第29話 紫灯の地下工房
第29話 紫灯の地下工房
雨は、まだ降っていた。
グランヴェイルの地下。
旧排水路。
腐った水の臭いと、湿った石壁。
天井から滴る雫が、静かな水音を響かせている。
ユナは暗闇の中を走っていた。
銀髪は雨で濡れ、耳は鋭く立っている。
鼻を利かせる。
そして。
「……いるニャ」
微かに。
クロエの匂いを感じた。
だが。
その匂いに混ざっているものがある。
香水。
防腐剤。
古い木材。
血。
そして――糸。
生理的嫌悪感を催す、気味の悪い魔力の臭いだった。
「気持ち悪いニャ……」
ユナは顔を顰める。
地下水路の奥。
そこだけ、空気が違った。
やがて。
紫色の灯りが見えてくる。
鉄扉。
古びた装飾。
そして、扉の表面には糸を模した紋章が刻まれていた。
ユナは爪を立てる。
「待ってるニャ、クロエ」
そして。
扉を蹴破った。
轟音。
鉄扉が吹き飛ぶ。
⸻
地下工房は、異様だった。
広い。
あまりにも広い。
地下とは思えない空間。
紫色の魔石灯が、薄暗く室内を照らしている。
壁一面のガラスケース。
並ぶドレス。
香水瓶。
機械人形。
壊れた義肢。
そして。
糸で吊られた“人形達”。
「……ッ」
ユナの耳が震えた。
女達だった。
美しく着飾られた少女達。
ドレス姿。
踊り子衣装。
メイド服。
皆、糸で吊られている。
笑顔。
だが。
目だけが死んでいた。
「なんニャ……ここ……」
寒気が走る。
生きている。
なのに、人形みたいだった。
その時。
音楽が流れ始めた。
静かなオルゴールの旋律。
そして。
広間の奥で、シャンデリアが灯る。
紫色の光。
舞台。
そこに、一人の少女が立っていた。
「……クロエ?」
ユナが息を呑む。
黒髪。
黄金色の瞳。
黒と紫のゴシックドール衣装。
レース。
コルセット。
猫耳。
ガーターベルト。
まるで人形だった。
そして。
クロエは、笑っていた。
優雅に。
美しく。
音楽に合わせ、舞うように踊っている。
見えない糸に吊られながら。
「クロエ……!」
ユナが駆け寄ろうとする。
その瞬間。
クロエの身体が、ピタリと止まった。
黄金色の瞳が、ユナを見た。
一瞬だけ。
表情が崩れる。
「ユ――」
だが。
ギチリ。
糸が食い込む。
クロエの口元が、無理矢理笑顔へ吊り上げられた。
「……逃げ、なさいッ!!」
叫ぶ。
同時に。
糸が全身へ食い込んだ。
血。
レースの隙間から赤い線が滲む。
「クロエ!?」
ユナが目を見開く。
クロエは必死に身体を動かそうとしていた。
だが。
動かない。
腕が。
脚が。
まるで壊れた人形のように揺れている。
その時だった。
パチ、パチ、パチ。
拍手。
広間の奥から、ジェラが現れた。
黒いスーツ。
病的に白い肌。
細い指。
そして。
幾重にも伸びる紫色の糸。
「おや」
ジェラは穏やかに笑った。
「見つかってしまいましたか」
「ジェラァァァ!!」
ユナの全身へ雷が走る。
だが。
ジェラは、むしろ興味深そうに目を細めた。
「ウェアウルフ」
「躍動感があって美しいですね」
「……殺すニャ」
「怖い怖い」
ジェラは肩を竦める。
「ですが、大声は困ります」
指が動く。
次の瞬間。
クロエの身体が、糸で吊り上げられた。
「っ……!」
ユナが凍り付く。
そこで。
初めて気付いた。
クロエの異常に。
「……え?」
クロエの腕。
脚。
そこには。
球体関節のような継ぎ目があった。
白い肌。
だが。
接合部だけ、不自然に分断されている。
そして。
糸が、その継ぎ目へ繋がっていた。
クロエの右腕が、ぶらりと垂れ下がる。
まるで、糸で繋がれた人形だった。
「な……ん、で……」
ユナの声が震える。
ジェラは微笑んだ。
「加工しました」
あまりにも穏やかな声。
「人形は、自由に動いてはいけませんから」
「ッ……!」
ユナの瞳が見開かれる。
クロエは唇を噛み締めた。
屈辱。
怒り。
羞恥。
その全てが黄金色の瞳で燃えている。
「見るなッ!!」
クロエが叫ぶ。
「ユナ、逃げなさい!!」
「でも――!」
「来るなッ!!」
クロエの脚が外れかける。
ガクン、と身体が傾いた。
糸が無ければ、立つことすら出来ない。
ユナの顔から血の気が引いた。
「クロエ……」
「安心してください」
ジェラが優しく言う。
「四肢は本人の物です」
「より美しく加工してあります」
「黙れぇぇぇぇッ!!」
ユナが雷を放つ。
青白い電撃が走る。
だが。
糸が動く。
クロエの身体が、ユナの前へ引き寄せられた。
「ッ!?」
雷が止まる。
撃てない。
クロエを巻き込む。
ジェラは笑った。
「優しいですね」
「やめろニャ……!」
「本当に美しい」
ジェラの指が動く。
クロエの身体が、勝手に踊り始めた。
笑顔。
回転。
優雅な動き。
だが。
黄金色の瞳だけが、涙で滲んでいた。
「やめ……ッ」
クロエは抵抗する。
ギチギチ、と糸が軋む。
血が滲む。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
クロエの笑顔が崩れた。
「ユナ……逃げ……」
掠れた声。
無理矢理吊り上げられていた口元が、一瞬だけ震える。
「……おや」
紫色の瞳が細まる。
「今、抵抗しましたね?」
ジェラの口元から、笑みが消える。
細い指が、ゆっくりと動いた。
ギチリ。
糸が、クロエの四肢を締め上げる。
「ぁ……ッ!!」
クロエの身体が痙攣する。
無理矢理、再び笑顔へ固定される。
ジェラは、その様子を静かに見つめた。
「……また、後で矯正が必要ですね」
その言葉を聞いた瞬間。
クロエの身体が、ビクッと震えた。
黄金色の瞳に、はっきりと恐怖が浮かぶ。
「……ッ」
唇が震える。
先程まで怒りを滲ませていたクロエが、一瞬だけ息を呑んだ。
ジェラは、その反応を見て満足そうに目を細める。
空気が変わる。
ユナは、本能的恐怖を感じた。
ジェラの周囲で、無数の糸が浮かび上がる。
さらに。
ガラスケースの中。
動かなかった“人形達”が、ゆっくりと顔を上げた。
ギチ。
ギチギチ。
関節が軋む。
死人のような瞳。
糸に吊られた女達が、一斉に立ち上がる。
ユナが息を呑んだ。
「……なんニャ、これ……」
ジェラは、優雅に一礼した。
「さあ」
指が動く。
無数の糸が、空中で絡み合う。
「私のコレクションを、壊せますか?」




