葉の重さに息を呑んだ。
(俺は……国なんか変えようとしていない。ただ目の前のこどもが逃げるのを手伝っただけだ。)
「これからでしょう。」
短い答えだった。
(これから……?)
「ユクルさんのその思いは、前世から引き継いできた思いです。そこにそれを成しうる能力を手に入れた。ユクルさんが先ほどこどもたちを助けたのは、国を変える、一歩目だったんですよ。」
(俺の……能力……)
「ユクルさんの能力——概念剥離。使い方は、まだ半分も分かっていないはずです。」
(半分も……?)
「僕の身体ですからね。本能的に分かることがあります。」
ナタカの輪郭が、わずかに近づいた気がした。
「ユクルさんは今、何かを剥がすたびに、自分自身からも何かを失っています。気づいていますか。」
(存在感がなくなる感覚は分かる。)
「半分正解です。影が薄くなるとか存在感がなくなるというだけではありません。実際にユクルさんという存在が希薄になっています。剥がした分だけ、ユクルさんという存在が——周りの記憶から、薄れていくんです。」
悠久の中で、何かが腑に落ちた。最後に能力を使用したとき、賊はまるで、悠久を追っていたことを“忘れた“かのようなそぶりを見せていた。
(待て。それじゃ——マリーは……)
「ユクルさんを覚えていないでしょう。今この瞬間も。」
静かな声だった。だが、その静かさが、悠久の胸を貫いた。
「ユクルさんは、誰かを助けるたびに、その誰かから忘れられていきます。」
ナタカが続けた。
「名前も知らない誰かを救いながら、自分も名前のない誰かになっていくんです。」
(そんな代償が……)
別に英雄願望があるわけではない。前世でも、誰かの記憶に残るようなことはしていない。
ただ、自分の存在が誰にも覚えられない、というのはえも言えぬ恐怖だった。
「ですが、それだけじゃありません。」
ナタカの声に、わずかな光が混じった。
「失うだけの一方通行じゃないんです。ユクルさんが誰かに記憶され、誰かに認められれば、その分だけ——ユクルさんは、また満たされます。」
(満たされる……?)
「ユクルさんの存在は、消費されるだけのものじゃありません。誰かと繋がることで、増えていくんです。それに伴って、能力の幅も増えます。」
悠久はその言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
失うことと、得ること。表裏一体の力。
「先生という人間は、誰にも覚えられないまま、消えることを選んだのでしょうね。」
悠久は、それに対して何も言わなかった。
ナタカは、自分の中に流れ込んできた記憶として先生を知っているだけだ。だが悠久にとっては違う。あの口癖は、今もはっきりと耳に残っている。あの人を、誰にも覚えられていないことにするわけにはいかなかった。
ただ、ナタカの声には、わずかな羨望のようなものが混じっていた気がした。
——僕には、そんな人はいなかった。
そう言われた気がして、悠久は何も言えなくなった。
「ユクルさんは、同じ道を選ぶ必要はありませんよ。」
悠久は、霧のような輪郭をじっと見つめた。
(お前は……どうしたい。この身体を、返して欲しいか。)
長い沈黙があった。
「いいえ。」
ナタカの答えは、思いのほか静かだった。
「僕は、ユクルさんがこの身体で生きることに——納得しています。今は、それでいいんです。」
「ただ、教えられることは教えます。それが、僕にできることですから。」
輪郭が、少しずつ薄れていく。霧が晴れていくように。
「目を覚ましてください、ユクルさん。」
名前を呼ばれた。初めて、はっきりと。
「まだ、終わっていないでしょう。」
視界が、白く染まっていった。
次に悠久が感じたのは、頬に当たる夜風の冷たさだった。
目を開けると、見慣れない森の岩場が広がっていた。空はまだ暗い。だが、東の端がわずかに白んでいるのが見えた。
身体を起こす。重い。けれど、確かに——自分の意志で動く身体だった。
(ナタカ……。)
応える声はなかった。眠っているのか、あるいは深いところに沈んでいったのか。
悠久は岩に手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。
まだ、終わっていない。
その言葉だけを胸に、悠久は夜明け前の森を、再び歩き始めた。




