第十四章 私の答え
建国祭から数日が過ぎた。
王宮での騒動は、瞬く間に国中へと広まっていった。
フィオナ様の国外追放と、アルヴィン様の王位継承権剥奪という衝撃的な結末は、貴族社会だけでなく、市井の人々の間でも大きな話題となっているようだった。
けれど、そうした喧騒とは裏腹に、侯爵邸での日々は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
あの夜以来、私の心には確かな静けさが広がっていた。
かつて自分を苦しめていた出来事のすべてが、今では遠い過去のことのように感じられる。
「お嬢様、今日はレオンハルト様がいらっしゃる予定ですね」
朝の身支度をしながら、ミレイユが嬉しそうに声をかけてくる。
「ええ、そうなの」
「何だか、少し緊張していらっしゃいますか」
その指摘に、私は思わず苦笑した。
「分かる?」
「お嬢様のことなら、何でもお見通しですよ」
ミレイユの朗らかな笑顔に、私も自然と頬が緩んだ。
湖畔での求婚から、もうすぐ二ヶ月になろうとしている。
あの日、私はまだ確かな答えを出せずにいた。
けれど今、自分の胸の中には、はっきりとした答えが形になり始めていた。
午後、庭に姿を見せたレオンハルト様は、いつもより少し緊張した面持ちをしていた。
「今日は、良い天気だな」
そう切り出す声も、どこかぎこちない。
「はい、とても穏やかな日ですね」
庭のベンチに並んで座りながら、私たちはしばらく他愛のない会話を交わした。
けれど、お互いの心の中には、まだ交わされていない大切な言葉があることを、二人とも分かっていた。
やがて、レオンハルト様が静かに口を開いた。
「エレシア嬢」
その声には、以前湖畔で聞いたのと同じ、真剣な響きがあった。
「あの日から、ずっと考えていた」
彼は少し言葉を選びながら、続けた。
「君は、多くのものを失い、そして自分の力で新しい道を切り開いてきた」
「その強さを、私は心から尊敬している」
私は静かに、彼の言葉に耳を傾けた。
「だからこそ、改めて伝えたい」
レオンハルト様は、まっすぐに私の目を見つめた。
「君が笑える未来を、一緒に作りたい」
その言葉は、湖畔で聞いた求婚の言葉よりも、さらに深く胸に染み渡っていった。
王妃としての役割ではなく、私自身の幸せを願うその言葉に、私の心は静かに、けれど確かに動かされていた。
私はしばらく、目を閉じて自分の気持ちと向き合った。
婚約破棄されたあの日から、今日までの長い道のりが、脳裏を駆け巡る。
すべてを失ったと思った絶望の夜。
庭で初めて本音を漏らした日。
市場で子供たちと戯れた温かな午後。
領地の仕事で誰かの役に立てた喜び。
そして、レオンハルト様と過ごした、数え切れないほどの穏やかな時間。
そのすべてが、今の私を形作っている。
私はゆっくりと目を開け、レオンハルト様を見つめた。
「レオンハルト様」
声が、少しだけ震えた。
けれどそれは、不安からくる震えではなかった。
「私は、王妃という役割のために、あなたの隣を選ぶのではありません」
私は自分の胸に手を当てながら、続けた。
「私自身の意思で、あなたと共に歩んでいきたいと思っています」
その言葉と共に、私の目からは自然と涙が溢れ出していた。
「よろしくお願いします」
その一言に、レオンハルト様は一瞬言葉を失ったように立ち尽くしていた。
やがて、彼の目にもうっすらと涙が滲んでいるのが見えた。
「エレシア……」
彼は静かに私の手を取り、そっと口づけを落とした。
「ありがとう」
「君の隣にいられることを、生涯かけて誇りに思う」
その言葉に、私はさらに涙を溢れさせながら、静かに微笑んだ。
婚約が正式に成立したという知らせは、その日のうちに屋敷中を駆け巡った。
