第8話 白い花が散るとき
破り取られた伝票。証拠隠滅の手は、こちらの動きと同じ速さで動いている。
「リヒト、残っている伝票の内容を全て書き写して。日付と品目、署名の有無だけでいい。急いで」
「はい!」
リヒトが走り出す。ポケットの乾燥ラベンダーを握りしめる音が、かすかに聞こえた。
わたしは薬務局の窓から中庭を見た。ヨナスの姿はない。裏切りが露見した以上、もう薬務局には来られないだろう。辞表も出さずに姿を消した。主任薬師の机は空になり、引き出しも空だった。
けれど、ヨナスが持ち出した情報はまだ伯爵の手の中にある。こちらの調査の進捗も、証拠の所在も、すべて筒抜けになっている可能性が高い。
(時間がない。聴聞会の前に証拠を固めなければ)
ソニアが証言を文書にまとめてくれた。丁寧な字で、辺境での暮らしを綴っている。ギルベルトが定期的に薬草の買い付けに出かけていたこと。宮廷から使者が来ていたこと——その使者は常にオズヴァルト伯爵の家紋入りの封書を持っていたこと。封書の中身は薬草の買い付け指示だったと、ギルベルトが一度だけ漏らしたこと。
そして、ギルベルトが「この仕事が終われば、宮廷に戻って大きな地位が得られる」と言っていたこと。
ノーランはそれらを法務局の形式に整え、証拠番号を振った。一つ一つに付箋を貼り、時系列に並べる。彼の仕事は精密で、見ていると安心する。書類の束が積み上がるたびに、わたしたちの武器が増えていく実感がある。
ノーランの仕事ぶりを見ていると、法という制度の力を感じる。わたしが薬草の知識で毒を見分けるように、この人は法の知識で嘘を見分ける。手帳の記録が薬草の言葉で書かれた告発状なら、ノーランの書類は法律の言葉に翻訳された武器だ。
師匠とノーランが直接会う機会はなかった。けれど、二人は同じことをしていた——事実を記録し、嘘を暴くという仕事を。
「ファーレンさん。証拠は揃いつつありますが、一つだけ足りないものがある」
「何?」
「動機です。オズヴァルト伯爵がなぜ、薬草の不正流通を行う必要があったのか。伯爵家の財政は表向き安定しています。薬草利権を持っているなら、正規の流通でも十分な利益が出るはず。わざわざ危険を冒して裏ルートを使う理由が見えない」
わたしは考えた。
薬草の知識がここで生きる。師匠の手帳に記された品目を思い出す。消えた薬草の中に、希少種が含まれていた。高山セージ、黄金カモミール——そして、銀蓮花。
銀蓮花は特殊な薬草だ。正式にはアネモネ・アルゲンテアと呼ばれ、高山地帯にのみ自生する。解毒作用があるが、精製方法によっては強力な幻覚作用を持つ。精製の過程で生成されるアルカロイドが中枢神経に作用し、強い恍惚感と幻視を引き起こす。
歴史上、古代ギリシャのデルポイの神託所では、神官たちが月桂樹の煙を吸引して「神の声」を聞いたとされている。同様に、幻覚作用のある植物は権力者に重用されてきた。
禁制品に指定されているにもかかわらず、闇市場での需要は絶えない。貴族の社交界では「銀の夢」と隠語で呼ばれ、密かに取引されているという噂を、師匠から聞いたことがある。師匠はその話をするとき、珍しく声を潜めていた。
多くの国で規制されており、正規の流通では扱えない。闇市場でのみ取引される禁制品だ。
「……銀蓮花」
「銀蓮花?」
「師匠の記録に含まれている希少薬草の一つです。正規の薬務では扱えない規制品目。解毒作用がある一方で、精製方法によっては強い幻覚作用を持ちます。正規ルートでは売買できないからこそ、裏ルートでの価値は跳ね上がる」
「つまり、それを遠征の名目で調達し、闇市場に流していた」
「ええ。銀蓮花の精製品は、闇市場では通常の薬草の十倍以上の価値があります。正規流通では出せない利益です。伯爵にとって、遠征というカバーストーリーがあればこそ、大量の規制品を動かせた」
