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婚約破棄された私は、もう誰かのために笑うのをやめました ~捨てた王子は後悔しても、もう遅いです~  作者: カルラ


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第一章 婚約破棄

王立学園の卒業記念舞踏会。

私、エレシア・ヴァルモントにとって、その夜は特別な意味を持っていた。

物心ついた頃から「未来の王妃」として育てられ、礼儀作法も、政治も、社交界の作法も、すべてを完璧にこなせるよう努力してきた。

今夜はその集大成となる夜になるはずだった。

鏡の前で何度も髪を整えながら、私は自分に言い聞かせていた。

今日で学園生活は終わる。

そして今夜、第一王子アルヴィン様との婚約披露が正式に発表される。

そう聞かされていたからこそ、いつも以上に念入りに支度を整えたのだ。

侍女たちが選んでくれた淡い水色のドレスに袖を通しながら、胸の奥がずっと落ち着かなかった。

嬉しいはずなのに、なぜか不安の方が大きい。

けれどそれを顔に出すことは許されない。

淑女とは、常に微笑んでいなければならない。

そう教え込まれてきた私にとって、それはもう呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。

会場に足を踏み入れた瞬間、シャンデリアの輝きに目を奪われる。

貴族たちの視線が一斉に私へ向けられた。


「さすがヴァルモント家のご令嬢ね」

「姿勢も表情も、完璧だわ」

「未来の王妃にふさわしい品格……」


そんな囁きが聞こえてくるたびに、私は胸の内でそっと安堵していた。

嫌われていない。

失望されていない。

今の私にとって、それだけが価値のあることだった。

アルヴィン様が壇上に上がったのは、舞踏会が始まって間もなくのことだった。

いつもより硬い表情で、隣には誰もいない。

私は自分の席で静かに彼を見つめていた。

きっと婚約発表の口上を述べるのだろう。

そう信じて疑わなかった。

胸の前で両手を重ね、私は姿勢を正して壇上を見上げる。


「これより、大切な発表がある」


アルヴィン様の声が会場に響き渡った。

私は思わず背筋を伸ばす。


「私、アルヴィン・クラウゼルは、エレシア・ヴァルモント嬢との婚約を、本日をもって破棄する」


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

会場のざわめきが、まるで水の中で聞くように遠く感じられる。


「彼女は王妃としての資質に欠ける」

「冷たく、感情を表に出さず、民に寄り添う心を持たない」

「そして私は、真実の愛を見つけた」


そう言って、アルヴィン様は一人の女性の手を取った。

聖女フィオナ様だった。


「フィオナこそ、次代の王妃にふさわしい女性だ」


会場は水を打ったように静まり返る。

誰も声を発しない。

私はただ、壇上の二人を見つめることしかできなかった。

冷たく、感情を表に出さない。

そう評された言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

そうだろうか。

私は本当に、そんな人間だったのだろうか。

十年近く、王妃教育に耐え、感情を押し殺し、彼のためにと信じて努力してきた日々が、脳裏を駆け巡る。

夜遅くまで続いたマナー教育。

分厚い政治経済の教本。

眠る間も惜しんで覚えた他国の言語。

すべては、彼の隣に立つにふさわしい人間になるためだった。

それなのに。 ――全部、否定された。

その事実が、遅れて、しかし容赦なく、私の全身を貫いた。

膝から力が抜けていく。

視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りがする。

立っていることさえ、急に難しくなっていく。


「……っ」


掠れた息が喉から漏れた次の瞬間、私はその場にへたり込むように崩れ落ちていた。

そして同時に――身体の奥が、わずかに制御を失った。

熱いものが、ほんの少しだけ、漏れ出す。

ちびり、と。

わずかな量だった。

けれど、それは確かにあった。

淡い水色のドレスの内側に、小さな、けれど確かな湿り気が広がる。

太ももに、ほんの一瞬だけ熱い感触が触れた。

私は、自分の身に何が起きたのかを理解した瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。


……漏らした?

今、私は……?

