第83話 止まった世界
第83話 止まった世界
止まった世界。
風は吹かない。
舞い上がった土煙は空中で静止し、砕けた岩石も、黄金の破片も、その場で時を忘れたように浮かんでいた。
巨大なクレーターの中心。
片膝をついたアモンは、血を吐きながら苦笑する。
「……いてぇな。」
胸元から血が滴り落ちる。
黄金の鎧は砕け、黄金の翼も半ば崩れ落ちていた。
だが、その黄金の瞳だけは、未だ鋭い光を失っていない。
ゆっくりと立ち上がる。
そして。
静止した時間の中で、遠くに立つジンを睨み付けた。
「……まだだ。」
黄金の魔力が再び身体から漏れ始める。
「まだ戦いは終わってねぇ。」
その言葉と同時に、一歩踏み出そうとした。
しかし。
「ダメ。」
気の抜けた声が響く。
ふかふかの紫色のクッションへ寝転がったまま、ベルフェゴールが欠伸を一つ漏らした。
「ルシファー様が。」
「その人、殺しちゃダメって。」
アモンは舌打ちする。
「チッ。」
「分かってねぇな。」
黄金の瞳が細められる。
「あいつは危険だ。」
「今ならまだ殺せる。」
「今のうちに始末しねぇと、後で必ず厄介なことになる。」
未来視。
先ほど見た未来。
崩界。
空間そのものを粉砕する一撃。
あの力は、想定を遥かに超えていた。
悪魔ですら死を覚悟した。
あんな人間は見たことがない。
「今なら俺が――」
その瞬間だった。
バキッ。
小さな音が響く。
ベルフェゴールの欠伸が止まる。
「……?」
再び。
バキッ。
バキバキッ。
ジンの周囲。
止まっている空間そのものへ、蜘蛛の巣状の亀裂が走り始めた。
まるで透明なガラスが砕けるように。
止まった世界そのものが悲鳴を上げる。
ベルフェゴールの眠そうな瞳が、ゆっくりと見開かれた。
「……え?」
初めてだった。
時間停止の中で。
動こうとする存在を見るのは。
ジンは静かに立ったまま、僅かに指を動かす。
空間が軋む。
止まった時間が砕け始める。
「確かに……」
ベルフェゴールは小さく呟いた。
「異常。」
数秒。
黙ってジンを見つめる。
そして。
どこか納得したように頷いた。
「でも。」
「それだけ魔王になる資質があるってこと。」
アモンはまだ納得していない。
「だからこそ殺すべきだ。」
「今しか――」
「面倒。」
ベルフェゴールが遮った。
「つべこべ言ってない。」
「帰るよ。」
「ルシファー様を待たせる方が面倒。」
そう言うと。
寝転んだまま右手を軽く振る。
紫色の魔法陣が二人の足元へ広がった。
アモンは最後までジンを睨み続ける。
「……次は殺す。」
黄金の粒子が舞う。
ベルフェゴールも、眠そうに小さく手を振った。
「ばいばい。」
次の瞬間。
二人の姿は紫色の光へ溶け込み、静かに消えていった。
そして。
誰もいなくなる。
数秒後。
パリン――。
何かが割れる音が響いた。
止まっていた時間が動き出す。
風が吹き抜ける。
浮かんでいた岩石が地面へ落下する。
土煙が流れ始める。
崩れかけたクレーターへ静寂が戻った。
ジンは二人が消えた場所を静かに見つめる。
確認すると、小さく息を吐いた。
「ふぅ……。」
肩を軽く回す。
「力を抑えながら戦うのって……。」
苦笑する。
「やっぱり疲れますね。」
先ほどまでの激戦。
空間転移。
空間歪曲。
断空。
崩界。
どれも強力だった。
しかし。
あれでも。
この世界で許される範囲の力しか使えなかった。
異世界。
世界の壁を破壊し、この世界へ侵入した旅人。
ジンという存在は、この世界にとって本来存在してはならない異物だった。
病原菌。
あるいは異常細胞。
世界から見れば、その程度の違いしかない。
だからこそ。
力を使い過ぎれば。
世界そのものが異物を認識してしまう。
世界には意思はない。
だが。
異物を排除する本能だけは存在する。
もし、その浄化作用が発動すれば。
世界そのものが敵となる。
それだけは避けなければならなかった。
夜空の雲が一瞬だけ渦を巻く。
ジンは目を細める。
「……。」
だが。
すぐ元へ戻った。
「……まだ。」
ジンは静かに夜空を見上げる。
「気付かれてはいませんか。」
月だけが静かに輝いている。
誰も答えない。
ジンは黒刀を亜空間へと納めると、静かに歩き出した。
巨大なクレーターだけが残された戦場には、もう誰の姿もなかった。