「お嬢様、おめでとうございます!」
真っ先に駆けつけたミレイユは、目に涙を浮かべながら私を抱きしめた。
「本当に、良かったです」
「お嬢様がここまで幸せそうな顔をされているのを見るのは、初めてです」
その言葉に、私も涙を堪えきれなかった。
夕方には、父も書斎から出てきて、私たちの前に姿を現した。
普段は感情をあまり表に出さない父だったが、この日ばかりは、その目に確かな喜びの色が浮かんでいた。
「エレシア」
父は静かに、けれど温かい声で私の名を呼んだ。
「お前が、ようやく自分の幸せを見つけたことを、心から嬉しく思う」
その言葉に、私は父の胸に飛び込むように抱きついた。
「お父様……ありがとうございます」
「レオンハルト殿下」
父はレオンハルト様に向き直り、深く頭を下げた。
「娘を、どうかよろしくお願いいたします」
「必ず、彼女を幸せにすると誓います」
レオンハルト様の力強い言葉に、父は静かに頷いた。
その夜、屋敷の使用人たちも集まり、ささやかながらも心のこもった祝いの席が設けられた。
厨房で働く料理人たちは、腕によりをかけて特別な料理を用意してくれた。
庭師たちは、庭の花々を摘んで、テーブルを彩ってくれた。
「お嬢様、本当におめでとうございます」
長年仕えてくれている使用人の一人が、目に涙を浮かべながらそう言ってくれる。
「お嬢様が苦しんでいらっしゃった時、私たちも本当に心配しておりました」
「けれど今は、こんなにも幸せそうなお顔を見せてくださって」
その言葉に、私は改めて、多くの人々に支えられてきたことを実感していた。
一人では、決してここまで辿り着けなかった。
家族の温かさ、使用人たちの献身、そしてレオンハルト様との出会い。
そのすべてが、今日という日に繋がっている。
祝いの席が和やかに続く中、私はふと窓の外に目を向けた。
夜空には、満天の星が輝いている。
その美しさに、思わず息を呑んだ。
「綺麗な夜空ですね」
隣に立ったレオンハルト様に、そう呟く。
「ああ、本当に」
彼は静かに頷きながら、私の肩にそっと手を添えた。
「これから、この星空の下で、たくさんの思い出を重ねていこう」
その言葉に、私は静かに、けれど確かな幸せを胸に抱いた。
かつて、婚約破棄という絶望の淵に立たされたあの夜。
自分にはもう何も残されていないと思い込んでいた。
けれど、あの経験があったからこそ、私は自分自身と向き合い、本当の強さと、本当の幸せの意味を知ることができた。
そして今、心から信頼できる人の隣で、新しい人生の扉を開こうとしている。
星空を見上げながら、私は静かに、これまでの道のりに感謝の思いを馳せていた。
失ったものの先に、こんなにも温かい未来が待っているとは、あの絶望の夜には想像もできなかった。
けれど今、確かにその未来は、私の手の中にある。
レオンハルト様の温もりを感じながら、私は静かに、けれど確かな幸せに満ちた笑みを浮かべていた。
一方、国境を越えた遠い地では、まったく異なる日々が始まっていた。
フィオナは、隣国の片田舎にある小さな神殿に送り込まれていた。
その国は長年聖女不足に悩まされており、
「本物でなくても構わない。聖女の名を冠する者がいればそれでいい」
という、かなり事情の切羽詰まった状況だった。
国外追放となった偽聖女であっても、表向き「聖女」として迎え入れる価値はあったのだ。
だが、歓迎の空気などどこにもなかった。
建国祭の大広間で、国外追放の判決を受けた瞬間に公衆の面前で失禁してしまったトラウマは、彼女の身体と心に深く刻み込まれていた。
夜になると、決まって同じことが繰り返される。
寝床で目を覚ますたび、シーツが冷たく湿っている。
