第十一章 聖女の仮面
湖畔での求婚から、ひと月が過ぎようとしていた。
まだ正式な返事はしていないものの、レオンハルト様との関係は、以前にも増して穏やかで確かなものになっていた。
領地の仕事も、孤児院への支援活動も、順調に進んでいる。
そんな平穏な日々の中、思いがけない出来事が私の身に降りかかることになる。
その日の午後、私は屋敷の書斎で税制改正の資料をまとめていた。
そこへ、血相を変えたミレイユが飛び込んできた。
「お嬢様、大変です」
「どうしたの、そんなに慌てて」
「王宮から、密偵らしき者が屋敷の周りをうろついているという知らせが」
その言葉に、私は思わず手を止めた。
「密偵……?」
「はい。庭師や出入りの商人たちの間で、不審な人物を見かけたという話が広まっていて」
嫌な予感が胸をよぎる。
けれど、その時の私には、まだ何が起きようとしているのか、正確には分かっていなかった。
数日後、王宮から一通の召喚状が届いた。
差出人は、王家の名において発行されたものだった。
内容を読んだ瞬間、私は息を呑んだ。
『エレシア・ヴァルモントは、建国祭の場において、疑惑について釈明する義務がある』
疑惑という言葉に、私は困惑を隠せなかった。
「お父様、これは一体……」
召喚状を父に見せると、父もまた険しい表情を浮かべた。
「何かの間違いだろう」
「お前が、王家に対して何か疑われるようなことをするはずがない」
父の言葉に頷きながらも、私の胸には言いようのない不安が広がっていく。
そのことをレオンハルト様に伝えると、彼はすぐに表情を曇らせた。
「フィオナ嬢が、何か企んでいる可能性がある」
「フィオナ様が、ですか」
「最近、彼女の評判は国内でも急速に悪化している」
「エレシア嬢と比較され、彼女の次期王妃としての素質を疑問視する声が増えているという噂も耳にしている」
レオンハルト様は、真剣な眼差しで続けた。
「焦った人間は、時に大きな過ちを犯す」
「油断はしない方がいい」
その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
建国祭までの数日間、私は落ち着かない日々を過ごしていた。
一体自分が何を疑われているのか、召喚状にはそれ以上の詳細が記されていなかったからだ。
そんな中、ミレイユが独自に情報を集めてくれていた。
「お嬢様、少し分かったことがあります」
ある晩、ミレイユが真剣な表情で報告してくれた。
「フィオナ様が、王宮の一部の文官に、お嬢様に関する書類を用意させているという噂です」
「書類……?」
「詳しい内容までは分かりませんが、隣国との関わりについての、何か偽の証拠のようなものではないかと」
その言葉に、私は血の気が引くのを感じた。
まさか、隣国に機密を流しているなどという、根も葉もない疑いをかけられようとしているのだろうか。
「そんな……」
言葉を失う私に、ミレイユは力強く言った。
「大丈夫です、お嬢様」
「私が、必ず真実を明らかにします」
その言葉に、私は少しだけ勇気づけられた。
ミレイユは、その日から密かに動き始めた。
以前から、フィオナ様の振る舞いに不審な点を感じていたという彼女は、王宮の使用人たちの中に伝手を持っていた。
数日かけて集めた情報は、驚くべきものだった。
「お嬢様、証拠が集まりました」
ミレイユが持ち帰ってきた資料には、フィオナ様が近隣の商人たちに不当な金銭を要求していたことや、貴族たちへ脅迫まがいの言動をしていたことが記されていた。
「それだけではありません」
ミレイユは続けた。
「王家所有の宝石が、いくつか行方不明になっているという話も聞きました」
「その処分に関わっていたのが、フィオナ様の側近だという証言も得ています」
その情報の重みに、私はしばらく言葉を失っていた。
同じ頃、レオンハルト様もまた独自に調査を進めていた。
「あの召喚状に記された疑惑について、隣国側でも調べてみた」
ある日、屋敷を訪れたレオンハルト様がそう切り出した。
「君が国家機密を漏らしたという証拠は、どこにも存在しない」
「むしろ、その証拠とやらが、不自然に最近作成されたものだという疑いが強い」
その言葉に、私は胸を撫で下ろした。
けれど同時に、悪意ある企みが、確かに自分に向けられているという事実に、恐怖にも似た感情を覚えていた。
「なぜ、フィオナ様はここまでするのでしょうか」
思わずそう漏らすと、レオンハルト様は静かに答えた。
「焦っているのだろう」
「自分の立場が揺らぎ始めていることに、気づいているはずだ」
「その不安を、君を陥れることで解消しようとしているのかもしれない」
その分析には、悲しいほどの説得力があった。
建国祭の準備が進む中、私たちはできる限りの証拠を集め、備えを固めていった。
老齢の公爵が、以前から王家の文書管理に精通しており、公印の変遷にも詳しいという話を聞き、密かに協力を仰ぐことにした。
「エレシア嬢、あなたの潔白は、私が保証しましょう」
老公爵は、そう力強く言ってくれた。
「近頃の王宮のやり方には、私も思うところがあった」
「正しいことのために、力を貸そう」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
一方で、アルヴィン様の様子にも変化が見え始めていた。
これは、老公爵を通じて伝え聞いた話だ。
フィオナ様が用意した証拠書類について、アルヴィン様自身も疑問を抱き始めているという。
「殿下は、あの書類の内容に不自然な点があることに、薄々気づいているようです」
老公爵が、そう教えてくれた。
「ただ、フィオナ嬢を強く信じたいという気持ちと、疑念との間で、揺れ動いているようですな」
その話を聞きながら、私は複雑な感情を抱いていた。
かつての婚約者が、ようやく物事の本質を見極めようとし始めている。
けれど、それはあまりにも遅すぎる気づきなのかもしれない。
建国祭まで、あと数日。
屋敷の書斎で、私はレオンハルト様、ミレイユ、そして父と共に、最後の準備を進めていた。
「証拠は十分に揃っている」
レオンハルト様が、集められた資料を見渡しながら言った。
「あとは、建国祭の場で、正々堂々と真実を示すだけだ」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「怖くはないか」
レオンハルト様が、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は少し考えてから、静かに答えた。
「怖くない、と言えば嘘になります」
「けれど、もう俯いてばかりはいられません」
私はまっすぐに前を見据えた。
「今度は、自分の力で、自分自身を守りたいのです」
その言葉に、レオンハルト様は静かに、けれど確かな信頼を込めた眼差しを向けてくれた。
「君なら、きっとできる」
その言葉を胸に、私は建国祭の日を静かに待つことにした。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
これから訪れる試練を前に、不安がないと言えば嘘になる。
けれど、これまで積み重ねてきた日々が、確かな支えとなってくれることを、私は信じていた。




