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婚約破棄された私は、もう誰かのために笑うのをやめました ~捨てた王子は後悔しても、もう遅いです~  作者: カルラ


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第二章 失った居場所

あの夜から、三日が過ぎた。

私は自室に閉じこもったまま、ほとんど外に出ていない。

窓の外から聞こえる小鳥の声さえ、今の私には遠い世界のことのように感じられる。

婚約破棄の一件は、瞬く間に王都中の噂となっていた。

けれど、それだけではなかった。

あの夜、大勢の前で私が晒した――あの、取り返しのつかない醜態までもが、静かに、しかし確実に広がっていた。

侍女のミレイユが持ってくる話によれば、貴族たちの反応は様々だという。

 

「お嬢様に同情する声も、たくさんあるんです」

「特に年配の方々は、アルヴィン様のなさりようを快く思っていないみたいで」

 

ミレイユはそう言いながら、私の髪をそっと梳いてくれる。

その手つきはいつもと変わらず優しかった。

けれど私の心は、簡単には晴れない。

 

「でも……フィオナ様を支持する方々もいるのでしょう」

 

私が尋ねると、ミレイユは一瞬言葉に詰まった。

その反応だけで、答えは分かってしまう。

 

「一部の若い貴族たちが……その、聖女様の方が親しみやすいと」

「堅苦しい令嬢よりも、なんて言う方も……」

 

堅苦しい令嬢。

その言葉が、胸の奥に鈍い痛みとなって突き刺さる。

否定はできなかった。

確かに私は、常に完璧な淑女であろうとしてきた。

笑顔を絶やさず、感情を表に出さず、非の打ち所のない振る舞いを心がけてきた。

それが正しいと、ずっと信じてきたからだ。

けれど、その努力は誰にも伝わっていなかったのかもしれない。

 

