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夫が十年間『魔王討伐の遠征』と言い張った先に、別の妻と子どもがいました。  作者: 渚月(なづき)


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第9話 法廷に立つ薬師

聴聞会の法廷は、王宮の東棟にある。


石造りの広間に、長い机が二つ向かい合わせに置かれている。天井は高く、ステンドグラスの窓から色とりどりの光が床に模様を描いている。一方にわたしとノーラン。もう一方にギルベルトとオズヴァルト伯爵の代理人。傍聴席には宮廷の関係者が詰めかけている。


傍聴席の空気が張り詰めている。宮廷の文官たちが小声で何かを囁き合い、騎士団の関係者が腕を組んで壁際に立っている。英雄の裁きという前代未聞の事態に、宮廷中が注目していた。


アーデルハイト王太子妃が裁定者として上座に座っている。銀灰色の髪がまっすぐに流れ、その表情には一切の感情がない。白い服に銀の装飾だけという装いが、この場の厳粛さを際立たせている。


「では、聴聞会を始めます」


王太子妃が紅茶を一口飲んだ。儀式が終わり、裁定が始まる。


「申立人、イルゼ・ファーレン。主張を述べなさい」


わたしは立ち上がった。手は震えていない。薬師の手だ。調合するときと同じ。正確に、冷静に、必要なものだけを取り出す。


「わたしは三つのことを申し立てます。一つ目、ギルベルト・ファーレンとの婚姻の解消。二つ目、ギルベルト・ファーレンおよびオズヴァルト伯爵による薬草の不正流通の告発。三つ目、元薬務局主任薬師ヨナス・メルツおよび薬務局長ベアーテの死に関する調査の要請」


法廷がざわめいた。傍聴席のあちこちで顔を見合わせる人々。ギルベルトの顔が強張る。伯爵の代理人が書類を見直している。


ノーランが証拠書類を順番に提出した。付箋が色分けされた書類が、裁定者の前に整然と並ぶ。黄色、青、赤——わたしが初めて見たときと同じ色分けだ。


「まず、婚姻解消について。ギルベルト・ファーレンは遠征先で別の女性と婚姻関係を結んでいます。戦地婚の特例が適用されるには、三つの条件が必要です。遠征の実態確認、現地の権限者の承認、そして本国の配偶者への通知。このうち、第三の条件——通知が一度もなされていません」


「証拠は?」とギルベルト側の代理人が問う。


「申立人が十年間に渡り送付した手紙四十通以上の写しが残っています。日付、内容、宛先が全て記録されている。一方、ギルベルト・ファーレン側には受領記録がない。なぜなら——」


ノーランが一枚の書類を示した。辺境からの返信の写しだ。


「——連絡便の発送手続きを担当していたヨナス・メルツが、オズヴァルト伯爵家の家令として、手紙を意図的に止めていた。辺境の薬師ギルドの記録に、ヨナス・メルツの名前がオズヴァルト伯爵家の取引連名者として残っています。つまり、通知が届かなかったのは偶然ではなく、組織的な工作です」


法廷が静まり返った。


ギルベルトが口を開いた。


「イルゼ、これは——」


「発言は裁定者の許可を得てから」


王太子妃の声が冷たく遮った。ギルベルトが口を閉じる。この場では、英雄の名声は通用しない。


「続けなさい」


ノーランが二つ目の証拠に移った。


「薬草の不正流通について。故ベアーテ薬務局長が個人的に記録していた薬草流通の記録によれば、オズヴァルト伯爵管轄の薬草流通から年間約二割が行方不明になっています。これは遠征軍の補給名目で計上されていますが、辺境の薬師ギルドには遠征軍への納品記録が存在しません」


わたしが立ち上がった。


「薬師として補足します。消えた薬草の中に銀蓮花が含まれています。銀蓮花は正規の薬務では扱えない規制品目です。解毒作用がある一方で、精製方法によっては強い幻覚作用を持ち、多くの国で取引が禁じられています。正規ルートでは動かせないからこそ、遠征という名目が必要だったのです」


