第84話 観察記録
第84話 観察記録
翌朝。
迷いの森の奥深く。
巨大な要塞のような屋敷で、カノンは静かに目を覚ました。
天井を見つめながら、小さく息を吐く。
(昨日まで敵だった場所……。)
それが今日から、自分の職場であり、住まいでもある。
不思議な気分だった。
昨日。
地下牢から解放された後。
クロエ・ハートフィリアは、自分達を何の条件もなく解放しようとした。
だが、それを止めたのはカノン自身だった。
(帰れば報告義務がある。)
(そうなれば、次はもっと大規模な討伐隊が派遣される。)
吸血鬼。
アンデッド軍団。
無名の剣豪。
そして魔王候補と呼ばれる少女。
王国で聞いていた噂と、実際に目にした姿はあまりにも違っていた。
(真実を知らなければ。)
(きっと、また同じことが繰り返される。)
だから自ら申し出た。
この屋敷で働かせてほしい、と。
クロエは少しだけ驚いた顔をした後、
「働いてくれるなら助かるわ」
と、本当に気軽な調子で受け入れた。
その結果。
蒼穹の旅団の五人は、それぞれ住み込みで働くことになった。
エリスは工房の補助。
ノーラは医務室や薬草園の管理。
シオンは畑や庭園の世話。
ガイアスは警備隊との訓練。
そして自分は、クロエ付きのメイド。
役割はそれぞれ違う。
だが、共通していることが一つだけあった。
誰一人として拘束されてはいないということだ。
嫌なら、いつでも屋敷を出て行って構わない。
クロエはそう言った。
敵だった相手へ向ける言葉とは思えなかった。
もちろん、それは表向きだ。
本当の目的は一つ。
(クロエ・ハートフィリア。)
(あなたが何者なのか。)
(この目で確かめる。)
決意を新たにした、その時だった。
コンコン。
部屋の扉が静かに叩かれる。
「皆様、おはようございます。」
穏やかな声。
扉を開けると、燕尾服姿の吸血鬼キールが優雅に一礼した。
「本日は屋敷をご案内致します。」
「どうぞ玄関ホールへ。」
◇
数分後。
玄関ホールには五人全員が集まっていた。
豪華な赤い絨毯。
高い吹き抜け。
磨き上げられた大理石の床。
壁には絵画や彫刻が並び、高価な調度品が違和感なく置かれている。
ここだけ見れば、公爵家どころか王族の離宮と言われても納得するだろう。
「……本当にアンデッドの屋敷なの?」
エリスが呆れたように呟く。
「昨日まで敵だった相手の本拠地とは思えないわ。」
「とても綺麗ですね……。」
ノーラは床へ視線を落とした。
「神殿より掃除が行き届いているかもしれません。」
「すごい!」
シオンは目を輝かせている。
「あっちの暖炉も大きい!」
「絵も高そう!」
完全に観光気分だった。
「浮かれるな。」
ガイアスだけは腕を組んだまま周囲を観察している。
「まだ安全だと決まった訳じゃねぇ。」
その言葉にシオンは肩をすくめた。
一方でカノンは、誰とも違う景色を見ていた。
(玄関に二名。)
(二階回廊に四名。)
(巡回周期は約三分。)
(監視塔との連携も取れている。)
歩幅。
視線。
立ち位置。
巡回経路。
頭の中へ、一つずつ記録していく。
まるで一つの軍事要塞だった。
「皆様、お待たせ致しました。」
キールが微笑む。
「まずは生活区画をご案内致します。」
五人はその後ろへ続いた。
◇
廊下を歩く。
途中ですれ違うグール達は、全員が立ち止まり一礼していた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
キールも自然に挨拶を返す。
誰一人命令されている様子はない。
まるで普通の使用人だった。
「普通に働いてる……。」
エリスが思わず呟く。
「はい。」
キールは微笑む。
「皆、それぞれ担当がありますので。」
厨房へ案内される。
そこでは数十体のグールが料理を作っていた。
野菜を切る者。
鍋をかき混ぜる者。
