第十二章 もう昔の私じゃない
建国祭を数日後に控えたある日、侯爵邸に予期せぬ来客があった。
「アルヴィン殿下が、正式な使者を通じて訪問を申し入れておられます」
執事の報告に、私は思わず眉をひそめた。
先日の非公式な訪問とは違い、今回は正式な手続きを踏んでの来訪だという。
「一体、何のご用件かしら」
「詳細は伺っておりませんが……殿下ご自身が、直接お話ししたいとのことです」
その言葉に、父は険しい表情を浮かべた。
「エレシア、無理に会う必要はない」
「今のお前は、あの家に何の義理もないのだから」
父の言葉には、娘を守ろうとする強い意志が滲んでいた。
けれど私は、静かに首を振った。
「いいえ、お会いします」
「エレシア……」
「もう、何を言われても揺らぐことはありません」
「きちんと、この目でお話を聞いておきたいのです」
その言葉に、父はしばらく私を見つめた後、静かに頷いた。
「分かった。だが、何かあればすぐに呼びなさい」
その気遣いに感謝しながら、私は応接間へと向かった。
応接間に現れたアルヴィン様は、以前の非公式な訪問の時よりも、さらに憔悴した様子だった。
けれど、その目には以前とは違う、何か決意めいた光が宿っている。
「エレシア……今日は、大切な話をしに来た」
彼は改まった様子で、そう切り出した。
「どうぞ、お話しください」
私は静かに促した。
以前のように、緊張で声が震えることはなかった。
「私は……お前ともう一度、婚約を結び直したいと思っている」
その言葉に、私は一瞬、耳を疑った。
「復縁、ということでしょうか」
「そうだ」
アルヴィン様は、まっすぐに私を見据えた。
「フィオナとの婚約は、正式に解消するつもりだ」
「あの日の私の判断は、間違っていた」
「お前ほど、私を支えられる者はいない」
「王宮も、貴族たちの信頼も、お前がいなければ立ち行かないことを、ようやく思い知った」
その言葉には、確かな苦悩の色が滲んでいた。
彼は続けて、深く頭を下げた。
「頼む、エレシア」
「もう一度、私の婚約者として、隣に立ってほしい」
その姿は、かつての傲慢さの欠片もなく、ただ縋るように懇願する一人の人間だった。
しばしの沈黙が流れる。
以前の私であれば、この言葉に涙を流し、迷わず頷いていただろう。
彼に必要とされることだけが、自分の存在意義だと信じていたあの頃の私なら。
けれど、今の私は違う。
「殿下」
私は静かに口を開いた。
「昔の私なら、その言葉を、きっと喜んで受け入れていたと思います」
アルヴィン様の表情に、わずかな希望の色が浮かぶ。
けれど、私はすぐにその期待を、静かに否定した。
「けれど、今の私は違います」
はっきりとした声で、そう続ける。
「私はもう、あなたを必要としていません」
その一言に、アルヴィン様は打ちのめされたように顔を歪めた。
「エレシア、そんな……」
「殿下」
私は続けた。
「私は、殿下の代わりではありません」
「王妃としての役割を埋めるための駒でもありません」
言葉を重ねるたびに、自分の中の確信が、より強固なものになっていくのを感じた。
「私はもう、自分の人生を歩きます」
きっぱりとそう告げると、アルヴィン様は言葉を失ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
「なぜだ」
やがて、絞り出すようにアルヴィン様が呟いた。
「なぜ、そこまで頑なになる」
「私は、心から反省している」
「お前を大切にすると誓う」
その懇願に、私は静かに首を振った。
「殿下」
私は、これまでの日々を思い返しながら、ゆっくりと語り始めた。
「あの日、婚約を破棄された時、私はすべてを失ったと思いました」
「けれど、失ったからこそ、私は自分自身と向き合うことができたのです」
私の声は、静かでありながらも、確かな力を帯びていた。
「領地の仕事を手伝い、孤児院の子供たちと触れ合い、自分の力で誰かの役に立つ喜びを知りました」
「そして、私自身の意思で、大切に想える方とも出会いました」
その言葉に、アルヴィン様は微かに息を呑んだ。
「レオンハルト殿下のことか」
「はい」
私は迷わず頷いた。
「私は今、自分の意思で、自分の未来を選んでいます」
「それは、殿下によって与えられるものではなく、私自身が掴み取ったものです」
その言葉には、これまでの日々で積み重ねてきたすべての想いが込められていた。
「私を、許してくれないのか」
アルヴィン様の声は、もはや懇願に近いものだった。
「許す、許さないという話ではないのです」
私は静かに、けれど確かな口調で答えた。
「私はもう、あの日の出来事に囚われてはいません」
「けれど、だからといって、殿下との未来を選ぶことはありません」
その言葉に、アルヴィン様は深く肩を落とした。
「私が手放したものは、想像以上に大きかったのだな」
呟くようなその言葉に、私は静かに頷いた。
「殿下がそのことに気づかれたのなら、それはきっと、これからの殿下にとって大切な学びになると思います」
その言葉には、かつての婚約者への、最後の思いやりが込められていた。
「エレシア」
アルヴィン様は、最後にもう一度私の名を呼んだ。
「幸せに、なってくれ」
その言葉には、これまで聞いたことのないほどの、誠実な響きがあった。
「殿下も、これからの道を、しっかりと歩まれてください」
私はそう答え、静かに一礼した。
アルヴィン様が屋敷を後にした後、私はしばらく応接間で一人、静かに座っていた。
自分の中で、何か大きな区切りがついたような感覚があった。
かつて、あれほど恐れていた彼との対峙。
けれど今の私は、確かな自分の意志を持って、その対話を終えることができた。
「お嬢様」
そっと部屋に入ってきたミレイユが、心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫、ですか」
「ええ、大丈夫よ」
私は静かに微笑んだ。
「むしろ、心が軽くなったわ」
その言葉に、ミレイユも安堵の表情を浮かべた。
「お嬢様は、本当に強くなられましたね」
その言葉に、私は静かに頷いた。
窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。
かつての婚約者との対話を経て、私の中には確かな成長の実感があった。
これまでの日々で積み重ねてきたもの。
自分の力で立ち上がり、誰かの役に立つ喜びを知り、そして自分の意思で未来を選び取る強さを身につけてきた。
その全てが、今日という日の、この決断を支えてくれた。
「レオンハルト様に、報告しなければ」
そう呟きながら、私は静かに手紙をしたため始めた。
もうすぐ建国祭が訪れる。
フィオナ様の企みに立ち向かうべき、その大きな試練の日が。
けれど今の私には、確かな強さがある。
自分自身の足で、これからの道を歩んでいく。
その決意を胸に、私は夕暮れの空を見つめ続けた。




