逃亡、その後
子供が幸せになる世界を願っております。
走った。ただひたすらに走り続ける。後ろなんか振り返れない。この小さな身体で、賊たちから逃げるには走るしかなかった。街道を外れた獣道だ。もはやマリーが身にまとっていた服は馬車の中にいた少年少女たちと同じように汚れ、髪も乱れていた。
隠れるという選択肢はなかった。
賊に能力者がいれば、走っても無駄だ。それでも足を止めるよりはましだった。
走ったからと言って逃げきれる保証もない。しかし、これが最後のチャンスであるという感覚が、マリーの足を前へ前へと進めた。
後ろからも同様に走る足音が聞こえる。それが一緒に馬車から逃げた子供たちの足音なのかはわからない。しかし、賊の怒声が次第に近くなってきていた。
(はぁっ、はぁっ、もう、、、走れないっ、、、!)
足がもつれ始めていた。貴族の屋敷で育った脚では、捕まれば奴隷になるというプレッシャーの中で走り続ける体力は備わっていなかった。
「諦めやがれ!」
賊の声がすぐそばまで来ていた。
(もうここまでなの、、、!)
マリーは自分の思考が諦めかけていることに気が付いた。
“お前のことを諦めていない人たちがいるんだろ。それならお前が勝手に諦めるんじゃない!”
“誰か”の声が、脳裏をよぎった。
(そうよね、私のことを助けようとしてくれている人がいるんだもの。それに捕まったからといって殺されるわけじゃないわ。)
(そうですよね、“先生”。)
「マリー様―――!!!」
聞き覚えのある声。その声が、決して絶やさぬように、保っていた火が、再び息を吹き返す。
「シュテルン!ここです!賊もすぐそこに、、、!」
マリーは自らの居場所とともに、賊の居場所を伝えた。マリーにできることはそれだけであった。
「見えていますっ!」
一騎の騎兵が、走ってくるマリーの頭上を飛び越えた。そしてそのままマリーを追っていた大男を踏み潰した。
「ぐぇっっ!」
大男はそのまま地に伏した。常人は騎兵につぶされれば、起き上がることはできない。何か特殊な能力はなかったようだ。
「ご無事ですか!マリー様!」
マリーを飛び越えていった騎士が馬上から降りて駆け寄り、跪いた。
「頭上を飛び越えるという不敬をお許しください!マリー様の背後に追っ手が見えました故、、、あぁご無事で何よりでございます。」
そう言ってマリーがシュテルンと呼んだ男―――シュテルン・クレッツは涙ぐむ。相当必死に追いかけたのだろう。普段は整えられているであろう銀髪が乱れていた。鎧のあちこちに泥が跳ねている。馬も荒い息をついていた。それだけ飛ばしてきたのだろう。シュテルンは跪いたまま、しばらく顔を上げられなかった。しかしその美しさは健在であった。
容姿が整った2人である。この状況を知らないものが見れば、王子と姫の物語だと勘違いしたかもしれないが、無論そんなことはない。その周囲では追っ手等を他の騎兵が掃討していた。
「お顔を上げてください、シュテルン。本当にありがとうございます。もうダメかと、、、」
マリーも安堵からか、笑みを浮かべていた。汚れなど気にせず、彼女もシュテルンと同じ目線まで下がっていた。
「シュテルン隊長、賊は全員捕らえました。早く立って指揮を取ってください。」
凛とした声が、2人の再会を引き締めた。背後にはインテリ系という言葉をまさに体現したような女性が立っていた。 そんな彼女―――ジェスカ・リーフはマリーに手を差し伸べた。
「えぇ、そうですね。他にも捕まっていた子供たちがいました。近くにいるはずです。保護してあげてください。」
マリーが差し出されたジェスカの手を取り立ち上がると、そのままジェスカに抱えられ、馬上に収まった。シュテルンもすでに切り替えたようだ。
マリーは馬上からなにかを探すように周囲を見ていた。
「誰か、探しているのですか?まさかとは思いますが、お知り合いでも?」
シュテルンが尋ねる。マリーはそんな自覚がなかったのか、驚いたような表情を見せた。
「いえ、違います。なんでしょう、、、懐かしい人に会ったような、、、そんな気がしたのです。思い出そうとしても、、、なぜか思い出せないのです。」
顔を思い出そうとした。目を閉じれば出てくるはずだった。ただそこだけが、霧になる。言葉も、声の質も、覚えている。なのに顔が、名前が——するりと抜け落ちていく。
「「?」」
