第十五章 誰かのためではなく
婚約が成立してから、半年の月日が流れた。
その間、私はアークレイン王国とこの国を行き来しながら、結婚に向けた様々な準備を進めてきた。
隣国の言葉や風習を学び直し、王妃としての公務についても改めて理解を深めていく。
けれど、その学びは以前とはまったく違う意味を持っていた。
「以前の王妃教育とは、何が違うのだろうか」
ある日、隣国から派遣された教師にそう問われたことがある。
私はしばらく考えてから、こう答えた。
「以前は、誰かに嫌われないために学んでいました」
「今は、大切な人と、その国の人々のために、学びたいと思っています」
その言葉に、教師は静かに微笑んでくれた。
「その心構えこそが、良き王妃の資質でしょう」
その一言が、これまでの努力を静かに肯定してくれるようだった。
結婚式を控えたある日、私は久しぶりに、あの薔薇園のベンチを訪れていた。
母を亡くしてから疎遠になっていたこの場所も、今では大切な思い出の地となっている。
レオンハルト様と初めて言葉を交わした、あの日の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
「ここが、すべての始まりだったのね」
一人そう呟きながら、私は静かに空を見上げた。
あの日、涙に濡れていた空は、今日は雲一つない青空が広がっていた。
そして迎えた結婚式当日。
王都中が、祝福の空気に包まれていた。
大聖堂へと向かう馬車の中で、私は窓の外に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
沿道には、数え切れないほどの人々が集まり、祝いの声をかけてくれている。
「エレシア様、おめでとうございます!」
「どうか、お幸せに!」
その声の一つ一つが、これまでの日々を肯定してくれるように、胸に染み渡っていく。
領地の仕事を通じて出会った農民たち。
孤児院で共に過ごした子供たちとその関係者。
そうした顔見知りの姿も、沿道のあちこちに見えた。
「お姉ちゃん、おめでとう!」
見覚えのある女の子の声に、私は思わず涙ぐんだ。
かつて市場で共に鬼ごっこをした、あの子だった。
大聖堂の中で、私は純白のドレスに身を包み、レオンハルト様の到着を待っていた。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、これまでの道のりを静かに振り返る。
婚約破棄されたあの夜、崩れ落ちながらも必死に作った、あの偽りの笑顔。
けれど今、鏡の中の自分は、心の底からの笑顔を浮かべている。
その違いを、私はしみじみと噛み締めていた。
「お嬢様」
支度を手伝ってくれていたミレイユが、涙を堪えながら声をかけてくる。
「本当に、綺麗です」
「ありがとう、ミレイユ」
私はそっと彼女の手を握った。
「あなたがいなければ、私はここまで辿り着けなかったわ」
「そんな……」
「私は、ただお嬢様の隣にいただけです」
「その隣にいてくれたことが、どれほど支えになったか」
私たちはしばらく、互いに涙を拭い合いながら、静かに微笑み合った。
やがて、大聖堂の扉が開かれる時が来た。
父に手を引かれ、私はゆっくりとバージンロードを歩き始めた。
参列者たちの視線が、一斉にこちらへ向けられる。
以前であれば、その視線に押しつぶされそうになっていただろう。
けれど今の私は、堂々と前を見据えていた。
「エレシア」
隣を歩く父が、静かに声をかけてくる。
「お前は、本当に立派になった」
「お母さんも、きっと空から見守っているはずだ」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「ありがとうございます、お父様」
「これまで、本当にお世話になりました」
祭壇の前で、父は私の手をレオンハルト様へと渡した。
「娘を、よろしくお願いします」
「必ず、幸せにいたします」
その誓いの言葉を交わし、父は静かに一歩下がった。
祭壇の前に立つレオンハルト様は、これまで見たことのないほど、晴れやかな表情を浮かべていた。
「綺麗だ」
小さくそう囁かれ、私は頬を染めながら微笑んだ。
司祭による厳かな儀式が進む中、私たちは互いに永遠の愛を誓い合った。
「病める時も、健やかなる時も、共に歩むことを誓いますか」
その問いかけに、私は迷いなく答えた。
「誓います」
レオンハルト様も、確かな声でそう応じた。
誓いの口づけを交わした瞬間、大聖堂全体が、割れんばかりの祝福の拍手に包まれた。
式典の後、私たちはバルコニーに立ち、集まった民衆に姿を見せた。
眼下に広がる、数え切れないほどの笑顔。
その光景を目にしながら、私は静かに、けれど確かな感慨に浸っていた。
その群衆の中、少し離れた場所に、一人の人物が立っているのが目に入った。
アルヴィン様だった。
王位継承権を失った彼は、今では静かに市井に近い生活を送っているという噂を聞いていた。
彼は遠くから、こちらをじっと見つめている。
その表情には、悲しみと、けれど確かな諦観と、そして静かな祝福の色が浮かんでいるように見えた。
一瞬、視線が交わる。
私は小さく、けれど確かに頭を下げた。
彼もまた、静かにそれに応えるように、頭を下げてくれた。
その一連の仕草の中に、これまでの様々な感情への、静かな決別があったように思う。
アルヴィン様は、その後静かに、群衆の中へと姿を消していった。
彼はきっと、ようやく理解したのだろう。
自分が失ったのは、単なる「婚約者」ではなく、「人生を共に築いてくれる、唯一無二の女性」だったのだと。
その理解が、あまりにも遅すぎたことも、また事実だった。
けれど、その事実と向き合いながら、これから彼なりの人生を歩んでいくのだろう。
そのことを、私は静かに願っていた。
バルコニーに立ち、群衆の歓声を浴びながら、私はレオンハルト様の手をそっと握った。
「幸せか」
彼が、静かに尋ねてくる。
「はい」
私は迷いなく、そう答えた。
「心から、幸せです」
その言葉に、レオンハルト様は柔らかく微笑んだ。
私が浮かべているこの笑顔は、かつて王妃教育で覚えた、完璧な作り笑いではない。
誰かに嫌われないための、取り繕った表情でもない。
これは、私自身の心から溢れ出す、本当の笑顔だった。
婚約破棄されたあの夜、私はすべてを失ったと思った。
けれど、その絶望の淵に立たされたからこそ、私は自分自身と向き合うことができた。
誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きること。
その意味を、長い時間をかけて、少しずつ学んできた。
領地の仕事を通じて知った、誰かの役に立つ喜び。
孤児院の子供たちが見せてくれた、無邪気な笑顔。
家族や使用人たちが与えてくれた、変わらぬ温かさ。
そして、レオンハルト様が教えてくれた、ありのままの自分を愛することの尊さ。
そのすべてが、今日という日に繋がっている。
夕暮れの光が、バルコニーに立つ私たちを、優しく照らしていた。
眼下に広がる、祝福の声で満ちた王都の景色。
その光景を胸に刻みながら、私はレオンハルト様と手を取り合い、新しい人生へと、静かに歩き出した。
誰かに愛されるためではなく、自分自身の意思で選び取った、この幸せな未来へ。
終幕