そして、それ以上に、私を苦しめていたものがあった。


あの夜の舞踏会。

アルヴィン様の宣告を聞いた瞬間、膝から力が抜け、崩れ落ちたこと。

そして、抑えきれなかった熱い流れが、淡い水色のドレスを容赦なく汚していったこと。

公衆の面前で、身体の制御を完全に失ったあの感覚は、十八年間積み上げてきた「完璧な令嬢」というプライドを、根底から砕いてしまった。


そのショックは、翌朝になっても消えていなかった。


夜、私は浅い眠りに落ちた。

夢の中で、私は再びあの大広間に立っていた。

アルヴィン様の冷たい声が響く。


「エレシア・ヴァルモント嬢との婚約を、本日をもって破棄する」

「彼女は王妃としての資質に欠ける」

「冷たく、感情を表に出さず……」


会場中の視線が、一斉に私に突き刺さる。

膝から力が抜け、その場にへたり込む。

そして――熱いものが、一気に溢れ出す。

ドレスが濃く色を変え、太ももを伝い、床に水たまりが広がっていく。

誰かの失笑。

囁き。


「漏らした……」

「完璧な令嬢が……」


フィオナ様の、楽しげな視線。


「やめて……見ないで……!」


夢の中で叫びながら、私は目を覚ました。


――その瞬間、下半身に、冷たく、重く、容赦ない感触があった。


シーツが、腰のあたりから大きく円を描いて、びっしょりと濡れている。

寝間着の裾も、太ももに張りつくように湿り、冷たい液体がすでに冷めて、肌にまとわりついている。

マットレスにまで恥ずかしい証が染み込み、指で触れると、沈んだように柔らかく、重く湿っているのが分かった。

温かかったはずのものが、今はただ冷たく、惨めに、私の寝床を侵食していた。

私はしばらく、ただ呆然とその感触を確かめていた。

信じられなかった。

あんなに大きな恥を晒した直後に、今度は夜の間に――一人きりの寝床で、またしても、身体が言うことを聞かなかったのだ。


「……嘘、でしょう……?」


掠れた声が、喉から漏れた。

顔が一気に熱くなる。

耳の先まで真っ赤になり、指先が小刻みに震えた。

貴族の令嬢として、十八年間、一度も犯したことのない失敗。

それがあの夜の公開の場に続き、翌朝の私室で、静かに、しかし残酷に繰り返された。


プライドが、音を立てて崩れていく音がした気がした。

「完璧でなければならない」「淑女は常に身綺麗でなければならない」

そう叩き込まれてきた教育が、逆に今の自分を鋭く切りつける。

羞恥が、ナイフのように全身を貫いた。


「みっともない……」

「あんなに大勢の前で漏らした挙句、夜まで……ベッドまで汚すなんて……」

「誰かに知られたら……終わりだわ……侯爵家の令嬢が、おねしょをするなんて……」


涙が、止まらなくなった。

嗚咽を押し殺しながら、濡れたシーツを握りしめる指に力が入る。

消えてしまいたい。

あの夜と同じように、ただ消えてしまいたかった。

ベッドの中で、自分の汚した液体にまみれたまま、私は小さく体を丸めて、肩を震わせた。


その時、ノックの音がして、ミレイユが入ってきた。

彼女は一瞬で状況を察したらしい。

顔色を変えることなく、静かに近づいてくる。


「お嬢様……」


「……見ないで」


私は顔を背けた。

けれどミレイユは、責めるでもなく、驚くでもなく、ただ淡々と新しいシーツと着替えを用意し始めた。


「大丈夫です。すぐに取り替えますから」

「昨夜は、本当に大きなショックでしたもの。お体が、まだ混乱しているだけです」


その声は、驚くほど穏やかだった。

私はシーツの中に顔を埋め、小さく首を振った。


「令嬢として……こんな……みっともない……」

「あの夜に続いて、また……ベッドまで……私は……子供みたいに……」

「恥ずかしい……なんでこんな……どうして……」


「お嬢様は、何も悪くありません」


ミレイユが、強い口調で言った。

彼女は私の肩にそっと手を置き、まっすぐに私の目を見た。


「ずっとお嬢様の努力を見てきました」

「誰よりも王妃に相応しかったのは、お嬢様です」

「一夜のことで、十八年間の誇りが消えるわけがありません」

「お体が追いついていないだけです。必ず、落ち着きます」


その言葉は、嬉しかった。

けれど同時に、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

私はただ、小さく頷くのが精一杯だった。


翌晩も、同じことが起きた。


二日目の夜。

またしても、私は悪夢にうなされた。

再び大広間。

再び崩れ落ちる。

再び熱い流れ。

再び嘲笑の視線。


「また漏らした……」

「今度はベッドでも……」


目が覚めた瞬間、下半身の感触で、すべてを理解した。

シーツは、前回以上に大きく、深く濡れていた。

腰から背中にかけて、冷たい湿り気が広がり、マットレスにまでしっかりと染み込んでいる。

寝間着は太ももに張りつき、動くたびに嫌な感触が肌を撫でる。

ベッド全体が、私の失敗を無言で告発しているようだった。


今度は、昨夜の絶望がそのまま残っているような、重い気持ちで目が覚めた。


「……まだ、治らないの……?」


声にならない声が、喉の奥で潰れる。

貴族令嬢としてのプライドが、さらに深く、容赦なく傷つく。

完璧を装ってきた自分が、夜の間に無防備に制御を失い、自分の寝床を何度も汚している事実。

それが、どれほど自分を惨めに感じさせるか。

涙が、また溢れた。


「恥ずかしい……誰にも知られたら……私はもう、人として……」

「二度も……二度もベッドを……みっともない……」


ミレイユは、また何も言わずに世話をしてくれた。

そして、静かに、しかしはっきりと言った。


「お嬢様、二日続いただけです。大きな心の傷を負った後は、誰でもこうなることがあります。明日には、きっと落ち着きます。私がついています。一人で抱え込まないでください」