最初の数日は「一時的なものだ」と自分に言い聞かせていたが、一週間経っても、二週間経っても止まらなかった。
朝になると侍女たちが無言でシーツを替え、 濡れたそれを干していく。
その光景を見た神殿の人間たちは、すぐに噂を広げた。
「あの偽聖女、毎晩おねしょらしいよ」
「判決の時に漏らしたのがトラウマになって、治らないんだって」
「聖女のくせに、子供みたいに夜尿症か」
嘲りの声は、日に日に露骨になっていった。
フィオナは最初、必死に反論した。
「違う! これは……一時的なものよ! 私は聖女なのよ!」
しかし、誰もまともに取り合わない。
むしろ、彼女が声を荒げれば荒げるほど、周囲の目は冷たくなる。
ある日、若い神官が笑いながらこう言った。
「また漏らしたのか? 本当に幼子だな」
フィオナの顔が一気に真っ赤になる。
「な、何ですって……! あんたなんかが私に……!」
怒鳴り返した瞬間だった。
神官がわざとらしく一歩近づき、低く、威圧するように言い放った。
「うるさい。子供は大人しくしてろ」
その瞬間、フィオナの身体がびくりと痙攣した。
下腹部に、突然の激しい圧迫感が走る。
「……っ」
彼女はとっさに脚を閉じ、スカートを押さえようとしたが、もう遅かった。
熱いものが一気に溢れ、太腿を伝って床に落ちていく。
昼間だというのに、彼女は立ったまま、人前で漏らしてしまったのだ。
神殿中に失笑が広がった。
「ほら見ろ、怒っただけで漏らした」
「完全に幼児だな」
「聖女が、威圧されただけでお漏らしとは……」
フィオナは床に膝をついたまま、両手で顔を覆って泣き叫んだ。
「やめて……見ないで……お願い……!」
しかし誰も助けない。
むしろ、彼女が漏らすたびに「またやった」「幼児聖女」と囃し立てる声が増えていく。
怒ればすぐに漏らす。
泣けばさらに馬鹿にされる。
抵抗すればするほど、身体が制御を失い、彼女は完全に「幼子」として扱われるようになっていった。
夜のおねしょは治る気配がなく、昼間も些細な威圧で漏らしてしまう。
シーツを替える音、乾いた嘲笑、床に残る水たまり。
それらすべてが、彼女の誇りを少しずつ、確実に削り取っていく。
かつてエレシアを「公衆の面前でみっともなく汚した」と執拗に嘲っていた自分自身が、今や毎晩、そして日中までも、同じ醜態を晒し続けている。
その皮肉が、彼女をさらに深く追い詰めた。
一方で、遠く離れた故郷では、エレシアが二日でおねしょを克服し、三日目には立ち直り、今や隣国王子の婚約者として幸せを掴んだという噂が、風の便りに届いてくる。
そしてそれを聞いた民はそれすらもフィオナをバカにするネタにするのだ。
「あの令嬢は、公開で漏らした後も二日で治したらしい」
「心が強いからな。すぐに立ち直った」
「対して、こっちの偽聖女は……」
その対比が、フィオナを最も残酷に切りつけた。
エレシアは二日で身体も心も立て直した。
おねしょを繰り返し、威圧されただけで漏らしてしまう自分とは、心の強さが根本から違うのだ。
その事実を突きつけられるたび、フィオナは夜の闇の中でシーツを濡らしながら、ただ無力に嗚咽するしかなかった。
屈辱の日々は、終わる気配すらなかった。
偽聖女として迎えられたはずの国で、彼女は「おねしょの幼子」として、永遠に笑いものにされ続ける運命を歩み始めていた。
それと同時刻、エレシアの前には全く違う光景が広がっている。
侯爵邸の夜空は、相変わらず穏やかに輝いていた。
私はレオンハルト様の隣で、静かに星を見上げ続けた。
遠いどこかであのフィオナが苦しんでいたとしても、今の私には、もう関係のないことだった。
自分の足で立ち、自分の意思で選んだ未来。
その温もりを、私は確かに抱きしめていた。




