第六章 王宮の崩壊
孤児院での活動が軌道に乗り始めた頃、王宮では静かに、けれど確実に混乱が広がり始めていた。
そのことを私が知ったのは、父が持ち帰ってきた社交界の噂話からだった。
「王宮の様子が、どうもおかしいらしい」
夕食の席で、父が難しい顔をしながら切り出した。
「どういうことでしょうか」
「フィオナ嬢が、王妃教育を拒んでいるそうだ」
その言葉に、私は思わず箸を止めた。
「拒んでいる、とは……」
「聞くところによれば、堅苦しい作法など必要ないと、教師陣を何人も追い返しているらしい」
「アルヴィン殿下も、それを咎めるどころか、フィオナ嬢を庇っているとか」
父の話を聞きながら、私は複雑な気持ちを抱いていた。
かつて自分が血の滲むような思いで学んだ礼儀作法。
それを軽んじられているという事実に、悔しさに似た感情が湧き上がる。
けれど同時に、それも仕方のないことなのかもしれないとも思った。
王妃教育とは、決して楽しいものではない。
心から王妃になりたいという強い意志がなければ、耐えられるものではないのだから。
その数日後、ミレイユが興奮気味に新しい話を持ち帰ってきた。
「お嬢様、大変なんです」
「フィオナ様が、隣国との会食の席で大失態を演じたそうで」
「大失態、ですか」
「はい。隣国の使者を前に、食事の作法を知らないことが露呈してしまったそうです」
「それだけでなく、政治の話を振られても、まともにお答えになれなかったとか」
以前の私であれば、そうした場での想定問答を事前にまとめ、アルヴィン様に渡していた。
各国の情勢、慣習、過去の外交記録。
すべてを頭に入れた上で、当日は隣で必要な助言を小声で伝える。
それが、私の役目だった。
「アルヴィン殿下は、何もフォローできなかったそうです」
「使者の方々も、ずいぶん困惑した様子だったとか」
その話を聞きながら、私は静かに目を伏せた。
同情でも喜びでもない、なんとも言えない感情が胸の中で渦を巻いている。
さらに数週間後、今度はもっと深刻な噂が届いた。
貴族たちを招いた晩餐会で、フィオナ様が失言を犯したというのだ。
「聞くところによると、ある伯爵夫人に向かって、平民の方が誠実だなどと発言されたそうです」
ミレイユが声を潜めて教えてくれる。
「その場にいた貴族の方々は、皆凍りついたそうで」
「アルヴィン殿下も、フォローするどころか、そうかもしれないなどと同調してしまったとか」
その話に、父も苦い顔をしていた。
「貴族社会というものは、繊細な均衡の上に成り立っている」
「王族があのような発言をすれば、貴族たちの信頼を失うのも当然だろう」
父の言葉に、私も頷かざるを得なかった。
貴族社会での立ち振る舞いは、単なる形式ではない。
長年の歴史の中で築かれてきた、信頼関係の礎でもあるのだ。
そうした話を聞くたびに、複雑な感情が胸に去来した。
かつての婚約者が苦しんでいることに、少しの憐れみを覚える自分もいる。
けれど同時に、あれほど簡単に切り捨てられた自分の努力を思うと、割り切れない気持ちも残っていた。
そんなある日、レオンハルト様が屋敷を訪れた際、彼もまた王宮の噂を耳にしていたようだった。
「隣国にまで、噂が届いているのですか」
私が驚いて尋ねると、レオンハルト様は静かに頷いた。
「外交というのは、些細な失態でも大きな影響を及ぼす」
「今のこの国の王宮は、少々危うい状態にあると言わざるを得ない」
その言葉には、隣国の王子としての冷静な分析が込められていた。
「君がいた頃の王宮は、もっと安定していたのだろう」
「私は、ただ自分の役目を果たしていただけです」
自然とそう答えたが、レオンハルト様は首を振った。
「役目を果たすということが、どれほど難しいことか」
「今のあの国の様子を見れば、よく分かる」
その言葉に、少しだけ誇らしさを感じている自分がいた。
一方その頃、王宮内ではアルヴィン様の心境にも変化が生じ始めていたという。
これは後になって、社交界の噂話として耳に入ってきた話だ。
積み重なる失態と、それに伴う貴族たちの不満。
外交使節からの苦言。
そうした重圧の中で、アルヴィン様は初めて、自分の判断に疑問を抱き始めたらしい。
執務室で山積みの書類を前に、ふと漏らした言葉があったという。
「エレシアなら、どうしていただろうか」
その一言を、たまたま居合わせた侍従が耳にしたのだそうだ。
以前であれば、迷わずフィオナ様を頼っていたはずのアルヴィン様が、初めて別の名前を口にした。
それは、後悔の始まりだったのかもしれない。
その話を聞いた時、私の中に去来したのは、意外にも静かな感情だった。
怒りでも、喜びでもない。
ただ、遠い記憶を思い出すような、そんな穏やかな気持ちだった。
かつては、彼の役に立つことが自分の存在意義だと信じていた。
けれど今の私には、別の場所で、別の形で誰かの役に立てているという実感がある。
孤児院の子供たちからの手紙。
領地経営で成果を上げた時の父の笑顔。
そうしたものが、今の私を支えてくれている。
「エレシア嬢」
物思いに耽っていた私に、レオンハルト様が声をかけてきた。
「何を考えている」
「少し、昔のことを思い出していました」
正直にそう答えると、彼は静かに私の顔を見つめた。
「後悔は、していないか」
その問いかけに、私はしばらく考えてから答える。
「後悔、ではないと思います」
「ただ、自分がどれだけあの場所に力を注いでいたか、改めて実感しているだけです」
「そうか」
レオンハルト様は短くそう答えた後、少し柔らかい表情を見せた。
「君は、もう十分に前を向いている」
「過去を振り返っても、そこに縛られてはいない」
その言葉に、私は小さく頷いた。
夜、自室の窓から王都の夜景を眺めながら、私はこれまでの日々を振り返っていた。
婚約破棄されたあの日から、数ヶ月が過ぎた。
あの頃は、この先どうなってしまうのかと、ただ不安に押しつぶされそうだった。
けれど今は、少しずつではあるが、自分の足で立てるようになってきている。
一方で、かつて自分がいた場所は、静かに崩れ始めている。
その事実に、優越感を覚えることはなかった。
ただ、物事には必ず理由があり、結果があるのだと、改めて実感させられるだけだった。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、私は静かに息をついた。
これから王宮がどうなっていくのか、私に知る術はない。
けれど、自分の道を、しっかりと歩んでいこう。
そんな決意を胸に、私はゆっくりと眠りについた。