盛り付ける者。
食器を洗う者。
全員が淀みなく動いている。
「アンデッドが料理……?」
ノーラが目を丸くした。
「味覚なんてあるんですか?」
「ありません。」
キールは即答した。
「ですが、調味料や火加減は全て数値で管理しております。」
「料理長のレシピ通りなら、誰でも同じ味を再現できますので。」
「数値……。」
そんな考え方は聞いたことがない。
五人は思わず顔を見合わせた。
◇
裏庭へ出る。
広大な畑が広がっていた。
何百体ものグールが畑を耕し、種を蒔き、水を撒き、収穫している。
その動きに無駄は一切ない。
まるで巨大な一台の機械だった。
「全部アンデッド……。」
シオンが呆然と呟く。
「人が全然いない。」
「農業、建築、運搬、警備。」
キールは穏やかに説明する。
「ほとんどグール達が担当しております。」
「そのため慢性的な人手不足とは無縁ですね。」
「これじゃ……。」
ガイアスが低く唸る。
「国一つ維持できるじゃねぇか。」
キールは静かに笑った。
「ええ。」
「実際、そのような計画で進めております。」
全員の表情が固まる。
◇
「そして。」
キールが大きな鉄扉の前で立ち止まった。
「ここから先は、皆様も驚かれると思います。」
重い扉がゆっくり開く。
その瞬間。
五人は息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、街だった。
巨大な煙突が白い蒸気を噴き上げる工場群。
規則正しく整備された道路。
等間隔に並ぶ街灯。
巨大な発電施設。
無数の送電線。
巨大な溶鉱炉。
赤く燃え盛る炎。
何十体ものグールが真っ赤に熱せられた鋼鉄を運び、巨大な魔導クレーンがそれを持ち上げていく。
さらに、その奥。
巨大な格納庫には見たこともない鉄の兵器が並んでいた。
装甲車。
戦車。
翼を持つ巨大な飛行兵器。
そして、無数の試作兵器。
まるで王国の兵器開発局を、そのまま移設したかのようだった。
その光景は、この世界のどの都市とも違っていた。
さらに遠くから金属音が響く。
ガタン……。
ガタン……。
一本の線路の上を、見たこともない黒い車両が走り抜けていく。
「……列車?」
ガイアスが目を見開く。
「魔導列車ではありません。」
キールは穏やかに答えた。
「電車です。」
「黒岩ダンジョンとドワーフの地下工業都市を結ぶ輸送路として運用しております。」
誰一人、言葉が出ない。
工場。
発電所。
鉄道。
都市。
そして、その全てを支えるアンデッド達。
(……あり得ない。)
カノンは呆然と立ち尽くす。
(王国にもない。)
(帝国にもない。)
(こんな文明を、一人の公爵令嬢が築いている……。)
魔王候補。
その異名は間違っていないのかもしれない。
そう思い始めた、その時だった。
「そういえば。」
カノンは初めて自分から口を開いた。
「クロエ様は、どちらに?」
キールは少しだけ笑みを深める。
「本日は休日ですので。」
「街へお出掛けになっております。」
「街?」
五人が同時に聞き返した。
「はい。」
「お気に入りの喫茶店で、パンケーキを召し上がるそうですよ。」
沈黙が流れる。
(……魔王候補が。)
(休日に。)
(街へ出掛け。)
(パンケーキを食べる。)
カノンは思わず額へ手を当てた。
(誰が想像する。)
(そんな魔王を。)
つい先程まで。
軍事国家にも匹敵する要塞を見てきたばかりだ。
その支配者が。
休日は甘い物を食べ歩いている。
理解が追い付かない。
(ますます。)
(分からない人。)
カノンは静かに息を吐く。
クロエ・ハートフィリア。
魔王候補。
いや――。
(本当に恐ろしいのは。)
(この異常な国を作ったことではない。)
(それを”普通の日常”として暮らしていることなのかもしれない。)
彼女の観察は、ここから本当の意味で始まるのだった。




