第五話
卒業後は家を出て、研究職に就くことを目標としている私にとって、学園の薬草園は第二の自室と言っても過言ではなかった。
あの頃は暇さえあれば薬草園に通い、併設された研究室を見学していた記憶がある。
ちょうどその日は、屋外で薬草の観察をしていたところだった。
「ウェストコット様?」
振り向くと、目を丸くした彼女が立っていた。
「君か」
私はそれしか言えなかった。
◇
「──それでウェストコット様は、よく薬草園にいらっしゃるんですね」
私と彼女は成り行きで少し会話をすることになった。まあ、面白みのある話題など私は何一つ持ち合わせていなかったが。
「ああ、いずれ家を出る身だからな。アンソンで構わない」
「……では、お友だちだけの場ではアンソン様と」
そう言って彼女は微笑んだ。
なんとなく居心地の悪さを感じた私は、話題を変えようとした。
「それにしても、君はすごいな」
唐突な私の言葉にきょとんとした彼女の顔は、普段の大人びた表情とは違っていて、とても印象深いものだった。
「勉学は然ることながら、礼法もすぐに上達しただろ?」
「ありがとうございます。ですが、学園の皆様にはまだまだ及びません」
「いや、貴族の子女という立場には必要なことだからな。前提条件が異なる。一方で君は、市井での暮らしに必要な能力を身に付けたうえで、さらに特待生という立場を自身の能力で得ている」
彼女は小さく微笑んだ。
「アンソン様は、あまり平民に偏見がないのですね」
「将来的には私も平民になる。ひと昔前ならともかく、今は能力や適性を見る風潮もあるだろ。身分が不要だとは思わないが、私が家のスペアではなく研究の道に進むことを認められたのもその風潮のおかげだ。否定する理由がない」
「ふふ。学友として、これからもよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
得意とは言えない会話を問題なく終えられたことに安心した私は、そこで彼女と別れ再び薬草の観察に没頭した。
この日の記録はいくつか書き忘れがあって、あまり役には立たなかった。
◇
ある日、私は薬草園への近道である人気のない校舎裏を、早足で進んでいた。
「身の程をわきまえなさいっ!」
女性の甲高い声がした方向を見ると、彼女が高位貴族の令嬢とその取り巻きと思われる集団に囲まれているのが目に入った。
「平民の分際で殿下やご学友の皆様に擦り寄るなんて……しょせんは恥を知らない下民ということね」
彼女は困ったように眉を下げていた。
このまま令嬢たちに誤解されたままというのも不便だろうと思い、私はクラスメイトとして説明を試みることにしたのだ。
「その件ですが、殿下方は特待生制度の状況を確認していたのです。今はキャリントン伯爵令嬢が彼女の世話役になりましたのでご安心ください」
令嬢たちの目が一斉にこちらを向いた。
その中の一人が私に問いかけた。
「あなた……礼儀というものをご存じないの?」
「失礼、会話が聞こえてしまったもので。ウェストコット家のアンソンと申します」
令嬢たちは私を上から下まで観察していたように思う。
「そう。あなたもこの女狐に誑かされているのね」
誑かされるとはどういう意味だろうか。疑問に思った私は、思わず隣の彼女を見つめてしまった。
「君とは卒業後の進路の話くらいしかしたことがないと思うのだが……」
私はそのまま令嬢たちに向き直った。
「進路の話をすることは誑かされたことになるのでしょうか?」
正面にいた令嬢が片眉を吊り上げた。
「まあ、なんてはしたない。学生の身でありながら、すでに愛人として迎えるご相談までされているのね」
私は困惑した。
「……愛人、というのは進路になるのか? そもそも愛人とは誰が誰と?」
その「愛人」という言葉がいったいどこから出てきたのか、当時の私には理解できなかったのだ。
場が静まり返った。
「もう結構よ」
それまで一番後ろで成り行きを見ていた令嬢の一言で、集団は去っていった。その背をしばらく見送った後、彼女がおずおずと口を開いた。
「……アンソン様。もしかして薬草園に向かう途中だったのではありませんか?」
「ああ。では、失礼する」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、構わない」
◇
教室に戻る廊下を歩く私の背後から、忙しない足音が聞こえた。随分と慌ただしいものだと他人事のように考えていた。
「ウェストコット様っ!!」
振り返った先にいたのはキャリントン伯爵令嬢だった。
「あなた、ソーレさんのことであの侯爵令嬢に何を言ったんですの!?」
あの侯爵令嬢? 私のようなただの伯爵家の次男が、それほど身分の高い令嬢と接点などそうそうあるわけがない。
直近の記憶をたどるとその条件に当てはまるのは、校舎裏で見かけた例の集団だろうと思い至った。
「それなら、彼女のことは君が世話しているから問題ないと伝えた」
「絶対それだけじゃないでしょう!? 随分と詰められたのよ!? わたくしが!!」
「いや? 他は特に。『愛人』だとか、よくわからないことを令嬢らが言っていただけだが」
「あなたね……」
キャリントン伯爵令嬢は額を押さえてガクリとうなだれた。私はのんきなことに、伯爵令嬢の口調が崩れたことを「これが仲を深めるということなのだろうか」などと考えていた。
顔を上げた伯爵令嬢が顔をしかめたままこう言っていた。
「……あなたには、研究職がお似合いね」
「ああ、ありがとう」
キャリントン家のような力のある家の令嬢に、研究の道を認めてもらえたことを嬉しく思った。
まあ、その時の伯爵令嬢は、私の返答に苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだが。




