第八章 初めての反論
季節はすっかり秋も深まり、王都では年に一度の収穫祭にちなんだ舞踏会が開かれることになった。
例年であれば、私が参加することはなかっただろう。
けれど今回は、隣国の使節団への礼儀として、婚約破棄後も社交界との関わりを絶っていない貴族家には招待状が届いていた。
「お嬢様、本当に行かれるのですか」
支度をしながら、ミレイユが心配そうに尋ねてくる。
「あの舞踏会以来、こういう場に出るのは初めてですものね」
その言葉に、私は一瞬手を止めた。
確かに、あの卒業記念舞踏会以来、大きな社交の場に足を運ぶのは初めてのことだった。
「大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように、そう答える。
「もう、あの頃の私ではないもの」
鏡に映る自分を見つめながら、私は静かにそう呟いた。
淡い紫色のドレスに身を包んだ自分の姿は、以前とはどこか違って見える。
背筋を伸ばし、顔を上げる。
その姿勢そのものが、この数ヶ月で私が積み重ねてきたものの証だった。
会場に足を踏み入れると、以前と同じようにシャンデリアの輝きが目に飛び込んできた。
けれど、あの日感じた不安とは違い、今の私の胸には静かな落ち着きがあった。
「エレシア様、お久しぶりです」
「お元気そうで何よりですわ」
何人かの貴族たちが、親しげに声をかけてくれる。
以前とは違う温かさを感じながら、私は丁寧に挨拶を返していった。
「エレシア嬢」
聞き覚えのある声に振り返ると、レオンハルト様がこちらに歩み寄ってくるところだった。
隣国の使節として招かれている彼と、こうして同じ会場で顔を合わせるのは初めてのことだ。
「今夜は、一段と綺麗だ」
その言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
「ありがとうございます」
穏やかな会話を交わしながら、私は少しずつ会場の雰囲気に馴染んでいった。
けれど、その平穏は長くは続かなかった。
会場の中央付近で、ひときわ華やかな声が響く。
「あら、エレシア様ではありませんか」
振り返ると、そこにはフィオナ様が立っていた。
以前と変わらぬ愛らしい笑顔を浮かべているが、その目の奥には隠しきれない棘があった。
「お久しぶりですわね」
「相変わらず、地味な装いでいらっしゃること」
その言葉だけでも十分に侮辱的だったが、フィオナ様はそこで止まらなかった。
彼女は扇子で口元を隠し、周囲に聞こえるようにはっきりと続けた。
「でも、まあ、仕方ありませんわね」
「あの夜のことを思えば」
会場の空気が、ぴくりと凍りつく。
「あの卒業記念舞踏会。アルヴィン様に婚約破棄を言い渡された瞬間に、膝から崩れ落ちて……」
フィオナ様は楽しげに、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あれほど立派なドレスを、公衆の面前であんなにみっともなく汚してしまったのですもの」
「ああ、思い出すだけで顔が赤くなりますわ。聖女の私でさえ、あんなに情けない光景は初めて見ましたもの」
周囲から、抑えきれない小さな失笑と息を呑む音が漏れる。
「やっぱり本当だったの……」
「あの時、漏らしたって噂、事実だったのね」
そんな囁きが、波のように広がっていく。
フィオナ様はさらに追い打ちをかけるように、甘く残酷な声で言った。
「あれからどれだけ経ちましたかしら。今でもたまに、人々は『あの夜のエレシア様』の話をしますのよ」
「完璧な淑女を装っていた令嬢が、たった一言で身体の制御すら失って床を汚す……」
「あれほどの羞恥を晒したあとで、よくもまあこうしてまた社交の場に出てこられましたわね」
「よほど厚顔無恥なのか、それとも……まだあの時の衝撃を引きずって、どこかでまた同じことをしてしまいそうで怖いのかしら?」
彼女はくすりと笑い、私のドレスの裾をわざわざ視線でなぞった。
まるで、また同じことが起きるのを期待しているかのように。
以前の私であれば、ここで俯き、耳まで真っ赤にして、何も言い返せなかっただろう。
あの夜の記憶が蘇り、脚が震え、逃げ出したくなったかもしれない。
会場中の視線が、再びあの惨めな自分を見ている気がして、息が詰まったかもしれない。
けれど――今の私は、違った。
私は静かに息を吸い、フィオナ様の目をまっすぐに見返した。
顔を赤くすることも、視線を逸らすことも、しなかった。
「フィオナ様」
私の声は、意外なほど落ち着いて、会場に澄んで響いた。
「よく覚えていてくださって、ありがとうございます」
「確かに、あの夜の私は、衝撃のあまり身体の制御を失い、多くの方々の前で醜態を晒しました」
周囲がどよめく。 自分から過去の恥を認めたことに、誰もが驚いているようだった。 フィオナ様の表情に、一瞬「やった」という色が浮かぶ。
私は構わず、はっきりと続けた。
「あの時の私は、十八年間積み重ねてきたものを、一瞬で否定され、心が完全に折れました」
「その結果として、あれほど恥ずべき姿を晒したことも、事実です」
「否定などいたしません」
フィオナ様が勝ち誇ったように口を開きかけたところで、私は静かに、しかし力強く言葉を重ねた。
「けれど、フィオナ様」
私は一歩も退かず、彼女を見据えた。
「あの惨めな夜があったからこそ、今の私があります」
「人は誰しも、一度は大きく崩れ落ちることがある。大切なのは、その後にどう立ち上がるかです」