その言葉に、私は初めて、少しだけ顔を上げることができた。


「……本当に、治るかしら」


「治ります。お嬢様は、強い方ですから」


ミレイユの励ましが、暗闇の中に細い光のように差し込んできた。


そして、三日目の朝。


目が覚めた瞬間、私は恐る恐る下半身の感触を確かめた。

乾いている。

シーツも、寝間着も、冷たく湿った感触はない。

しばらく、信じられないようにその感触を確かめてから、私は小さく息を吐いた。


「……治った……」


安堵と、まだ残る羞恥が同時に胸を満たす。

二日間続いたおねしょは、ようやく止まった。

身体が、少しずつではあるが、平常を取り戻し始めている。

ミレイユが部屋に入ってきた時、私は初めて、弱々しくも微笑むことができた。


「ミレイユ……今朝は、大丈夫だったわ」


「よかった……! 本当によかったです、お嬢様」


ミレイユの目にも、安堵の色が浮かんでいた。

彼女は私の手を握り、優しく言った。


「お体が、ようやく落ち着いてきましたね。心も、少しずつでいいんです。ゆっくり、取り戻していきましょう」


その言葉に、私の中で張り詰めていた何かが、わずかにほどけた。

まだ完全ではない。

けれど、三日間の暗闇の中で、初めて「立ち直れるかもしれない」という小さな希望が芽生えた。


しかし、傷はそれだけでは終わらなかった。


ミレイユが慎重に伝えてくれたところによれば、あの夜の舞踏会での失禁だけでなく、私が部屋に閉じこもっている間に「おねしょまでしているらしい」という噂が、一部の貴族の間でささやかれ始めているという。


「舞踏会で漏らした令嬢が、その後も夜な夜な……」

「完璧を装っていた人が、こんな無様なことに」

「ベッドまで汚しているらしいわよ」


そんな陰口が、茶会の端々で交わされているらしい。


その話を聞いた時、また胸が締め付けられた。

顔が熱くなり、拳を強く握りしめる。


「……そこまで、知られているの……」

「お嬢様……」


ミレイユが心配そうに私を見る。


けれど、私はゆっくりと顔を上げた。

二日間のおねしょを乗り越え、三日目に治った今、心の奥に小さな炎が灯っていた。


「……負けないわ」


小さく、しかしはっきりと、そう呟いた。

「噂がどうであろうと、私が崩れた事実は消えない。でも、それで終わりにはしたくない」

「あの夜のことも、この二日間のことも、全部含めて、私は前に進む」


ミレイユの目が、わずかに潤んだ。


「お嬢様……」

「ありがとう、ミレイユ。あなたがいてくれたから、私はここにいられる」


その言葉を口にした瞬間、初めて、本当に少しだけ前を向ける気がした。


窓の外に目を向ければ、庭の花々が風に揺れている。

以前は毎朝眺めることを楽しみにしていた景色のはずなのに、今はまだ何の感情も湧いてこない。

食事もほとんど喉を通らず、夜も浅い眠りを繰り返すばかりだった。

自分でも分かっている。

このままではいけないと。

けれど、部屋から出る気力が湧いてこない。

婚約破棄の日から、私は誰にも会いたくなかった。

会えば、あの日の視線を思い出してしまう。

同情と、憐れみと、わずかな嘲りの混じった、あの視線を。

そして、失禁とおねしょの噂を知っているかもしれない人々の視線を。 


「お嬢様」

 

ミレイユが心配そうに私の顔を覗き込む。

 

「少しだけでも、庭に出てみませんか」

「風にあたるだけでも、気分が変わるかもしれません」

 

その提案に、私は小さく首を振った。

 

「今は、まだ……」

 

言葉を濁す私に、ミレイユはそれ以上何も言わなかった。

ただ静かに寄り添ってくれる。

その優しさが、かえって申し訳なく感じられた。

 

