第九章 遅すぎた後悔
舞踏会の夜から数日が経った、静かな午後のことだった。
侯爵邸の書斎で、私は父と共に領地の収支報告書を確認していた。
近頃では、この作業もすっかり板についてきている。
数字の羅列を追いながら、次の四半期の予算配分について父と意見を交わしていたその時、屋敷の外が何やら騒がしくなった。
「お嬢様、大変です」
慌てた様子でミレイユが書斎に飛び込んでくる。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「アルヴィン殿下が……アルヴィン殿下が、玄関にいらしています」
その名前を聞いた瞬間、父の表情がすっと険しくなった。
「何の用だ」
父が低い声でそう問うと、ミレイユは困惑した様子で首を振った。
「分かりません……ただ、エレシア様にお会いしたいと」
一瞬、迷いが生まれた。
婚約破棄されたあの日以来、彼と顔を合わせるのは、舞踏会で遠目に見かけた以外では初めてのことだ。
けれど今の私には、以前のような動揺はなかった。
「お会いします」
静かにそう告げると、父は少し心配そうな表情を見せたが、それ以上は何も言わなかった。
応接間に通されたアルヴィン様は、以前よりもやつれた様子だった。
かつては自信に満ち溢れていたその表情に、今は隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「エレシア……久しぶりだな」
その声は、以前の傲慢さが影を潜め、どこか弱々しく感じられた。
「ご無沙汰しております、殿下」
丁寧に、けれど適切な距離を保ちながら挨拶を返す。
以前のように、緊張で声が震えることはなかった。
「今日は、どのようなご用件でしょうか」
単刀直入に尋ねると、アルヴィン様は少し言いにくそうに視線を彷徨わせた。
「実は……相談したいことがあってな」
「相談、ですか」
「王宮の政務が、思うように回らなくてな」
「税制の見直しや、外交文書の整理について、お前の意見を聞きたいのだ」
その言葉に、私は静かに息を吸った。
かつては、こうして頼られることが何よりの喜びだった。
けれど今、その言葉を聞いても、心が動くことはなかった。
「殿下」
私は落ち着いた声で切り出した。
「今はもう、それは私の仕事ではありません」
その一言に、アルヴィン様の表情が明らかに強張った。
「そんなことを言わずに……」
「お前ほど、あの仕事に精通している者はいないのだ」
「フィオナも、政務のことは何も分からず……」
言葉を続けようとするアルヴィン様を、私は静かに制した。
「殿下がお選びになった方が、政務を担うべきです」
「私は、殿下の婚約者ではございません」
きっぱりとそう告げると、アルヴィン様は言葉を失ったように黙り込んだ。
しばしの沈黙の後、アルヴィン様は縋るような目でこちらを見た。
「エレシア、私は……」
「あの時の判断が、間違っていたのかもしれない」
その言葉に、私は静かに彼を見つめ返した。
以前であれば、この一言だけで胸が締め付けられていただろう。
けれど今の私は、驚くほど冷静にその言葉を受け止めていた。
「殿下」
私は静かに口を開いた。
「あの日のことを、私は恨んではおりません」
その言葉に、アルヴィン様は驚いたように顔を上げた。
「あの経験があったからこそ、今の私があります」
「自分の力で立つことの意味を、初めて知ることができました」
淡々と語る私の姿に、アルヴィン様はどこか呆然とした様子だった。
「お前は……変わったな」
「はい」
「変わりました」
私はまっすぐに彼を見据えた。
「そして、その変化を、私自身が誇りに思っております」
アルヴィン様は、しばらく何も言わずにただ俯いていた。
その姿には、かつての第一王子としての威厳は見る影もなかった。
「王宮では……お前がいなくなってから、多くのことがうまくいかなくなった」
ぽつりと、そう漏らす。
「財務の帳簿は乱れ、外交でも失態を重ね、貴族たちの信頼も失いつつある」
「私は、一体何を失ったのか、今になってようやく分かり始めている」
その告白には、確かな後悔の色が滲んでいた。
けれど、それを聞いても、私の心は静かなままだった。
同情はある。
けれど、それ以上の感情は湧いてこない。
「殿下」
私は静かに立ち上がった。
「私は、殿下の後悔を癒すためにここにいるわけではございません」
「殿下が失ったものは、殿下ご自身で向き合い、取り戻していくべきことかと存じます」
その言葉は、以前の私であれば、決して口にできなかっただろう。
けれど今は、自然とその言葉が口から出てきた。
「今の私には、私自身の生きる道があります」
「殿下のお力になることは、もうできません」
はっきりとそう告げると、アルヴィン様はがっくりと肩を落とした。
「そうか……」
「そうだな……お前の言う通りだ」
力なくそう呟く彼の姿に、私は静かな哀れみを覚えた。
けれど、それは以前のような、彼を支えたいという感情とは違う。
かつての大切な人が、自ら選んだ道の結果と向き合っている。
そんな、少し離れた場所からの感情だった。
「今日は、突然の訪問をすまなかった」
アルヴィン様は立ち上がり、静かに頭を下げた。
その仕草に、以前の傲慢さはなかった。
「殿下」
私は最後に、一つだけ言葉をかけることにした。
「これからの殿下が、良き選択をされることを願っております」
その言葉に、アルヴィン様は複雑な表情を浮かべながら、小さく頷いた。
「ありがとう……エレシア」
そう言い残し、彼は静かに屋敷を後にした。
彼の後ろ姿を見送りながら、私は自分の中に生まれた変化を、改めて実感していた。
かつて、あれほど求めていた彼からの言葉。
「エレシアがいなければ困る」という、その一言。
それを実際に聞いても、もう心が揺れることはなかった。
「お嬢様、大丈夫でしたか」
心配そうに顔を覗かせたミレイユに、私は静かに微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ」
自分でも驚くほど、穏やかな気持ちだった。
「私、もう昔の私ではないのね」
そう呟くと、ミレイユは嬉しそうに頷いた。
「はい、お嬢様は本当に強くなられました」
その言葉に、私は静かに頷き返した。
夕暮れの窓辺に立ち、私は今日の出来事を振り返っていた。
かつて自分のすべてを捧げていた相手が、今は縋るようにこちらを頼ってくる。
その事実に、優越感を覚えることはなかった。
ただ、時の流れというものの残酷さと、同時にその中で人が変わっていく力強さを、静かに実感していた。
窓の外には、茜色に染まる空が広がっている。
アルヴィン様は、これからどんな選択をしていくのだろうか。
そして、私自身は、これからどんな道を歩んでいくのだろうか。
答えはまだ、はっきりとは見えない。
けれど、以前のような不安はもうなかった。
自分の足で、自分の意思で、これからの道を選んでいける。
そんな確かな自信が、今の私の中には根付いていた。
窓辺に差し込む夕日を浴びながら、私は静かに、けれど確かな決意を胸に抱いていた。