ノーランが真剣な目でわたしを見た。
「薬師の知識は、法廷で武器になりますね」
「師匠が教えてくれたことです。薬の知識は人を助けるためにある。でも、知識がなければ毒に気づくこともできない——って」
◇
聴聞会の前日、オズヴァルト伯爵がわたしの元を訪ねてきた。
薬草園の門の前に、恰幅の良い紳士が立っている。高級な香水の匂いが、薬草の匂いを消している。笑顔だが、目は笑っていない。
「イルゼ嬢。少し話をしよう」
「伯爵閣下。何のご用でしょうか」
「聴聞会のことだよ。——取り下げる気はないかね?」
穏やかな声。茶会で相手の弱みを探るときと同じ表情だと、噂で聞いていた。実際に目の前にすると、その圧は想像以上だ。
「条件は悪くない。離縁は認めよう。ファーレン家の財産の半分と、宮廷薬師の地位の保証。悪い話ではないだろう?」
「師匠の死についてはどうなりますか」
伯爵の笑顔がわずかに固まった。
「ベアーテは老齢だった。持病もあったはずだ」
「師匠に持病はありませんでした。六十年、一度も寝込んだことのない人です。わたしが十年間、師匠の健康状態を記録してきました。薬師の記録は正確です」
「……イルゼ嬢。宮廷というのは、複雑な場所でね。全てを明るみにすることが、必ずしも正しいとは限らない。知らなくていいこともある」
「正しいかどうかはわたしが決めることではありません。法がそれを決めます」
伯爵の目が細くなった。穏やかな紳士の仮面の下に、冷たいものが見える。
「……若いということは、残酷だな。まあいい。聴聞会で会おう」
伯爵が去った後、わたしは門に手をついた。膝が笑っている。
怖くないわけがない。相手は宮廷の権力者だ。わたしは一介の薬師に過ぎない。
けれど、足元に白い花が咲いていた。カモミール。師匠が植えた株が、季節外れの花をつけている。
カモミールの花言葉は「逆境の中の力」。古代エジプトでは太陽神に捧げる花として崇められた。小さな白い花弁が、踏まれても踏まれても立ち上がる。その強さを、古の人々は見抜いていた。
わたしはその花を一輪摘んで、手帳の間に挟んだ。
翌日、聴聞会の法廷で戦えるように。
その夜、ヨナスが宮廷の裏門で発見された。
意識不明。呼吸が浅く、瞳孔が散大し、徐脈——わたしが師匠に見たのと、同じ症状だった。トリカブトの中毒。
口封じだ。ヨナスがわたしに話したことは私的な告白に過ぎない。法廷で正式に証言されれば、伯爵の指示系統が公的記録として残る。それを防ぐための処置。伯爵は、裏切り者すら切り捨てる人間だった。冷徹で、合理的で、残酷な判断。
ヨナスは、翌日に息を引き取った。最後まで意識は戻らなかったという。聴聞会の証人席に立つことは、もうない。
わたしは、恨んでいた人間の死を悼めない自分に気づいて、薬草園で泣いた。
師匠のときとは違う涙だ。もっと苦い、もっと複雑な涙。裏切り者だったとしても、ヨナスはかつてわたしの先輩だった。新人のわたしに茶を淹れ、調合を教え、笑いかけてくれた人だった。その記憶は嘘ではない。
リヒトがそっと隣に来て、何も言わずにハンカチを差し出してくれた。ポケットからラベンダーの匂いがした。
リヒトの手は小さくて、まだ薬師の手ではない。けれど、必要なときに隣にいてくれる。それだけで十分だ。
明日は聴聞会。わたしは法廷に立つ。薬師として、そして——師匠の弟子として。
乾燥棚の上に、師匠が最後に吊るしたカモミールの束がまだ残っている。もう十分に乾いていた。わたしはそれを丁寧に取り外し、布袋に入れた。聴聞会の日、懐に入れていくつもりだ。お守りなんて非科学的だと師匠は笑うだろうけれど。




