第四章 少しだけ外へ
レオンハルト様との出会いから、数日が過ぎた。
あの日以来、私は少しずつではあるが、部屋に閉じこもる時間が減っていた。
庭を散策したり、書斎で本を読んだり。
まだ完全に元通りとは言えないけれど、確かに何かが変わり始めている。
そんなある日、屋敷に一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、私は思わず息を呑む。
レオンハルト・アークレイン。
封を開けると、丁寧な筆致でこう記されていた。
『療養のため、しばらくこの国に滞在することになった』
『もしよければ、街を案内してもらえないだろうか』
『君の負担にならない範囲で構わない』
その文面を、私は何度も読み返した。
隣国の王子が、私に街の案内を頼むなど。
普通に考えれば、あり得ないことだ。
けれど、あの庭での出来事を思い出すと、彼らしい誘い方だと感じられた。
「お嬢様、お返事はいかがなさいますか」
隣で手紙を覗き込んでいたミレイユが、興味津々といった様子で尋ねてくる。
「少し、考えさせて」
そう答えたものの、心の中ではすでに決まっていた。
断る理由が、見つからなかったからだ。
数日後、私は変装用の質素な服に着替え、屋敷を出た。
侯爵令嬢としての装いではなく、平民の娘のような簡素なワンピース姿。
こんな格好で外を歩くのは、生まれて初めてのことだった。
待ち合わせ場所の広場に着くと、既にレオンハルト様が待っていた。
彼もまた、いつもの豪奢な衣装ではなく、旅装のような落ち着いた服を身にまとっている。
その姿は、隣国の王子というよりも、どこにでもいる旅人のように見えた。
「よく来てくれた」
レオンハルト様が微かに笑みを浮かべる。
「その、こうして街を歩くのは初めてで……少し緊張しています」
正直にそう告げると、彼は小さく頷いた。
「私も、こうして誰かと市場を歩くのは久しぶりだ」
「気楽に行こう」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
私たちは並んで、市場の方へと歩き出した。
王都の市場は、初めて見る光景で溢れていた。
色とりどりの果物を並べる屋台。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。
威勢のいい呼び込みの声。
貴族としての生活では、決して触れることのなかった世界がそこにはあった。
「これは、何という果物ですか」
私が屋台の果物を指差して尋ねると、店主のおばさんが快活に答えてくれる。
「お嬢さん、これは山向こうから来た甘いリンゴだよ」
「一つ食べてみるかい」
差し出された果物を、私はおずおずと受け取った。
かじってみると、想像以上に甘い果汁が口の中に広がる。
「美味しい……」
思わずそう漏らすと、レオンハルト様が微笑ましそうにこちらを見ていた。
「そんなに驚いた顔をするとは、思わなかった」
「すみません、こういう食べ物を口にする機会が、あまりなかったので」
王妃教育の中では、食事の作法こそ厳しく教え込まれたが、市井の食べ物に触れる機会など皆無だった。
すべてが新鮮で、けれど不思議と居心地の良い時間だった。
市場を歩いていると、一人の老人が薪を運ぶ手を止め、こちらに声をかけてきた。
「旅のお二人さんかい」
「この辺りは初めてかね」
「はい、少し街を見て回っているところです」
私がそう答えると、老人は嬉しそうに近隣のことを話し始めた。
最近の収穫の様子、税の話、そして今年の冬の心配。
貴族の令嬢として過ごしてきた中では、決して聞くことのなかった市民の生の声だった。
「税と言えば、最近少し重くなった気がするんだよ」
「王宮の方でも、色々と物入りなんだろうねぇ」
その言葉に、私は思わず反応してしまう。
税制については、王妃教育の中でみっちりと学んできた分野だった。
「もしよろしければ、詳しい状況を教えていただけますか」
そう尋ねると、老人は驚いた様子を見せながらも、丁寧に説明してくれた。
話を聞きながら、私の頭の中では自然と改善案がいくつも浮かんでくる。
けれど、それを口にする立場に、今の私はもういない。
そのことに、少しだけ寂しさを覚えた。
一方でレオンハルト様は、そんな私の様子を静かに見守っていた。
「君は、こういう話に詳しいのだな」
老人と別れた後、彼がそう声をかけてくる。
「王妃教育の一環で、税制についても学んでいましたから」
「今となっては、使い道のない知識ですけれど」
自嘲気味にそう言うと、レオンハルト様は真剣な表情でこちらを見た。
「そんなことはない」
「知識に、使い道がないなどということはない」
その言葉には、確かな重みがあった。
市場を抜けた先には、小さな広場があった。
そこでは数人の子供たちが、無邪気に駆け回って遊んでいる。
「お姉ちゃん、一緒に遊ぼう」
一人の女の子が、私の服の裾を引っ張ってくる。
突然のことに戸惑いながらも、私は思わず頷いていた。
子供たちに手を引かれるまま、簡単な鬼ごっこに付き合う。
ドレスではなく、動きやすい服を着ていたおかげで、思う存分駆け回ることができた。
息を切らしながら笑う私を見て、子供たちも楽しそうに笑い声を上げる。
「お姉ちゃん、笑うと可愛いね」
無邪気なその一言に、私は一瞬言葉を失った。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
作り物の笑顔ではなく、心から笑ったのは、本当に久しぶりのことだった。
少し離れた場所で、レオンハルト様がその様子を静かに見つめている。
視線が合うと、彼は柔らかく目を細めた。
その表情を見て、なぜか胸の奥が温かくなる。
帰り道、夕暮れに染まる道を歩きながら、私は今日一日を振り返っていた。
「今日は、ありがとうございました」
自然とそんな言葉が口をついて出る。
「王妃教育では、決して経験できないことばかりでした」
「こんなふうに、市井の人々と触れ合う機会なんて」
レオンハルト様は静かに耳を傾けながら、こう答えた。
「王妃教育だけが、君の価値を決めるわけではない」
「今日、君が見せてくれた笑顔は、教育の賜物ではないだろう」
その言葉に、私はしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。
「また、こうして街を歩いてもいいだろうか」
レオンハルト様の問いかけに、私は迷わず頷いた。
「はい、ぜひ」
小さな約束を交わし、私たちはそれぞれの帰路についた。
屋敷への道すがら、私は自分の頬が緩んでいることに気づく。
こんなふうに、自然に笑えたのはいつぶりだろうか。
婚約破棄から続いていた重苦しい日々の中に、確かな光が差し込んだ気がした。
その頃、王宮では別の出来事が起きていた。
アルヴィン様が出席した近隣諸国との外交会談で、大きな失態があったという噂が、瞬く間に貴族たちの間で広まっていた。
聞くところによれば、フィオナ様を同伴して臨んだ会談の場で、彼女が礼儀作法を欠いた発言をしてしまったらしい。
さらに、事前に用意されていたはずの資料に目を通していなかったアルヴィン様は、相手国の質問に満足に答えられなかったという。
以前であれば、私が事前に想定問答をまとめ、必要な資料を整理していた。
けれど今はもう、その役目を担う者がいない。
その話を聞いた時、複雑な感情が胸をよぎった。
同情でもなく、喜びでもない。
ただ、彼が少しずつ、自分の選択の結果と向き合い始めているのだろうという、静かな感慨だけがあった。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、私は今日という日に感謝していた。
新しい世界に触れ、少しだけ、自分を取り戻せた気がする一日だった。
明日は、どんな日になるだろうか。
そんな期待を胸に、私は静かに眠りについた。