シュテルンとジェスカは顔を見合わせた。マリーは幼いながらも非常に優秀だ。10歳にして、大貴族の娘として多くの修羅場をくぐってきた。そして今も修羅場真っ只中である。そんな事態において、印象に残るほどの出会いを忘れるとは思えなかったのだ。
「マリー様、屋敷に戻ったら詳しくお話をお聞かせください。落ち着いて話せば何か思い出すかもしれません。」
「えぇそうですね。いったん戻りましょう。ここでは落ち着いて話せないでしょうし、子供たちの手当ても必要でしょうから。」
「マリー様も人のことばかり心配していないでご自分の心配をなされてください。」
ジェスカはマリーの背中を見ながら、静かに息を吐いた。
(この人はいつもそうです。こんなに小さいのに、トゥキルザ侯爵家の看板が大きすぎますね。あぁ、こんな時に“先生”がいてくだされば、、、)
騎士団はシュテルンを先頭に帰路についていた。保護された少年少女は安堵か、疲労からか、慣れない馬の上であるにもかかわらず、眠りについていた。夜も更け、月明かりが街道を照らし、騎士団の影が長く街道に伸びていた。マリーら奴隷馬車に乗っていた少年少女たちは知る由もなかったが、それほど街から離れていなかったらしい。ジェスカの馬上にいるマリーも限界のようだ。
「マリー様、屋敷まではもうしばらくございます。馬上につき、あまりくつろぐことはできないかもしれませんが、お休みください。」
マリーは無言で身体をジェスカに預けた。普段であれば必ず礼や感謝を述べていたであろう。しかし、体力的にも、精神的にも、マリーにその余裕はなかった。
ジェスカは先ほどのマリーの様子を思い返す。
(ずいぶんとお疲れですね。無理もないのですが。それにしても先ほどの様子、何かの能力で記憶や精神に影響を受けていたりしなければいいのですが、、、)
考え事をしていたジェスカの元へシュテルンが近づく。
「マリー様は、、、お休みか。屋敷に戻ったら少し話ができないか?できるなら2人で話したいのだが、、、」
「そうしましょう。私も相談したいことがございますので。」
騎士団長と副団長は同じようなことを考えていたようだ。やはり先ほどのマリー様は何かおかしい、と。
「マリー様、まもなく到着します。」
ジェスカがそういうと、マリーはゆっくりと目を開けた。門番が松明を掲げた。
「すみません。もう平気です。」
マリーはそう言うと笑った。 しかし―――
「ダメです。こんな程度の休息では足りません。屋敷に戻ったらちゃんとお風呂に入ってから軽くお食事、そしてすぐにちゃんと休まれてください。」
ジェスカにとっては歳の離れた妹のようなものだ。その妹であり、主君が攫われた。あまり表には出さないものの、かなり心配していたのだろう。マリーの疲労を見逃すことなく告げた。
「所属をお願いいたします。」
その一行の中は雑多であった。先頭の男は華々しくも、少し乱れている。集団後方には騎士に抱えられた少年少女たちが。
「トゥキルザ家騎士団長、シュテルンだ。門の開錠を。」
門番は炎に照らされたシュテルンの鎧にトゥキルザ家の家紋を確認すると門を開けるためにもう1人の門番に声をかける。
門が開き、騎士団が入城する。トゥキルザ家の騎士団であれば、夜更けに帰ろうと訝しまれない。しかし、それはかつての話であった。門番は入城する騎士団を1人1人注視する。そしてその集団の中に副団長に抱えられた少女を見つけると、一瞬狼狽えた。全員が入城したことを確認すると、小走りで待機室に入り、通信水晶に手をかざした―――
石の表面が淡く光る。返答を待つ間、門番の手は小さく震えていた。
しばらくして、水晶の向こうから低い声が響いた。
「何事だ。」
「マリー・トゥキルザが、無事に屋敷へ帰還しました。馬車から逃げた子供たちも、騎士団に保護されたようです。」
短い沈黙の後、水晶の向こうで小さく舌打ちが聞こえた。
「分かった。今夜のことは誰にも漏らすな。」
「承知しております。」
通信が切れる。門番はできる限り平静を装い、元の業務に戻っていった。
屋敷の門が開いた瞬間、待機していた使用人たちが一斉に動き出した。
ジェスカが先にマリーを抱えて馬から降りる。マリーは半分眠っているような状態で、足元がふらついていた。侍女が駆け寄り、すぐに支える。
「お湯の準備は。」
「すでに整っております。」
マリーが屋敷の中へ運ばれていく一方で、シュテルンは後方の馬たちに目を向けた。保護した子供たちが、まだ馬上で身を寄せ合っている。
「医師を呼べ。それと、暖かい食事と寝床を用意しろ。」