公衆の面前で。

未来の王妃として振る舞ってきたこの場で。

侯爵家の令嬢が。

ありえない。

ありえないことだ。

十八年、一度たりとも人前で粗相などしたことがない。

淑女としての矜持を、これほどまでに傷つけられたことはない。

強いショックが、胸の奥を鋭く抉る。

プライドが、音を立ててひび割れていくようだった。

「……嘘……」



小さく、掠れた声が漏れる。

まだ量は少ない。

まだ、染みもほとんど目立たないはずだ。

けれど、その事実自体が、私には耐えがたかった。

会場中の視線が、崩れ落ちた私に集中しているのが分かる。

誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。

押し殺しきれない囁きが、波のように広がり始める。


「……今、何か……」

「エレシア様が……座り込んで……」

「まさか……?」


私は震える指でドレスの裾を押さえ、どうにか目立たないようにしようとした。

けれど、その仕草自体が、かえって不自然に視線を集めてしまう。

そして――事の重大さが、徐々に、しかし確実に、私の中に沈み込んでいく。


婚約破棄。

王妃としての資質の否定。

公衆の面前での、この姿。

そして、今、自分の身体が制御を失いつつあるという事実。

頭の中が、徐々に白く染まっていく。

呼吸が浅くなる。

冷や汗が背中を伝う。

下腹部に、再び熱い圧迫感が押し寄せてくる。


だめ。

だめ、だめ、だめ。

これ以上は……絶対に……。


けれど、パニックが広がれば広がるほど、身体の力が抜けていく。


「いや……っ、止まって……」


心の中で必死に叫んでも、もう遅い。

最初の小さな漏れが、堰を切ったように、すべてを解放してしまった。

熱いものが、一気に溢れ出す。

止めようとしても、止まらない。

淡い水色のドレスの内側から、容赦なく染みが広がっていくのが、自分でもはっきりと分かった。

太ももを伝う熱い感触。

布地が重く湿って肌に張りつく不快感。

そして、床に落ちていく雫の音。

最初は小さな染みだったものが、みるみるうちに腰から太もも、裾へと広がり、床石の上にじわり、じわりと円を描くように水たまりを作っていく。

私は両手で自分の裾を押さえようとしたが、指先はがくがくと震えるだけで、何も掴めない。

むしろその仕草が、広がる湿った跡をより多くの視線に晒す結果となった。

会場中の視線が、崩れ落ちた私に集中する。

誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。

押し殺しきれない囁きが、波のように広がる。


「……今、漏らした……?」

「エレシア様が……公衆の面前で……」

「ドレスが……完全に……」


熱いような、凍りつくような感覚が同時に押し寄せてくる。

自分の下半身から流れ続ける熱い液体の感触と、冷たい床の感触が混じり合い、思考が真っ白になる。

消えてしまいたい。

今すぐこの場から消えてしまいたい。

心の底からそう思った。

けれど、まだ止まらない。

震えながらも、止められない流れが続き、すでにできた水たまりの中に、私は座り込んだまま動けずにいた。

十八年かけて積み上げてきた「完璧な淑女」の仮面が、音を立てて崩れ落ちていく音がした気がした。

顔が熱い。

耳の先まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。

涙が目尻から溢れ、頬を伝って顎から落ち、すでに広がった水たまりに混じっていく。

それでも、私の身体の奥では、長年叩き込まれた淑女教育が、最後の力を振り絞らせようとしていた。

震える脚に力を込め、濡れたドレスを引きずるようにして、私はゆっくりと立ち上がった。

太ももに張りついた冷たく湿った布地の感触が、一歩ごとに容赦なく伝わってくる。 床に残した水たまりと、自分の裾から滴り落ちる雫を、誰もが見ている。

顔を上げることだけは、意地でもやめなかった。

そして、精一杯の笑顔を作る。

声が震えそうになるのを、必死に抑えた。  


「アルヴィン様、フィオナ様」  


私の声は、思いのほか静かに会場へ響いた。  


「どうか、お幸せになってくださいませ」  


そう言って、深く頭を下げる。

その動作で、さらに裾から雫が床に落ちる音がした気がした。

会場のどこかから、小さく笑う声が聞こえた気がした。

けれど私は顔を上げなかった。

上げられなかった。

もし今、誰かと目が合ってしまえば、この笑顔が崩れてしまう気がしたからだ。