「私はあの夜、全てを失ったように思いました。けれど実際には、偽りの自分を捨て、本当の自分を取り戻すきっかけを得たのです」
会場が、しん、と静まり返る。 誰もが、私の言葉に耳を澄ませている。
「今の私は、領地の帳簿をつけ、収穫の計算をし、孤児院の子どもたちの生活を支えています」
「それは華やかな王妃の座ではありません。地味で、泥臭く、誰にも褒められない日々かもしれません」
「ですが、私は自分の意思で、誇りを持ってその道を歩んでいます」
「あの夜のように、誰かに与えられた立場にしがみついて、心を押し殺すことは、もう二度としません」
フィオナ様の顔から、余裕の色が消えていくのが分かった。
私はさらに、静かに、しかし決して譲らない声で言った。
「それに――」
「過去の恥を、こうして公の場でわざわざ掘り返し、笑い者にする行為こそが、真に『みっともない』のではないでしょうか」
「人の最も弱い瞬間を何度も晒して優越感を得ようとするその姿は、聖女として、また次代の王妃候補として、果たしてふさわしいものなのでしょうか」
会場に、明確などよめきが広がる。
「言われてみれば……」
「エレシア様の言う通りだわ」
「過去の失敗をこんなに執拗に……」
そんな声が、あちこちから聞こえてきた。
フィオナ様は明らかに動揺し、扇子を強く握りしめていた。
「な、何を……私はただ、事実を……」
「事実であれば、なおさらです」
私は穏やかに、しかしはっきりと言い切った。
「私はあの夜の自分を、もう恥じません。あれがあったからこそ、今こうして自分の足で立っていられるのですから」
「フィオナ様がどれだけあの夜の私を笑おうと、今の私はもう、その言葉では揺らぎません」
はっきりとした声でそう告げると、周囲から明らかに賛同のざわめきが起こった。
「エレシア様、素晴らしいお言葉ですわ」
近くにいた年配の貴婦人が、感心したように呟く声が聞こえた。
「そうそう、地に足のついた仕事こそ、真に尊いものですもの」
「過去を乗り越えた強さを、ああまで堂々と言える人は少ないわ」
その言葉に、いくつかの賛同の声が続く。 フィオナ様の顔は青ざめ、余裕の色は完全に消えていた。
「そ、そんなつもりでは……ただ心配して……」
しどろもどろになるフィオナ様を見ながら、私は静かに一礼した。
「お言葉、確かに承りました」
「私の過去を、これほどまでに気にかけてくださり、感謝いたします」
「では、失礼いたします」
そう言い残し、私はその場を後にした。
背中に何かを言いたげなフィオナ様の視線と、会場中のさまざまな感情を含んだ視線を感じたが、もう振り返ることはなかった。
脚は少しも震えていなかった。
あの夜のように、身体が制御を失うことも、もちろんなかった。
会場の隅まで歩いてくると、そこにはレオンハルト様が静かに佇んでいた。 一部始終を見ていたのだろう、その表情には隠しきれない喜びと、深い敬意の色が浮かんでいた。
「見事だった」
短くそう言うと、彼は微笑んだ。
その笑みには、これまで見たことのない、深い感動のようなものが込められている気がした。
「以前の私なら、きっと何も言い返せなかったと思います」
「あの話題を出された瞬間に、顔を上げることすらできなかったでしょう」
自分でも少し驚きながら、そう漏らす。
「けれど今日は、不思議と怖くありませんでした」
「むしろ、はっきりと伝えたかったのです。私はもう、あの夜の私ではないと」
「それが、君の成長だ」
レオンハルト様の声には、確かな温かさがあった。
「あの日、庭で泣いていた君と、今の君は、まるで別人のようだ」
「いや、別人ではないな」
「本来の君が、ようやく姿を現し始めたということだろう」
その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「レオンハルト様のおかげです」
「あなたが背中を押してくださらなければ、今日のようなことは、きっとできませんでした」
素直な気持ちを伝えると、レオンハルト様は静かに首を振った。
「私は、何もしていない」
「君の中に、元々あったものを、少し照らしただけだ」
その謙虚な言葉に、私はますます彼への想いを強くしていく。
離れた場所で、フィオナ様がアルヴィン様に何かを訴えている姿が目に入った。
けれど、アルヴィン様の表情は複雑そうで、彼女に完全に同調している様子はなかった。
以前であれば気になっていたその光景も、今の私にとっては、もう遠い出来事のように感じられた。
「今夜は、少し外の空気を吸いに行かないか」
レオンハルト様の提案に、私は素直に頷いた。
バルコニーに出ると、冷たい夜風が心地よく頬を撫でる。
夜空には、星々が静かに瞬いていた。
「今日の君は、本当に美しかった」
星空を背景に、レオンハルト様がそう呟く。
「ドレス姿が、という意味ではない」
「自分の言葉で、自分の想いを語る君の姿が、だ」
「過去の傷を武器に変え、相手の侮辱を静かに、しかし確実に跳ね返すその姿が」
その言葉に、私は頬を染めながら小さく微笑んだ。
「これからも、そうありたいと思います」
「誰かに言われるがままではなく、自分の意思で歩んでいきたいです」
その決意を口にすると、レオンハルト様は静かに私の手を取った。
「その道を、隣で見守らせてほしい」
その言葉と、手のひらから伝わる温もりに、私の胸は静かに高鳴った。
夜空の下、二人だけの静かな時間が流れていく。
この夜のことを、私はきっと一生忘れないだろう。
そんな予感を抱きながら、私は星空を見上げ続けた。