「は、馬車の方々ですか。」
「ああ。トゥキルザ家で一時的に保護する。家がどこかわかる者は、後日落ち着いてから話を聞こう。わからない者は——」
シュテルンは一瞬、言葉を切った。
「とりあえず今夜は休ませてやれ。詳しい話は明日でいい。」
使用人たちが子供たちを馬から降ろし、屋内へ案内していく。一人の少女が怖がって動けず、年配の侍女が膝をついて優しく声をかけている様子が見えた。
ジェスカが戻ってきて、その光景を見ながら呟いた。
「全員、行く場所がないのでしょうね。」
「だろうな。」
「トゥキルザ家で抱えるには、人数が多すぎます。旦那様——いえ、今は侯爵様がいらっしゃらない状況で、それに財政的にも。」
シュテルンは黙ったまま、子供たちが屋敷の灯りの中に消えていくのを見ていた。
「それでも、今夜放り出すわけにはいかない。」
「えぇ。それは私も同じ考えです。」
二人はしばらく無言で、運ばれていく子供たちを見守っていた。
湯の温かさが、ようやく身体に染みた。帰ってきたという実感が、マリーにようやく安堵を与えた。侍女たちが手早く汚れを拭き、乱れた髪を整えていく。マリーはただそれらに身を任せた。侍女たちは何も語らなかった。むしろ迂闊に事件の記憶を掘り返さないようにしている様子であった。
湯の中でマリーは自ら記憶を辿った。一度諦めかけた命を誰かに止められた。そのことは覚えている。しかし、誰に止められたのかを思い出すことができない。自分の中の“先生”が止めてくれたのか、あれは幻影だったのか。そんな考えさえ浮かぶ。
食事はほとんど喉を通らなかった。スープを少し飲んだだけで、寝室に運ばれた。
柔らかい寝具に身体を沈めると、急に瞼が重くなった。考えなければならないことがいくつもあるはずだった。でも今は、何も考えたくなかった。
マリーはすぐに眠りに落ちた。
マリーが眠りに落ちたのを侍女から聞き、シュテルンとジェスカは寝室の前の廊下で足を止めた。
「眠られたか。」
「先ほど。ほとんど何も口にされなかったそうです。」
シュテルンは壁にもたれ、目を閉じた。
「無理もない。攫われ、奴隷として売られかけた。それだけで普通なら何日も寝込む。」
「マリー様は普通ではありませんから。だからこそ、心配しております。」
ジェスカの声が、わずかに硬くなった。
「あの方は、こういう時こそ強がる。誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず。今までもそうでした。」
「お前は、それを誰よりも知っている。」
シュテルンの言葉に、ジェスカは黙った。それが答えだった。
「問題は、それだけじゃない。」シュテルンが続けた。「あの記憶のことだ。」
「誰かに助けられたとおっしゃられていたな。ただ、それを覚えていない。」
「ただの動揺ではないと思うか。」
ジェスカは少し考えてから、口を開いた。
「もし本当に、何らかの能力によって記憶が——あるいは、ご本人の認識そのものが操作されたのなら。」
「敵の能力者が紛れていた、ということか。」
「可能性としては。ただ、敵対者ではない可能性もあります。マリー様を助けるメリットが読めない。そして、もう一つ気になることがあります。」
「何だ。」
「マリー様は、その誰かを“懐かしい人“と仰いました。」
シュテルンの表情が変わった。
「“懐かしい人“、というのは——」
「断定はできません。しかし、我々にとって、“懐かしい”というのは、侯爵様か、あるいは―――あの方のことです。」
夜の静寂の中、二人の間に重い沈黙が落ちた。
「魔物大戦の頃、軍議で何度もお世話になった。」
ジェスカが静かに言葉を続けた。
「あの方の指南がなければ、私はあの場で何の役にも立たなかったでしょう。」
「お前がそこまで言うのは珍しいな。」
「事実ですから。」ジェスカは少し目を伏せた。「あの方が消えてから、軍議の質は明らかに落ちました。誰もあの方の代わりにはなれません。」
「もし、本当にあの方に縁のある誰かが現れたのだとしたら。」シュテルンが呟いた。「それは敵か、味方か。」
「わかりません。ですが——」ジェスカは寝室の扉を見た。
「マリー様を守る理由が、また一つ増えた気がします。」
扉の向こうで、マリーは静かに眠っていた。何も知らないまま、何かが既に動き始めていることを。
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