第32話 もう二度と
第32話 もう二度と
雨が降っていた。
グランヴェイルの夜。
石畳を叩く冷たい雨音だけが、静かに響いている。
その闇の中を。
死者達が進軍していた。
グール歩兵隊。
グール重装兵団。
腐肉を纏いながらも統率された死霊達は、一切声を上げない。
ただ。
命令だけに従って歩く。
ギギ……。
鎧が軋む。
重い軍靴が石畳を鳴らす。
その中央。
黒いドレスを纏ったクロエ・ハートフィリアが、静かに歩いていた。
長い黒髪。
黄金色の瞳。
雨に濡れた横顔は、美しかった。
だが。
その瞳だけは、死人のように冷たい。
⸻
カチ……。
膝関節が、小さく鳴る。
クロエの表情が僅かに強張った。
雨の中。
義足が静かに駆動している。
人工皮膚で覆われた脚は、一見しただけでは本物の脚と変わらない。
だが。
膝の接続部だけ。
僅かに不自然だった。
その感触が。
その音が。
クロエへ嫌でも思い出させる。
⸻
地下工房。
紫色の灯り。
糸。
拘束。
そして。
鋭い刃。
⸻
「――ッ」
クロエは反射的に自分の腕を抱いた。
呼吸が乱れる。
今でも思い出す。
あの時の感覚を。
痛み。
恐怖。
身体が切り離されていく感覚。
そして。
狂ったような快楽。
「……っ」
吐き気がした。
ジェラは薬を打った。
痛みが快感へ変わる薬。
手足を切断される度に。
身体が痙攣するほどの快感が脳を焼いた。
嫌だった。
怖かった。
叫びたかった。
なのに。
身体は勝手に反応した。
「……ふざけないで」
クロエは唇を噛む。
血の味が広がった。
忘れられない。
あの狂気を。
そして。
恐怖に負けた自分を。
⸻
前世では、こんな失敗はしなかった。
絶対に。
魔女狩りに追われ続けた日々。
いつ殺されるか分からない世界。
だから。
一瞬たりとも油断しなかった。
誰も信用しなかった。
緊張を解かなかった。
だが。
今世は違った。
魔女狩りのいない世界。
公爵令嬢。
闇属性の強大な魔力。
魔女の力。
仲間。
居場所。
いつの間にか。
自分は平和ボケしていた。
「……私のせいよ」
クロエは呟く。
全部。
自分が弱かったからだ。
ジェラに捕まった。
壊された。
そして。
恐怖に負けた。
人形になることを、受け入れてしまった。
「許さない……」
黄金色の瞳へ、ドス黒い感情が宿る。
「絶対に……」
⸻
「クロエ」
ユナの声。
クロエは振り返る。
銀髪のウェアウルフ少女は、少し不安そうな顔をしていた。
「……無理するニャ」
「してないわ」
「嘘ニャ」
ユナは鼻を鳴らした。
「さっきから顔色悪いニャ」
クロエは黙る。
すると。
ユナはゆっくり近付いてきた。
そして。
クロエの義手へ触れる。
ビクッとクロエの身体が震えた。
「……ッ」
反射だった。
クロエ自身、自分で驚く。
ユナは一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「……まだ怖いニャ?」
「怖くないわ」
「強がるニャ」
優しい声だった。
クロエは視線を逸らす。
怖い。
今でも。
糸を見るだけで身体が強張る。
拘束される瞬間が瞳に焼き付いている。
義足の駆動音を聞く度に、地下工房を思い出す。
矯正という名の快楽と屈辱の拷問がフラッシュバックする。
そして。
一番許せないのは。
快感を感じてしまった自分だった。
「……汚れてる」
クロエは小さく呟いた。
「ニャ?」
「私……壊されたの」
声が震える。
「もう、元には戻れない」
ユナは黙っていた。
数秒。
静寂。
雨音だけが響く。
やがて。
ユナはクロエの額へ、自分の額を軽く当てた。
「クロエはクロエニャ」
「……」
「壊れてなんかないニャ」
真っ直ぐな瞳だった。
クロエは、その言葉に胸が痛くなる。
優しい。
優しすぎる。
だからこそ。
余計に、自分が許せなかった。
⸻
その時だった。
ジャックが静かに跪く。
「報告」
仮面の奥から低い声。
「東区マフィア拠点、制圧完了」
「抵抗勢力は?」
「殲滅済み」
クロエの瞳から感情が消える。
静かに。
冷たく。
死霊術師の顔へ戻った。
「次」
「南区地下闘技場を制圧します」
背後で。
グール重装兵団が一斉に立ち上がる。
巨大な機関銃。
黒鉄の鎧。
死肉を纏う怪物達。
圧迫感だけで空気が震えた。
ユナが呟く。
「……本当に軍隊ニャ」
クロエは静かに前を向く。
雨が降る。
紫色の魔力が夜へ滲む。
その姿は。
もはや公爵令嬢ではなかった。
死者を率いる魔女。
復讐者。
そして。
闇の女王だった。
「――もう二度と」
クロエは呟く。
義手が軋む。
黄金色の瞳へ、冷たい光が宿る。
「誰にも、奪わせない」