一方その頃、王宮では別の変化が起きていた。

これは後に、ミレイユが人づてに聞いた話だ。

婚約破棄を宣言したアルヴィン様は、当初は満足げだったという。

長年の重荷から解放されたとでも言うように、晴れやかな表情で執務室に戻ったらしい。

けれど、その安堵は長くは続かなかった。

机の上には、見たこともないほどの書類が積み上がっていた。

領地からの税収報告。

外交使節への返書。

孤児院支援に関する予算案。

貴族たちからの陳情書。

すべてが未処理のまま、山のように積まれていたという。

アルヴィン様は側近に尋ねた。

 

「これは、一体何だ」

「なぜこんなに溜まっている」

 

側近は困惑した様子で答えたという。

 

「殿下……これらは、これまですべてエレシア様が整理されていたものです」

「殿下がお目通しされる前に、優先順位をつけて、要点をまとめてくださっていました」

 

その言葉に、アルヴィン様は言葉を失ったそうだ。

私が普段どのような仕事をしていたのか、彼はほとんど知らなかったのだろう。

婚約者として、そして未来の王妃として、私が担っていた実務の数々。

それらは表舞台に立つことのない、地味な仕事ばかりだった。

けれど、王宮の機能を陰で支えていたのも事実だった。

アルヴィン様は初めて、机の上の書類の山を前に立ち尽くしたという。

 

「フィオナに頼めばいいだろう」

 

そう言ったものの、フィオナ様は政務については何も分からないと答えたそうだ。

 

「そのようなことは、殿下のお仕事ではありませんか」

「私は、殿下のお心を癒すためにおります」

 

愛らしい笑顔でそう告げるフィオナ様に、アルヴィン様は何も言い返せなかったという。

その光景を想像すると、複雑な気持ちになる。

かつての婚約者として、少しばかりの優越感を覚えなかったと言えば嘘になる。

けれど同時に、虚しさの方が大きかった。

十年近く、あの人のためにと信じて積み重ねてきたものが、今になって初めて評価されようとしている。

それも、もう手の届かない場所で。

 

数日後、久しぶりに書斎を訪れると、父が難しい顔で書類に目を通していた。

 

「お父様、何かありましたか」

 

尋ねると、父は少し驚いたように顔を上げた。

 

「エレシア、部屋から出てきたのか」

 

その声には、安堵の色が滲んでいた。

 

「少し……気になって」

 

私がそう答えると、父は手元の書類を見せてくれた。

王宮からの正式な書状だった。

内容は、侯爵家に対する労いと、これまでの功績への謝辞。

そして、今後も何か困ったことがあれば相談してほしいという、やや異例な文言が添えられていた。

 

「王家も、少しは事の重大さに気づいたということだろうな」

 

父はそう言って、静かにため息をついた。

 

「エレシア、お前はもう、あの家のことを気にしなくていい」

「これからは、お前自身の人生を歩めばいい」

 

父の言葉は温かかった。

けれど、自分自身の人生とは何なのか。

十八年間、王妃になるためだけに生きてきた私には、まだその答えが見つからなかった。

部屋に戻る途中、庭に面した廊下で足を止める。

窓から差し込む陽の光が、思いのほか眩しく感じられた。

ここ数日、部屋に閉じこもっていたせいだろうか。

それとも、心のどこかで、少しずつ何かが変わり始めているからだろうか。

まだ答えは分からない。

けれど、このまま部屋に閉じこもったままではいけない。

そんな思いだけは、確かに芽生え始めていた。

その夜、ミレイユが夕食を運んできてくれた時、私は久しぶりに完食することができた。

 

「お嬢様、顔色が少しよくなりましたね」

 

ミレイユが嬉しそうに言う。

 

「そう、かしら」

 

自分ではまだよく分からない。

けれど、確かに何かが変わり始めていることだけは、実感していた。

二日間続いたおねしょも、三日目には治り、心の傷も少しずつ和らぎ始めている。

噂がどれほど広がろうと、私は負けない。

あの夜の公開での失禁も、その後の二日間の弱さも、全部含めて、私は立ち上がる。

窓の外には、静かな夜空が広がっている。

明日は、少しだけ庭に出てみようか。

そんなことを考えながら、私はゆっくりと目を閉じた。










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