第十章 新しい未来
アルヴィン様が訪ねてきた日から、一週間が過ぎた。
あの日を境に、私の中では一つの区切りがついたように感じている。
かつての自分を縛っていた過去との対話が終わり、今はただ前を向いて歩いていける。
そんな確かな感覚があった。
そんなある日、レオンハルト様から一通の手紙が届いた。
『大切な話がある』
『できれば、二人きりで会いたい』
普段よりも改まった文面に、私は少し緊張しながら返事をしたためた。
指定された場所は、王都の外れにある静かな湖畔だった。
秋の終わりを迎えたその場所は、色づいた木々が湖面に映り込み、幻想的な光景を作り出していた。
馬車を降りると、既にレオンハルト様が湖畔に立って待っていた。
「よく来てくれた」
いつもより硬い表情で、彼はそう迎えてくれた。
「素敵な場所ですね」
辺りを見渡しながらそう言うと、レオンハルト様は静かに頷いた。
「この国で、私が最も心を落ち着けられる場所だ」
「君に見せたいと、ずっと思っていた」
湖畔に設けられた小さなベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。
水面を渡る風が、心地よく頬を撫でていく。
しばらくの沈黙の後、レオンハルト様がゆっくりと口を開いた。
「エレシア嬢」
いつもとは違う、真剣な声色だった。
「十年前、庭で泣いていた君を見て以来、私はずっと君のことを想い続けてきた」
その告白に、私は思わず息を呑んだ。
「あの日から、君の存在は私の中でずっと特別なものだった」
「けれど、婚約している君に、その想いを伝えることはできなかった」
レオンハルト様は、まっすぐに私の目を見つめた。
「今、君は自由の身だ」
「そして私は、もう自分の気持ちを隠しておくつもりはない」
その言葉に、私の心臓は大きく高鳴り始めた。
「エレシア嬢」
彼は静かに片膝をつき、私の手を取った。
「君に、私の妻になってほしい」
「アークレイン王国の王妃として、共に歩んでほしい」
その言葉は、湖畔の静けさの中に、はっきりと響いた。
私はしばらく、言葉を発することができなかった。
胸の奥で、様々な感情が渦を巻いている。
嬉しさ。
戸惑い。
そして、少しの不安。
「レオンハルト様……」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
「私は……」
言葉が続かない。
かつて、王妃になるという役目に縛られ、それを失って初めて自分自身を見つめ直した日々。
もう一度、誰かの隣に立つという選択をすることに、まだ迷いがあった。
「すぐに、答えを聞かせてほしいわけではない」
私の様子を察したのか、レオンハルト様は静かにそう言った。
「君が、心から納得できる答えを出すまで、私はいくらでも待つ」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ、これだけは伝えておきたい」
彼は真摯な眼差しで、こう続けた。
「私は、君に王妃としての役割を求めているのではない」
「君自身と、共に生きていきたいと願っている」
その言葉が、深く胸に染み渡っていく。
かつて求められていたのは、王妃という「役割」だった。
けれど今、目の前の人は、私自身を望んでくれている。
その違いが、どれほど大きな意味を持つか、私は改めて実感していた。
「少し、考える時間をいただけますか」
私がそう言うと、レオンハルト様は静かに頷いた。
「もちろんだ」
「君の答えを、心から待っている」
その日は、それ以上何も語らず、私たちはただ静かに湖畔の景色を眺めていた。
不思議と気まずさはなく、むしろ穏やかな時間だった。
屋敷に戻ってからも、私はレオンハルト様の言葉を何度も反芻していた。
夜、自室のベッドに横たわりながら、これまでの日々を振り返る。
婚約破棄されたあの日から、多くのことが変わった。
自分の力で立つことを学び、誰かの役に立つ喜びを知った。
そして、レオンハルト様と出会い、少しずつ心を開いていった。
「私は、どうしたいのだろう」
自分に問いかけながら、私は目を閉じた。
翌日、庭で花の手入れをしていると、ミレイユが心配そうに声をかけてきた。
「お嬢様、最近何か考え込んでいらっしゃいますね」
図星を突かれ、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「実は……レオンハルト様に、求婚されたの」
その言葉に、ミレイユは目を丸くした。
「まあ! それで、お嬢様は何とお返事を」
「まだ、お返事できていないの」
正直にそう答えると、ミレイユは少し首を傾げた。
「お嬢様は、レオンハルト様のことを、どう思っていらっしゃるのですか」
その率直な問いに、私はしばらく考え込んだ。
「一緒にいると、安心するの」
「自分らしくいられる気がするし……何より、心から笑えるようになったのは、レオンハルト様と出会ってからだと思う」
言葉にしながら、自分の気持ちが少しずつ形になっていくのを感じた。
「それなら、答えは決まっているのではありませんか」
ミレイユの優しい言葉に、私は静かに微笑んだ。
その週末、レオンハルト様が再び屋敷を訪れた。
庭のベンチに並んで座りながら、私は自分の中で見つけた答えを、少しずつ言葉にしていった。
「レオンハルト様」
「まだ、はっきりとしたお返事はできません」
正直にそう告げると、レオンハルト様は静かに頷いた。
「けれど……」
私は自分の胸に手を当てながら、続けた。
「あなたの隣なら、歩いてみたいと思うのです」
その言葉に、レオンハルト様は驚いたように目を見開いた。
「王妃という役割のためではなく、あなた自身の隣を、自分の意思で選びたいと思っています」
「まだ、確かな答えではないかもしれません」
「けれど、そう思えるようになった自分の気持ちを、大切にしたいのです」
その言葉を聞いたレオンハルト様は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、静かに、けれど深い喜びを湛えた声で、こう言った。
「それだけで、十分だ」
「その気持ちがあれば、いくらでも待てる」
彼はそっと、私の手を握った。
その手のひらから伝わる温もりに、私は確かな安心感を覚えていた。
夕暮れの庭で、二人並んで座りながら、私たちはしばらく無言のまま過ごした。
言葉にせずとも、心が通じ合っているような、そんな穏やかな時間だった。
婚約破棄されたあの日から始まった長い道のりが、今、新しい未来へとつながろうとしている。
まだ答えは出ていない。
けれど、その道の先に、確かな光が見え始めていることを、私は静かに実感していた。
夕日に照らされる庭を眺めながら、私は静かに、けれど確かな希望を胸に抱いていた。




