第43話 躾
第43話 躾
浴室へ、白い湯気が立ち込めていた。
赤黒い大理石。
豪奢なシャンデリア。
壁へ刻まれた黄金の装飾。
王族専用の浴場らしく、異様なほど広い。
だが。
クロエにとっては、ただの牢獄だった。
「っ……」
濡れた床へ座り込んだクロエは、小さく肩を震わせる。
黒い義手だけが外されていた。
ガチャン、と浴室の隅へ無造作に転がされている。
腕を失った状態は、想像以上に不安定だった。
だが。
義足だけは残されている。
辛うじて身体を支えられる。
それだけが、唯一の救いだった。
(……まだ動ける)
クロエは、静かに息を吐く。
濡れた黒髪が肩へ張り付き、首輪だけが妙に冷たい。
『キキッ♪』
楽しそうな鳴き声。
クッキー君だった。
黒いベスト。
蝶ネクタイ。
執事のような格好をした魔猿は、小さな桶を抱えている。
クロエの黄金色の瞳が細まった。
「来ないで」
低い声。
だが。
クッキー君は全く気にしない。
まるで。
本当に犬の世話でもするような自然な動きで近付いて来る。
『アラウ』
次の瞬間。
バシャ――ッ!!
「ひゃっ!?」
頭から熱い湯を掛けられ、クロエの肩が跳ねた。
クッキー君は、泡立てた布を取り出す。
そして。
当然のようにクロエの髪を洗い始めた。
「や、やめっ……」
黒髪へ指が入り込む。
耳の後ろ。
首筋。
肩。
妙に丁寧だった。
乱暴ではない。
むしろ。
本当に大切なペットを洗っているような手つき。
それが逆に屈辱だった。
「っ……ぅ」
クロエの肩が震える。
首輪が、微かに紫色へ発光した。
ゾワリ――。
脳へ甘いノイズが流れ込む。
『イイコ』
「……っ!!」
クロエの瞳が揺れる。
従順。
服従。
安心。
そんな感覚を、強引に流し込まれる。
(ふざけ……ないで……)
クロエは必死に意識を保つ。
クッキー君は、クロエの身体へ湯を掛ける。
肩。
背中。
腰。
泡を洗い流しながら、満足そうに頷いた。
『キキッ♪』
まるで。
綺麗になった犬を褒めるように。
「……殺す」
クロエが、掠れた声で呟く。
クッキー君は首を傾げた。
『ワルイコ?』
その瞬間だった。
ガシッ――。
「っ!?」
クッキー君の手が、クロエの義足へ伸びた。
次の瞬間。
ガコン――。
「っ……!!」
義足の固定具が外される。
バランスが崩れ、クロエの身体が床へ倒れ込んだ。
「やっ……返しなさい……!!」
だが。
クッキー君は嬉しそうに鳴くだけだった。
そして。
グイッ――。
「っ!?」
クロエの身体が、突然浴槽へ押し込まれた。
バシャァッ!!
「っ――!!?」
視界が、一瞬で水没する。
熱い湯。
泡。
白く濁った視界。
(っ!?)
クロエの瞳が見開かれた。
義手は無い。
義足も外された。
身体を支える腕も。
立ち上がる脚も。
今の自分には存在しない。
身体が沈む。
浮き上がれない。
「――ッ!!」
息が出来ない。
クロエは必死にもがく。
だが。
水面へ顔を出そうとした瞬間。
クッキー君の手が、クロエの頭を押さえ付けた。
ググッ――。
(っ……!!?)
水が口へ入り込む。
肺が焼けるように苦しい。
クロエの身体が激しく痙攣した。
その時。
首輪が、紫色へ発光する。
『ワルイコ』
思念。
頭の中へ、直接声が響く。
『オネガイ ハ?』
「っ……!?」
理解した瞬間。
クロエの背筋へ悪寒が走った。
助けを求めろ。
懇願しろ。
そういう意味だ。
(ふざけ……!!)
クロエは睨み付ける。
だが。
再び水中へ沈められた。
「――ッ!!?」
限界だった。
肺が悲鳴を上げる。
視界が滲む。
意識が遠のき始める。
そして。
クロエの唇が、震えた。
「ま……っ……!」
水を吐きながら。
涙を滲ませながら。
「まいりまひた……!!」
屈辱。
悔しさ。
全部混ざった声。
「た、助け……っ!!」
その瞬間。
グイッ――!!