それだけは、絶対に避けたかった。

侯爵家の娘として、最後まで恥をさらすわけにはいかない――そう自分に言い聞かせながらも、すでに私は、誰の目にも明らかなほどに、恥を晒してしまっていた。

濡れたドレスを引きずり、太ももに張りついた不快感を抱えながら、私は会場を後にした。

すれ違う人々の視線が、背中に突き刺さる。

同情と、憐れみと、抑えきれない好奇と、嘲りの色が入り混じった空気。

そのすべてを受け止めながら、私はただ前だけを見て歩いた。

歩くたびに、湿った布地が肌に擦れ、床に小さな雫を落としていくのが分かった。

馬車に乗り込むまでの道のりは、驚くほど長く感じられた。

従者が扉を開け、私を促す。

その視線が、わずかに私の裾に落ちたのが分かった。

気のせいであってほしい。

けれど、気のせいではないだろう。

馬車に乗り込む。

重い、冷たく湿ったドレスが座席に沈み込む感触。

座った瞬間、ぬめりとした不快感が太もも全体に広がる。

布地が肌に張り付き、すでに冷めてきた湿り気が、容赦なく私の羞恥心を刺激する。

馬車が動き出す。

揺れのたびに、濡れた部分が肌に擦れ、小さな音がする気がして、顔が熱くなる。

座席を汚している。

侯爵家の馬車を、自分の……それで汚している。

その事実が、会場での出来事以上に、じわじわと胸を締め付けてきた。

誰も見ていないはずなのに。

従者と御者以外、誰もいないはずなのに。

濡れたドレスで馬車に揺られるこの状況が、ひどく、ひどく屈辱的だった。

窓の外を流れていく夜景を、私はぼんやりと眺めていた。

十八年間積み上げてきたものが、たった数分で崩れ去っていく。

その実感だけが、じわじわと胸を締め付けてくる。

屋敷に戻ると、父ダリウスが玄関で私を待っていた。

いつもなら書斎に籠っている父が、なぜこんな時間に。

そう思う間もなく、父の顔を見た瞬間、私の中で何かが崩れ落ちる。

そして――父の視線が、私の全身をゆっくりと見下ろした。

濡れたドレス。

太ももに張りついた布地。

裾からまだ滴り落ちそうな湿り気。

父は、すべてを理解したのだろう。

その目に、わずかな動揺が過る。

私は、その視線を受け止めた瞬間、会場で感じた以上の強い羞恥に襲われた。

お父様に……この姿を……見られた。

侯爵家の当主である父に、公衆の面前で粗相をした娘の姿を。

顔から火が出そうだった。

消えてしまいたい。

地面に沈んでしまいたい。


「お父様……」

 

声を発した瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。

十八年間、人前で泣いたことなど一度もなかった。

それなのに、今は止め方が分からない。

 

「私の努力は、全部無駄だったんですね……」

 

嗚咽混じりに、そう絞り出す。

 

「王妃になるために、ずっと頑張ってきたのに……」

「私は、冷たい女だったんですね……」

 

父は何も言わず、ただ黙って私を見つめていた。

厳格で、感情をあまり表に出さない人だ。

幼い頃から、褒められた記憶よりも、叱られた記憶の方が多い。

だからこそ、次に父が取った行動に、私は驚きを隠せなかった。

父は無言のまま歩み寄り、そっと私を抱き締めたのだ。

濡れたドレスなど構わず優しく抱きしめてくれた。

生まれて初めて感じる、父の腕の温もりだった。

 

「エレシア」

 

低く、けれど優しい声だった。

 

「もう、王妃になろうとしなくていい」

 

その一言に、私はさらに涙が止まらなくなる。

 

「今まで、よく頑張ったな」

「お前は、十分すぎるほど立派だった」

 

父の腕の中で、私はただ子供のように泣き続けた。

感情をそのまま出すという行為は、王妃教育の中では許されなかったものだ。

それを今、初めて心から許された気がした。

 

「これから、どうすれば……」

 

震える声で、そう尋ねる。

 

「何も、急がなくていい」

「今日はもう、ゆっくり休みなさい」

 

父の言葉に頷きながら、私は自分の中で何かが少しずつ変わり始めていることに気づく。

王妃になるという目標を失った今、私には何が残されているのだろう。

答えはまだ見つからない。

窓の外では、まだ王都のどこかで舞踏会が続いているのだろう。

けれど私の中では、何かが確かに終わりを告げていた。

同時に、何かが静かに始まろうとしていることにも、この時の私はまだ気づいていなかった。










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