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婚約破棄された私は、もう誰かのために笑うのをやめました ~捨てた王子は後悔しても、もう遅いです~  作者: カルラ


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第三章 隣国の王子

翌朝、私は久しぶりに庭へ足を運んだ。

朝露に濡れた芝生を踏みしめながら、ゆっくりと歩を進める。

薔薇園の近くまで来ると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。

幼い頃、母がまだ生きていた頃によく一緒に眺めた花々だ。

母を亡くしてからは、父も私も、あまりこの場所を訪れることがなくなっていた。

けれど今日は、なぜかこの香りに引き寄せられるように足が向いてしまう。

薔薇園の奥にある小さなベンチに腰を下ろし、私はしばらく空を見上げていた。

雲一つない、青く澄んだ空。

こんなにも美しい空を、ここ最近はまともに見ていなかったことに気づく。

 

「私は、これから何をすればいいのだろう」

 

誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟く。

王妃になるという目標を失った今、自分の中に何が残っているのか分からない。

領地経営も、税制も、外国語も、すべて王妃になるために学んだことだった。

それらの知識に、今どんな意味があるというのだろう。

考えれば考えるほど、胸の奥が重くなっていく。

気づけば、目の縁に涙が滲んでいた。

けれど今は、誰の目もない。

ここでなら、少しくらい泣いてもいいだろうか。

そう思った瞬間、静かな足音が近づいてくるのに気づいた。

慌てて涙を拭おうとしたが、間に合わなかった。

 

「すまない、驚かせるつもりはなかった」

 

低く、落ち着いた声が聞こえる。

顔を上げると、見覚えのない青年がそこに立っていた。

けれど、どこかで会ったことがあるような、不思議な既視感を覚える。

銀髪に近い灰色の髪と、澄んだ紫の瞳。

上質な衣装から、身分の高い人物であることは一目で分かった。

 

「あの……どちら様でしょうか」

 

涙を隠すこともできないまま、私はどうにか声を絞り出す。

青年は少し考えるような表情を見せた後、静かに名乗った。

 

「私はレオンハルト・アークレイン」

「隣国アークレイン王国の第一王子だ」

「此度、外交の使節としてこの国を訪れている」

 

隣国の第一王子。

その名を聞いて、私は慌てて立ち上がろうとした。

けれど涙のせいで視界が滲み、うまく体勢を保てない。

 

「無理をしなくていい」

 

レオンハルト様はそう言って、私を制した。

 

「ここは君の家の庭だろう」

「勝手に立ち入った私の方こそ、失礼を詫びるべきだ」

 

その言葉に、私は少し戸惑いながらも座り直す。

 

「エレシア・ヴァルモントと申します」

「侯爵家の……」

 

そこまで言いかけて、言葉に詰まった。

以前なら迷わず「未来の王妃です」と続けていただろう。

けれど今の私には、その言葉を口にする資格がない。

 

「知っている」

 

レオンハルト様は静かにそう言った。

 

「君の話は、社交界でも耳にしていた」

 

その言葉に、身体が強張る。

きっと婚約破棄の噂を知っているのだろう。

また憐れみの目を向けられるのだろうか。

そう身構えた私に、けれど彼は意外な言葉を口にした。

 

「それに、私は君のことを昔から知っている」

 

「昔、から……?」

 

記憶を辿るが、隣国の王子との面識など思い当たらない。

困惑する私に、レオンハルト様は少し目を細めた。

 

「十年ほど前、私がこの国を訪れた時のことだ」

「王城の庭で、一人泣いている少女を見かけた」

 

その言葉に、遠い記憶が呼び起こされる。

そういえば、幼い頃に一度だけ、王妃教育の厳しさに耐えきれず、庭で一人泣いていたことがあった。

あの時、誰かが通りかかって、何も言わずにそっとハンカチを差し出してくれた。

 

「もしかして、あの時の……」

 

「覚えていてくれたか」

 

レオンハルト様は、微かに口元を緩めた。

 

「あの日から、ずっと気になっていた」

「あの少女は、今どうしているだろうかと」

 

思いがけない再会に、私は言葉を失っていた。

まさか、あの時の少年が隣国の王子で、しかもこうして再び目の前に現れるとは。

 

「あの、その時は……ありがとうございました」

 

改めてお礼を言うと、レオンハルト様は小さく首を振った。

 

「礼を言われるようなことはしていない」

「ただ、ハンカチを渡しただけだ」

 

その素っ気ない言い方が、かえって彼の不器用さを感じさせた。

しばらく沈黙が流れる。

気まずさを感じ始めた頃、レオンハルト様が静かに口を開いた。

 

「今日は、泣いてもいい」

 

その一言に、私は思わず息を呑んだ。

 

「無理に笑わなくても、平気を装わなくてもいい」

「ここには、私しかいないのだから」

 

その言葉が、これまで張り詰めていた何かを、静かに緩めていく。

淑女は人前で涙を見せてはいけない。

弱さを見せてはいけない。

ずっとそう教えられてきた私にとって、その言葉は初めて聞く許しのようだった。

 

「私……」

 

声が震える。

 

「私、本当は、ずっと悔しかったんです」

「悲しかったんです」

「でも、それを誰にも言えなくて……」

 

堰を切ったように、言葉が溢れ出す。

 

「十年近く、王妃になるために努力してきました」

「それなのに、冷たい女だと言われて」

「感情がないと言われて」

「私は、本当にそんな人間だったのでしょうか」

 

レオンハルト様は、何も言わずにただ静かに耳を傾けてくれていた。

慰めの言葉も、励ましの言葉もない。

けれどその沈黙が、不思議と心地よかった。

一通り話し終えると、少しだけ胸が軽くなっている自分に気づく。

 

「話を聞いてくださって、ありがとうございます」

 

涙を拭いながらそう言うと、レオンハルト様は静かに頷いた。

 

「君は、冷たい人間などではない」

「ただ、感情を出す場所を、誰も与えてこなかっただけだ」

 

その言葉が、深く胸に染み渡っていく。

誰かにそう言ってもらえたのは、初めてだった。

 

「私は近く、この国を離れる」

「けれど、また機会があれば会いたい」

 

レオンハルト様はそう言って、静かに立ち上がった。

 

「エレシア嬢、どうか自分を責めないでほしい」

「君の価値は、誰かに決められるものではない」

 

その言葉を残し、彼は静かに去っていった。

一人残された庭で、私はしばらくその背中を見送っていた。

不思議な出会いだった。

けれど、その短い時間の中で、確かに何かが私の中で変わり始めていた。

初めて他人の前で、本音を口にすることができた。

それがどれほど自分にとって大きな一歩だったか、この時の私はまだ気づいていなかった。

空を見上げると、先ほどよりも少しだけ、雲が薄くなっているように感じられた。

 

その日の夕食の席で、父が珍しく話しかけてきた。

 

「今日は、庭に出ていたそうだな」

「ミレイユから聞いた」

 

「はい……少し、風にあたりに」

 

詳しい経緯を話すべきか迷ったが、結局レオンハルト様のことは口にしなかった。

まだ、自分の中でうまく整理できていない出来事だったからだ。

 

「顔色が良くなったな」

 

父の言葉に、私は小さく微笑んだ。

 

「そう、かもしれません」

 

自分でも、少しだけ前を向けている気がする。

まだ完全には晴れない心。

けれど、今日という日が、その第一歩になったことは確かだった。

窓の外には、美しい夕焼けが広がっていた。

明日はどんな一日になるだろうか。

そんなことを、久しぶりに前向きな気持ちで考えられる自分がいた。








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