クロエの身体が、水面へ引き上げられた。
「げほっ!! ごほっ!!」
激しく咳き込む。
肺へ空気が流れ込み、クロエの肩が大きく上下する。
『キキッ♪』
クッキー君は、満足そうに鳴いた。
そして。
床へ転がっていた義手と義足を持ち上げる。
『イイコ』
カチリ。
カチリ。
義足が、再びクロエの身体へ接続された。
「っ……」
魔導神経が繋がる感覚。
ようやく身体を支えられる。
クロエは、震える唇を噛み締めた。
悔しい。
惨めだった。
なのに。
助けを求めた事で、身体を返してもらえた。
まるで。
本当に犬へ褒美を与えるように。
⸻
その後。
クロエは、黒いパーカーとホットパンツへ着替えさせられ、食堂へ連れて行かれていた。
長いテーブル。
赤い絨毯。
黄金の燭台。
豪華な料理が並ぶ、王族用の晩餐室。
だが。
クロエの席だけは違った。
床。
テーブルの横。
そこへ、小さな皿が一枚だけ置かれている。
「……っ」
クロエの黄金色の瞳が揺れる。
しかも。
両腕の義手は外されたままだった。
ガチャン、と黒い義手が少し離れた場所へ無造作に置かれている。
今のクロエには、腕が無い。
食器を持つ事も。
身体を支える事も。
まともに抵抗する事すら難しかった。
『キキッ♪』
クッキー君が、楽しそうに鳴く。
黒いベスト。
蝶ネクタイ。
まるで執事のような格好をした魔猿は、皿の前へしゃがみ込んだ。
そして。
ゆっくり首を傾げる。
『オスワリ』
「っ……」
首輪が、紫色へ発光する。
ゾワリ――。
脳へ直接、命令が流れ込んだ。
次の瞬間。
クロエの身体が、勝手に背筋を伸ばす。
義足が床へ揃えられ。
まるで本当に犬のような姿勢で座らされる。
「ぁっ……!」
止められない。
身体が、命令へ逆らえない。
『イイコ』
クッキー君が満足そうに頷く。
そして。
肉料理の皿を、クロエの前へ少しだけ近付けた。
湯気。
肉の匂い。
クロエの喉が、無意識に鳴る。
空腹が限界だった。
昨日から、まともな食事を与えられていない。
頭がぼんやりする。
身体に力が入らない。
『マワル』
「……っ」
クロエの瞳へ怒りが宿る。
「誰が……」
ズキン――ッ!!
「ぁっ!?」
首輪が発光する。
脳へ激痛が走った。
視界が揺れる。
同時に。
甘い感覚が流れ込んでくる。
従えば楽になる。
従えば食べられる。
そんな感覚を、無理矢理刷り込まれる。
『マワレバ ゴハン』
「っ……ぅ」
クロエは唇を噛み締めた。
(絶対に……)
(こんなの……)
なのに。
空腹には逆らえない。
クロエは、震えながらその場で身体を回した。
義足が床を擦る。
黒髪が揺れる。
その姿を見て。
『キキッ♪』
クッキー君が、嬉しそうに鳴いた。
屈辱だった。
まるで。
本当に犬扱いされている。
クッキー君は、満足そうに皿を床へ置く。
『ヨシ』
「……っ」
クロエは、ゆっくり皿を見る。
悔しい。
惨めだった。
だが。
腕が無い。
義手も取り上げられている。
食べる方法なんて、一つしか無かった。
クロエは、小さく肩を震わせる。
「っ……ぅ……」
視線を逸らしたまま。
ゆっくり顔を皿へ近付ける。
髪が皿へ垂れる。
そして。
クロエは、直接口で肉へ噛み付いた。
「……っ」
温かい肉汁が口へ広がる。
空腹だった身体が、本能的に食事を求める。
悔しいのに。
惨めなのに。
食べるのを止められない。
『キキッ♪』
クッキー君が、満足そうに鳴く。
まるで。
芸を覚えた犬へ餌を与える飼い主のように。
クロエは、唇を震わせながら小さく呟いた。
「……絶対に逃げる」
その黄金色の瞳だけは。
まだ死んでいなかった。