「つまり?」と王太子妃。


「遠征費の名目で銀蓮花を含む希少薬草を調達し、正規ルートを通さずに闇市場に流していた疑いがあります。これは私個人の推測ではなく、ベアーテ元局長が十年かけて記録した流通の差異と、辺境のギルドの取引記録の突合によって裏付けられています」


オズヴァルト伯爵の代理人が立ち上がった。


「これらは状況証拠に過ぎない。伯爵への直接的な指示を示す証拠はあるのか」


ノーランが最後の書類を出した。


「二つあります。まず、ソニア・ファーレンの証言書です。辺境の自宅に、オズヴァルト伯爵の家紋入りの封書が定期的に届いていた。その封書には薬草の買い付け指示が記載されていたと、ギルベルト本人が漏らしている」


「それと——」


わたしは懐から師匠の手帳を取り出した。最後のページを開く。


「ベアーテ先生の記録の最後のページに、オズヴァルト伯爵の直筆署名入りの指示書の写しが挟まれていました。師匠は、万が一のために、伯爵の指示書を自分の手で書き写していたのです。筆跡鑑定に耐えるよう、原文の特徴も注記してあります」


法廷が揺れた。傍聴席からどよめきが起こる。



裁定は、その日のうちに下された。


アーデルハイト王太子妃は紅茶を飲まなかった。つまり、もう判断は済んでいた。証拠を見た時点で、結論は出ていたのだ。


「ギルベルト・ファーレンの戦地婚は無効。通知義務の不履行および組織的な工作が認められる。イルゼ・ファーレンとの婚姻解消を認める。ファーレン家の財産はイルゼ・ファーレンに帰属する。ギルベルト・ファーレンには騎士爵の剥奪と宮廷からの追放を命じる」


ギルベルトの顔から血の気が引いた。「待ってくれ」と言いかけたが、言葉は途中で消えた。


「オズヴァルト伯爵については、薬草の不正流通および関連する死亡事案について、正式な調査を開始する。調査期間中の伯爵の全権限を凍結する」


伯爵の代理人が何か言おうとしたが、王太子妃の目がそれを封じた。


「なお、ベアーテ元薬務局長およびヨナス・メルツの死因については、別途、王宮の司法部門が調査する。トリカブトによる毒殺の疑いが強い」


わたしは椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。


終わった。——いや、まだ終わっていない。これは「小勝」だ。伯爵の処分が確定するまで、完全な決着ではない。


けれど、十年の嘘は、今日、この法廷で崩れた。


法廷を出るとき、ノーランがわたしの隣を歩いた。いつもより、半歩だけ近い。


「お疲れさまでした。……ファーレンさん」


「ノーランさん。ありがとう」


「礼には及びません。これは法務局の職務——」


「職務じゃない部分もあったでしょう。お姉さんのこと」


ノーランが足を止めた。廊下のステンドグラスの光が、彼の横顔に色を落としている。


「……ええ。姉の件も、調査対象に含まれました。五年越しの——」


「よかった」


ノーランが前を向いた。その横顔に、初めて——穏やかな表情が浮かんでいた。険しさが溶けて、年相応の柔らかさが見えた。


法廷から薬草園への帰り道、ギルベルトがわたしを呼び止めた。


「イルゼ。最後に一つだけ言わせてくれ」


「何?」


「……きみのためを思って——」


「その言葉は、もう聞き飽きたわ」


わたしは振り返らなかった。ギルベルトの足音が遠ざかる。十年前は追いかけたかった背中を、今は自分が残して歩く。


回廊の窓から、薬草園が見えた。夕日に染まったカモミールの花が、風に揺れている。あの場所に帰ろう。わたしの居場所はあそこだ。十年前も、今も、これからも。


懐に入れた師匠のカモミールが、かすかに甘い匂いを放っていた。


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